小石勝朗「法浪記」

 静岡地裁の再審(裁判のやり直し)開始決定を受けて昨年3月に釈放された袴田巖さん(78歳)は、初めての年末年始を郷里の静岡県浜松市で、餅つきしたり初詣に出かけたりして過ごしたそうだ。

 自由の身になるまで、死刑判決の確定から33年、逮捕されてからだと48年近く。長期間の身柄拘束による拘禁反応で相変わらず脈絡のない言葉が目立ち、周囲を気にしないマイペースの生活というが、共に暮らす姉の秀子さん(82歳)のサポートを受けて元気に毎日を過ごしていることが何より喜ばしい。

 袴田さん姉弟の日常を追うドキュメンタリー映画の製作発表も、1月末に行われた。「巖さんの存在自体がメッセージを発している。2人が生きてきた軌跡に僕らが思いを寄せる作品にしたい」と金聖雄監督。日々の暮らしの中にある喜びや発見を丁寧に描くことで、司法のむごさや未だに死刑囚の身分のままでいることの理不尽さが伝わると考えている。

 記者会見に出席した巖さんは「映画なんて、みなウソだ。信じるんじゃない」と飄々と語っていたが、その発言自体が事件発生から半世紀近くの「重み」を浮き彫りにしていると捉えれば、作品の狙いを理解できるに違いない。映画は年内の公開をめざしている(映画のホームページはこちら)。

 その「袴田事件」。再審開始決定~袴田さんの釈放ですべて決着したと思っている方も多いが、検察が静岡地裁の決定を不服として即時抗告したため「再審を始めるかどうか」の審理が東京高裁(大島隆明裁判長)で続いている。いつも強調させてもらっているが、袴田さんの身分は前述した通り「確定死刑囚」のままなのだ。

 昨年暮れと2月10日に開かれた裁判所、検察、袴田さんの弁護団による三者協議で、即時抗告審での審理のポイントが絞られてきたようなので、経過を報告したい。

 東京高裁での主な争点は、静岡地裁が再審を始めるのに必要な「新証拠」と認めた2点だ。1つは、袴田さんの犯行着衣とされていた「5点の衣類」に付着した血痕のDNA鑑定について。もう1つは、事件後1年2カ月も経って味噌タンクから見つかった5点の衣類の「色」について。現段階で焦点が当たっているのは、DNA鑑定の方だ。

 DNA鑑定をめぐって静岡地裁が新証拠と認定したのは、弁護団が推薦した法医学者・H氏による5点の衣類の鑑定結果だった。特に、被害者ともみ合った際にけがをした袴田さんの血液とされてきた半袖シャツ右肩の血痕について、袴田さんから採血して得たDNA型と比較し、「本人と一致しない」とした鑑定結果が決定的だった。被害者の返り血とされてきた他の血痕についても、H氏は「被害者の血液は確認できなかった」と結論づけている。地裁決定が、5点の衣類には「捏造された疑いがある」と断じる根拠になった。

 これに対して、検察は東京高裁に提出した即時抗告の申立理由補充書で、H氏の鑑定の信用性を攻撃する作戦に出た。標的にしたのは、H氏が独自に編み出した鑑定手法。1つは微量のDNAにバナジウムという物質を加えて増幅させる方法(PCR増幅)で、もう1つは唾液や皮脂、汗などが混じっている可能性のある試料から血液に由来するDNAを取り出す方法(選択的抽出方法)である。目下、議論が続いているのは、選択的抽出方法の有効性についてだ。

 検察は地裁決定の後、科学警察研究所と法医学者に依頼して、H氏の選択的抽出方法の「再現実験」をしたという。科警研が実施したのは、32年前にガーゼに付けた血液と、半年前にガーゼに付けた血液にそれぞれ別人の唾液を混ぜ、選択的抽出方法でDNA型を調べる、という方式だ。その結果、「半年前」の試料からは血液と唾液双方のDNA型を検出。「32年前」の試料から検出されたのは唾液のDNA型だけで、血液のDNA型は出なかった、としている。

 つまり、H氏の選択的抽出方法では血液のDNAを選り分けて抽出することはできない、特に袴田事件のような古い試料からは血液由来のDNAを抽出することはできない、と言いたいわけだ。

 ちなみに、検察はこれを受けて、地裁段階でのH氏の鑑定ではH氏自身のDNAが混入して検出されていたと主張し、それを前提にH氏がDNA型の判定を改変したとの疑いまで指摘しているそうだ。H氏はこれまでに他の多くの事件で検察に依頼されて鑑定を引き受け、有罪判決の拠り所となる結果も提供しているのに、である。袴田さんの弁護団は検察に対して「H氏の名誉を棄損する違法な主張」と強く抗議している。

 で、検察は自らの「再現実験」の結果をもとに、裁判所が選任する第三者によって同様の検証実験をするよう東京高裁に求めている。選択的抽出方法を用いれば、古い試料から血液に由来するDNAを抽出することができるのか、また、血液由来のDNAを抽出する可能性を高めると評価できるのか、を確かめるため、と狙いを述べているという。

 その検証実験をするかどうかをめぐって、現在、主に裁判所と弁護団でやり取りが行われている。

 東京高裁は昨年末の三者協議で、第三者による検証実験について「少し気になるので、裁判所の疑問をそこだけ実験で確かめたい」と弁護団に提案したという。弁護団は2月初めに「選択的抽出方法はすでに世界的に受け入れられており、科学的な合理性は十分だ」として「検証実験は不必要・不相当。かえって審理を長引かせ、無用な混乱を招くだけ」と主張する意見書を提出したが、高裁の納得は得られておらず、2月10日の三者協議でも弁護団と「押し問答をしている」状態だったという。

 こうなってくると、なんだか検察のペースで三者協議が進んでいるようにも見えてくる。再審開始決定が覆されてしまいはしないだろうか。

 弁護団が検証実験を不必要とする大きな理由は、そもそも血痕が付着していると認定された部分から採取した試料でDNA鑑定を実施しているのだから、なぜ今さら血液に由来するDNA型かどうかが争点になるのか、という疑問だ。他の事件でも、血液の付着がはっきり確認された試料から抽出したDNAは、血液に由来するものだと承認されているという。

 「5点の衣類」のDNA鑑定は、第1次再審請求の1998~2000年にも実施されている。その際、DNA型については「鑑定不能」だったが、血液型は識別できていた。つまり、同じ場所に血液型を判定できるレベルの血液が付着しているのは確実だった。血液に由来するDNAが消えてなくなることはあり得ないし、乾燥して固まった血液細胞は皮脂や汗、唾液に含まれる剥離した皮膚細胞よりも残存性が高く、細胞内のDNAも長期的に保存されるので、血痕由来のDNAが優先して検出されると説明している。

 H氏が鑑定で選択的抽出方法を使ったのは、静岡地裁から「DNAが血液に由来する可能性」を鑑定事項として求められたためで、あくまで「補足的な手順」にすぎず、この手法を用いないでも鑑定結果に変わりはない、とも強調している。さらに、検察の「再現実験」に対しても、「血液とは全く関係のないDNAが多数検出される」という結果が出ていない以上、H氏の鑑定の信用性を否定する材料にはならない、と反論している。

 弁護団には、なぜ高裁の審理で新たな検証実験が論点になるのか、という思いもあるようだ。刑事裁判では控訴審(2審)は「事後審」で、1審の訴訟記録をもとに1審判決の妥当性を事後的に判断するのが原則とされており、これは今回のような再審請求での即時抗告審にも準用される。基本的に一から事実調べをやり直すことは想定されておらず、検証実験を実施する必要はない、との論理である。

 2月10日の三者協議後の記者会見で、西嶋勝彦弁護団長は「検証実験は抗告審が予定していない構造だ」と言及。他の弁護士も実務上の経験をもとに「もし立場が逆で、同じような検証実験を弁護団が求めていたら、裁判所はここまで向き合うだろうか」と高裁の対応に疑問を投げかけていた。

 ある弁護士は「仮に検証実験をする場合、たとえば5点の衣類と同じ48年前の血痕はどうやったって調達できないわけで、地裁での鑑定と完全に条件を一致させることは不可能だから、どこかが違う結果になる可能性は十分にある。何か一つでもそうした要素が出れば、検察はそれに乗じてH氏の鑑定結果すべてが間違っているとの主張を展開するだろう」と警戒感を露わにしていた。確かに高裁審理での検察のなりふり構わない姿勢を見ていると、そんな不信を抱くのもやむを得ないと思う。

 ただし、裁判所が選択的抽出方法にこだわるのは、この手法の有効性さえクリアになればDNA鑑定に関する弁護団の主張を受け入れられるので、その部分の補強を求めている、とみることもできる。一概に「裁判所が検察の主張に傾いている」とばかりも言い切れないのが悩ましいところだ。

 検証実験をするかどうか、東京高裁は4月の次の三者協議で方向を打ち出す可能性が高い。実施となれば、実験の条件をどうするか、誰に実験してもらうか等々、詰めるべき課題はたくさんあり、結果が出た後もその意義づけをめぐる関係者の尋問などで相当の時間を要することは間違いない。

 折しも、昨年末の三者協議では、捜査段階での袴田さんの取り調べを録音したテープが静岡県警の倉庫で新たに見つかったことが明らかにされ、テープは1月末に弁護団に開示された。計48時間分あり、犯行を否認していた時点のものや「自白」に転じた日のものなど「かなり生々しい声が入っている」そうだ。なぜ今になってテープが急に出てくるのか、という疑問は解けないにせよ、弁護団はこれを「新証拠」にする計画で、文字化したり内容を解析したりするのに、やはり相当の時間がかかりそうだ。

 ということで、東京高裁の即時抗告審は長期化するおそれが出てきた。

 真相に近づくために必要な審理を、拒む理由はない。今のところは、即時抗告審が長引くことによって袴田さんの安穏とした暮らしが乱される心配もなさそうだ。ただ、いたずらに裁判を引っ張った挙句に万が一にも再審開始決定が取り消されるような事態になれば、袴田さん姉弟の心身へのダメージは計り知れないことを、関係者は十分認識しておかなければならない。

 再審の目的は、あくまでも袴田さんの雪冤と名誉回復である。高齢の袴田さんへの配慮を忘れずに審理を進めてほしい、と願うばかりだ。

 

  

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第42回
DNA鑑定をめぐって綱引きが続く「袴田事件」~高裁審理に長期化のおそれ
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    世間的にも大きな注目を集めた袴田事件の再審開始決定と袴田さんの即時釈放。このニュースによって、冤罪というものが改めて認知をされ、日本の死刑制度への違和感を持つ人が以前より若干増えたとのことです。しかしながら、一度決定された「死刑判決」が、袴田さんと家族からあらゆるものを奪っていったことについて、改めて考えるべきではないでしょうか。

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小石勝朗

こいし かつろう:記者として全国紙2社(地方紙に出向経験も)で東京、福岡、沖縄、静岡、宮崎、厚木などに勤務するも、威張れる特ダネはなし(…)。2011年フリーに。冤罪や基地、原発問題などに関心を持つ。最も心がけているのは、難しいテーマを噛み砕いてわかりやすく伝えること。大型2種免許所持。 共著に「地域エネルギー発電所 事業化の最前線」(現代人文社)。

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