小石勝朗「法浪記」

 カーブが続く山道で車を運転中にたまたま反対車線に停まっていた車が、後になって殺人事件に関係しているかもしれないと知った時、その特徴をどれほど思い出せるものなのか。こんなテーマが重要な論点に浮上している裁判がある。

 「飯塚事件」をご存じだろうか。

 1992年2月に福岡県飯塚市で起きた、小学1年の女子児童2人の誘拐殺人事件だ。犯人と直接結びつく物証や自白はなく、2年半後に逮捕された久間(くま)三千年さんは一貫して犯行を否認したものの、2006年に最高裁で死刑判決が確定した。そして、通常のペースよりかなり早く、2年後の08年に執行された。70歳だった。

 判決が久間さんの犯行と認定した決め手は、DNA鑑定だった。女児の遺体のそばに付着していた血液などから採取したDNA型と久間さんの型が一致した、とされた。

 ところで、そのDNA鑑定を実施した機関と手法は、時期の近接した「足利事件」と同じだ。後になって鑑定結果が間違いだと判明し、無期懲役刑の確定していた男性が再審(裁判のやり直し)で無罪になった事件である。当時はDNA鑑定の導入初期で、精度は高くなかった。

 こうした事情も踏まえ、久間さんの妻は2009年に福岡地裁に再審開始を申し立てる。再審請求審で新たに開示されたDNA型のネガフィルムを法医学者に解析してもらったところ、裁判で証拠採用された写真よりも広い範囲が写っており、焼き付けられていない部分に真犯人のものとみられるDNA型が写っていることが分かった、と弁護団は主張してきた(詳しくは、どん・わんたろう「死刑が執行された後に冤罪と判明する、なんてことが…~『飯塚事件』の現在地」〈マガジン9〉をお読みください)。

 と、事件の経緯と内容を簡単に紹介しただけでも、何か引っかかるものがないだろうか。死刑制度の是非はあくまで別問題として、ストレートに死刑(というか有罪)判決を認めるには、すっきりしない要素が多いのだ。早すぎる刑の執行にしても、足利事件で同じ方式でのDNA鑑定の信用性が揺らぎつつあった時期であり、当事者を早く消してしまうためではなかったのか、との疑念さえ囁かれている。

 しかし、福岡地裁は昨年3月、再審請求を棄却する。久間さん側は決定を不服として即時抗告し、福岡高裁で審理が続いている。ちなみに、福岡地裁が決定を出したのは、「袴田事件」の再審開始を認めた静岡地裁決定の4日後のことだった。

 で、久間さん側の弁護団が即時抗告審で大きなテーマにしようと考えているのが、冒頭で触れた「山道での目撃証言の信用性」なのだ。

 ん? だったらDNAの再鑑定をすればいいじゃないか、とお考えの向きもあるだろう。確かに90年代に比べてDNA鑑定の精度は格段に上がっているから、袴田事件や足利事件のように再鑑定ができれば一発でシロクロがはっきりしそうだ。しかし、飯塚事件に関しては肝心の遺留物が残っていない。たくさんあったはずの試料は「鑑定で使い切った」などとされている。これも不審なことだが。

 加えて、再審請求を棄却した福岡地裁決定は、DNA鑑定に関する弁護団の主張を退けながらも「現段階では、当時のDNA鑑定の結果をもって単純に有罪認定の根拠とすることはできない」と指摘している。当時の鑑定の信用性に慎重な姿勢を示したわけだ。そのうえで「DNA鑑定以外の状況証拠を総合した場合でも、久間さんが犯人であることについて合理的な疑いを超えた高度の立証がなされていることに変わりはない」との論理を展開した。

 つまり、弁護団はDNA鑑定以外の状況証拠を潰していくことで、久間さんが犯人だとする総合評価を崩そうとしているのだ。

 さて、「山道での目撃証言」である。3月7日に弁護団が開いた現地見学会に参加してきたので、その様子と合わせて検証してみたい。

 目撃証言とは、どんな内容なのだろうか。女児が連れ去られた約2時間半後の午前11時ごろ、女児の衣類や所持品が投棄されていた場所に「久間さんの車と特徴が一致する車が停まっていた」ことを裏付けた証言を引用する。死刑判決を支える有力な状況証拠になっている。

 「車両番号は分かりませんが、普通の標準タイプのワゴン車で、メーカーはトヨタや日産ではないやや古い型の、車体の色は紺色、車体にはラインが入っていなかったと思いますし、確か後部タイヤがダブルタイヤ(筆者注:片側2本で1組のタイヤ)であった。さらにタイヤのホイルキャップの中に黒いラインがあったと思います。車の窓ガラスは黒く、車内は見えなかったように思いますので、ガラスにフィルムを貼っていたのではないかと思います」

 さらに、車のそばにいた人物についても「男は、40代の中年位で、カッターシャツに茶色のべストを着ており、髪の毛は長めで前の方が禿げているようだった」と証言している。

 ここで注意が必要なのは、冒頭にも記したように、これが車を運転しながらの目撃であることだ。片側1車線とはいえ下りのカーブが続く山道で、現場は左カーブ。その反対車線の路肩に車が停まっていた。目撃者は時速25~30キロで走行しており、車と人物を見ることができた時間は十数秒。後部ガラスや人物は、運転しながら振り返っても見たという。もちろん目撃時点では、停まっていた車と人物が事件に関係している可能性があるとは知らない。

 目撃者は山林の仕事に携わっている男性で、この場所をよく通っていたことや乗り慣れた車を運転していたこと、冬の時期は往来が少ない道なので何をしているのかと疑問に感じたこと、翌日夕方に事件のことを知って同僚に話したこと、日ごろから車に関心を持っていたことを考慮したとしても、偶然行き過ぎた車に対してこれだけ詳しい情報を記憶しているものだろうか。警察にこの証言をしたのは目撃した18日後である。

 現地見学会では、参加者が実際にこの道を同じくらいのスピードの車で走ってみた。目撃現場に車を置いてそばに人物が立つなど似たような状況を作り、それをどこまで覚えていられるか実感してもらうのが狙いだ。参加者は、その場所がどこなのかや、どんな車が置かれているかについて、事前に具体的な情報を聞いていない。

 現地から戻っての意見交換では、運転者から「脱輪しないか、対向車が来ないか気になって、車をよく見られなかった」などの感想が出た。「どこに車があったのか、人がいたのか、気づかなかった」と言う参加者もいた。弁護団が停めておいた車が「黒色」の「ワゴン」ということまでは覚えている人も多かったが、それを含めて車の特徴を3つ以上正しく答えられたのは4分の1ほどだった。

 私は大型2種免許を所持し、日常的に乗用車を運転している。見学会では運転はせず後部座席に乗車していたが、正解したのは「黒色」「ワゴン」とナンバーの3点。よほど意識を集中して見ない限り、運転中に目撃証言のように多くの要素を一度に記憶することはできないと感じた。何より、車と人物の特徴を同時にインプットするのは、かなり無理がある。運転しながら後ろを振り返ることは経験的に可能だと思うが、その一瞬に覚えていられる情報は何か1点がせいぜいだろう。

 再審請求審で開示された捜査報告書によって、この目撃証言が警察で調書にされる2日前に、すでにマークしていた久間さんの車を警察官が見に行っていたことが分かった。弁護団は目撃証言について、後で与えられた情報が無意識のうちに記憶に埋め込まれる「事後情報効果」や、取調官からの示唆によって記憶の確信度が上がる「肯定的フィードバック」の影響を受けていると主張している。

 弁護団共同代表の徳田靖之弁護士は「(目撃して11日後の)最初の証言は『紺色のワゴン車』だけだった。このくらいなら納得できるが、前輪と後輪の大きさが違うからダブルタイヤだなどと、あの状況でいくつもの詳しい特徴を見分けることはできないはずだ。事前に車を見ていた警察官が誘導して証言が作られていったのだろう」と強調していた。

 再審請求審で弁護団は、同じ場所に同様の現場を設けて30人に「再現実験」したところ1人も目撃証言のような記憶をなし得なかったとする心理学者の鑑定書を提出したが、福岡地裁は「実験の条件が目撃者と異なる」と顧みなかった。今後、カーブを走行する際に運転者の視線はカーブ内側の先端部に向くこと(タンジェント・ポイント現象)~目撃現場では停まっていた車の方向には行かない~などを新たな鑑定書にまとめて福岡高裁に出すなど、目撃証言の信用性や正確性をさらに否定していく方針だ。

 再審が実現して無罪判決が出たとしても、久間さんの命が戻ってくることはない。それでも、死刑判決に疑問が生じている以上は徹底的に真実を追求すべきであることは言うまでもない。目撃証言が死刑判決の正当性を左右する重要なポイントだからこそ、福岡高裁には現場検証や鑑定、専門家の証人尋問の実施を含めて十分な審理を尽くすように強く望みたい。

 

  

※コメントは承認制です。
第44回
山道を運転中にたまたま見た車の特徴をどれだけ覚えていられるのか~「飯塚事件」再審請求の論点
」 に3件のコメント

  1. magazine9 より:

    冤罪が許されないことであるのはもちろんですが、特にこの事件の場合、すでに「犯人」とされた人の命が失われてしまっているだけに、やりきれない思いにとらわれます。死刑制度存置の是非はさておいても、これだけグレーな部分が指摘されていながら、それを無視して「すみやかに」刑が執行されるなんてことが、あっていいのでしょうか。
    間違いではなかったというのなら、誰もが納得のできる説明を。そしてもし、許されないけれども間違いだったのであれば、せめて一刻も早い謝罪と名誉の回復、そして再発防止の仕組みづくりを、と思います。

  2. A より:

     捜査ミスや、検察が事実をねじ曲げたくなる気持ちは、ゼロにはならないと思います。人は誰でも間違えるし、保身に走りたくなる前提で制度を組むべきです。だから、せめて死刑にはするな。DNA鑑定の試料を「鑑定で使い切った」などというのもしかり。取り返しのつかないことはするな、と心底思います。

  3. 稗田 広明 より:

    この事件は、死刑判決時から、冤罪を確信しております。ハンコを押したのは森法相でした。再審に尽力されている方々にエールを送ります。

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小石勝朗

こいし かつろう:記者として全国紙2社(地方紙に出向経験も)で東京、福岡、沖縄、静岡、宮崎、厚木などに勤務するも、威張れる特ダネはなし(…)。2011年フリーに。冤罪や基地、原発問題などに関心を持つ。最も心がけているのは、難しいテーマを噛み砕いてわかりやすく伝えること。大型2種免許所持。 共著に「地域エネルギー発電所 事業化の最前線」(現代人文社)。

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