小石勝朗「法浪記」

 9月20日、東京郊外の米軍・横田基地(横田飛行場)を訪れた。前日から2日間にわたって開かれた「日米友好祭」を見学するためである。

 広大なエプロンの一角に、米軍の新型輸送機・オスプレイ(MV22)をはじめ戦闘機や輸送機、ヘリコプターなど米軍と自衛隊の約30機がずらりと並ぶ。各機のそばで、制服の米兵たちが笑顔で記念撮影に応じている。オスプレイなど一部では、機内に入ることや操縦席に座ることもできた。

 訪れていたのは軍事・航空マニアばかりではない。むしろ、ほとんどが親子連れや友人どうしやカップルといった「普通の市民」だ。カメラや携帯電話を機体や米兵たちに向けて盛んにシャッターを切り、機内見学の順番待ちに長蛇の列を作る。出店のステーキやピザやビールを味わい、ワッペンやTシャツを買い求め、ステージのライブ演奏に身を躍らせる。

 印象的だったのは、日本人来場者たちの開放感漂う楽しそうな表情だ。帰り際には、ゲート前で米兵にハイタッチする多くの若い女性がいた。

 これが安全保障関連法の成立からわずか2日後の、日本の「現実」なのである。不明を恥じるようだが、少なからずショックだった。

 この場で「ここにいるフレンドリーなアメリカの兵隊さんたちが敵に攻撃されて困っている時に、日本の自衛隊が助けてあげるのが集団的自衛権の目的です」と説明されれば、おそらく8割以上の人が「そういうことなら賛成です」と答えるに違いない。そう確信させられた。

 もちろん私の「確信」に厳密なエビデンスはない。でも、それは「国会前のデモこそが民意だ」という主張と同じレベルのことではないか、とも考え込んでしまった。1回のデモの参加者数さえ、12万だとか3万だとか判定する組織によって大きな開きがあって、正確には立証できないのだから…。ちなみに、横田基地友好祭の来場者は、2日間で18万5000人だったそうだ。

 勘違いされては困るが、国会前のデモを批判する意図は毛頭ない。ここで言いたいのは「民意」をどうやって表すか、あるいは計るかっていうのは、いかに難しいかということだ。

 「国会前のデモこそが民意だ」「基地友好祭の盛り上がりこそ民意だ」という仮説のどちらにせよ、もしその場の人数や見た目だけで成り立たせ得るとするならば、「声の大きい側」「動員力のある側」の主張だけが通ってしまうことになりかねない。それを危惧する。私の考えがデモと同じだとしても、そういう曖昧な「民意」をもって政策が決まってしまうのは嫌だし、かえって恐ろしいことだからだ。

 「民意」と言うからには、国民全体の意思をきっちり「数字」で表すことが不可欠ではないだろうか。

 民意を表す材料としてマスコミの世論調査が挙げられるけれど、そんなに信用性が高いものではあるまい。せいぜい1000人余のサンプルだし、いきなり電話で「賛成か、反対か」と聞かれての感覚的な反応であって表層的、断片的な数字にすぎない。たとえば、朝日新聞の調査で「安保法制に反対」が5割だといっても、産経新聞・フジテレビの調査では「安保法制は必要」が7割を占めている。じゃあどっちが正しいのかと問われても、誰も証明できまい。

 ところで、一連の安保法制の議論をめぐって私が有権者として最も不満だったのは、集団的自衛権の行使容認や関連法案に対して、自分の意思をきちんと反映させるプロセスとシステムがなかったことだ。国のあり方や国民の生命・財産と密接に関わる重要なテーマにもかかわらず、ついに主権者としての意見を直接尋ねられる機会はなかった。

 たしかに昨年12月に衆院選はあった。集団的自衛権の行使容認はその半年前に閣議決定されていたのだから、衆院選の時点で今日のような事態は容易に予想され得た、という批判はもっともだ。選挙の争点としてしっかり問題提起しなかったマスコミの責任は重い。

 それでも、選挙はシングルイシューではあり得ない。衆院選で集団的自衛権を選択のポイントにした有権者もいるだろうけれど、安倍首相が言明した「アベノミクスや消費増税延期の是非」で判断した有権者も多いだろう。そして、アベノミクスに賛成の人がすべて、集団的自衛権に賛成とは限らない。だから、選挙で勝ったので公約で触れたことは何をやってもいい、ということにはならないのだ。有権者は国会議員に、決して「白紙委任」しているわけではない。

 憲法は議会制民主主義を定めている。とはいえ、それが完璧なシステムでないことは、誰もが感じているのではないか。いかにして間接民主制を補完し、民意を正確に汲み取るか。隙間を埋める仕組みが求められている。

 私は、国民投票制度を導入することが、その解決策になると考える。憲法改正の国民投票とは別に、たとえば「原発」「脳死」といった一般的な政策課題の是非を問う国民投票である。選挙と同様の手続きによって、個々の国政のテーマに対する国民の意思を数字で表してこその「民意」だからだ。

 では、一般的な国民投票を制度化する場合には、どんな内容になるのだろうか。

 「国会が国権の最高機関で、唯一の立法機関」と謳う憲法41条との関係で「諮問型」の国民投票になる。投票結果がただちに直接的な強制力を持つのではなく、具体的にどう結果を政策に反映させるかは政治の裁量に委ねられる方式だ。もちろん、国会が投票結果をないがしろにするようなことがあれば重大な民意無視として次の選挙で審判されるから、政治的な拘束力は極めて強い。

 一口に国民投票と言っても、さまざまな建てつけが想定できる。

 たとえば、一定の割合の有権者が国民投票を求めたら自動的に実施されるようにするのもよし、国会で成立した法律の可否を国民投票で審査できるようにするのもよしだ。投票テーマについても、当初は財政に関わる項目は除外するなど、いろいろなステップがあっていいだろう。最低投票率や絶対得票率(賛否どちらかが有権者の一定割合を超えていること)の規定を成立要件に入れるかどうか検討するのもありだ。個人的には、憲法改正の国民投票とは切り離した枠組みにすべきだと思う。

 「大事なことは国民みんなで決めよう」という制度なのだから、みんなでよく話し合って、日本独自のやり方を築いていくことが重要である。

 意外と知られていないことだが、2010年に施行された憲法改正国民投票法では、選挙権・成人年齢の18歳への引き下げ、公務員の国民投票運動の制限緩和とともに、「憲法改正の対象となり得る問題」をはじめとした一般的な国民投票制度の導入が「3つの宿題」の1つに挙げられている。集団的自衛権の行使容認なんかは、明らかにこの範疇に入っている。

 一般的な国民投票はすでに国政で検討すべき課題にエントリーされ、国会の憲法審査会で定期的に議論することで与野党が合意しているにもかかわらず、自民党を中心に異論が強く、放置されている。私たち主権者が実現を要求していく根拠は十分にあるのだ。

 さて、「国民投票を」と呼びかけると、反対するのはいわゆるリベラル系の方々のほうが多い。私たちは今年はじめに、集団的自衛権の行使容認の是非を問う国民投票を提唱したが、ほとんど関心は集まらなかった(詳しくは、拙稿「『集団的自衛権』を国民投票に」参照)。平たく言うと「負けたらどうするんだ」と懸念されたらしい。

 でも、厳しい言い方をすれば、今回もデモ「だけ」では負けてしまったのだ。国民投票が実現していたら、極めて民主的に集団的自衛権を撃退できたかもしれない。仮に負けても「反対票」が数字に残るのだから、投票後に一定の影響力が保持されたのは間違いない。重要な政策が国会議員の多数決だけで決められてしまう限り、今回のような事態は繰り返される。

 いわゆる保守系の方々も、国会の議決の正当性を担保するために、国民投票を前向きに捉えるべき段階にきているのではないだろうか。国会での数を頼んで最後は強行採決でゴリ押しするような決め方を続けていくならば、高圧的な姿勢が「感じ悪い」と受けとめられて、有権者から背を向けられる日はそう遠くない気がする。

 国民投票が求められる理由はほかにもある。「熟議」というプロセスを伴うことだ。

 これまでに私が取材してきた全国各地の住民投票で実証されてきたことだが、有権者は投票のテーマについて幅広くかつ深く学び、議論を重ねたうえで、悩みながらも考え抜いて自らの1票を投じている。有権者の意識と関心の高まりが公的機関に必要な情報を開示させ、さらにそこから議論が盛り上がる。国民投票になれば、幅や奥行きがもっと広がり、議論の質量ともに上がるに違いない。

 その帰結としての投票結果だから、投票テーマを具体的な政策にするに当たっても、国民のコンセンサスが得やすくなるはずだ。自分たちが参画して決めたことであればこそ、結果に対する国民の責任感も高まるだろう。

 「勝手に決めるな」。シールズの皆さんは国会前でそう叫んでいた。その真意は単純に安保法制反対が先にあるのではなく、「国民を議論に参加させず、国民の意見を聞かないまま決めるな」というところにあるのだろうと忖度する。

 であるならば、政治家に勝手に決めさせないために、国民投票はうってつけの制度ではないだろうか。間接民主制への疑問や不信が高まっている今だからこそ、国民投票を制度化する機運が沸き起こることに強く期待している。

 

  

※コメントは承認制です。
第57回
今こそ「国民投票」の制度化を
」 に3件のコメント

  1. magazine9 より:

    先週UPした小熊英二さんのインタビューでも、人々をいま抗議行動に駆り立てているのは、安保法制だけではなく原発再稼働や国立競技場の問題など、さまざまなことに対する「勝手に決めるな」という思いではないか、という指摘がされていました。選挙だけでは、必ずしも「民意」を政治に反映しきれない、と感じた人も多かったはずです。その「民意」を別の角度から測る一つの手段である「国民投票」。皆さんは、どう考えますか?

  2. L より:

     国民投票は良さ気に見えるが、教科書的に言えば極右政権の下では碌でもないことに繋がるという。西ドイツ人は懲りたということだ。
     日本でも、大阪市解体の住民投票があったが、嘘とハッタリとムードでほとんど半分の票を取ったではないか?
     「勝手に決めるな!」は私にとっても、世界の仲間にとっても切実な思いだが、スイス人のようなもっと直接民主主義的なあり方を考えたほうが無難だと思う。

  3. とろ より:

    国民投票やるのはいいと思いますけど,外交や軍事に関することについては反対ですね。
    投票する前提としての知識や内情に,政治やっている人達と一般人では圧倒的な差があると思います。
    外交や軍事の素人大臣を嘲笑していた時ありましたよね。例えば鳩山さん。
    あの人も総理やっている途中で米軍の存在がやっとわかったという方でしたし。
    総理大臣であれです,一般人ならなおのこと国民投票をすると同じことが起きかねませんから。

←「マガジン9」トップページへ   このページのアタマへ↑

マガジン9

小石勝朗

こいし かつろう:記者として全国紙2社(地方紙に出向経験も)で東京、福岡、沖縄、静岡、宮崎、厚木などに勤務するも、威張れる特ダネはなし(…)。2011年フリーに。冤罪や基地、原発問題などに関心を持つ。最も心がけているのは、難しいテーマを噛み砕いてわかりやすく伝えること。大型2種免許所持。 共著に「地域エネルギー発電所 事業化の最前線」(現代人文社)。

最新10title : 小石勝朗「法浪記」

Featuring Top 10/77 of 小石勝朗「法浪記」

マガ9のコンテンツ

カテゴリー