小石勝朗「法浪記」

 2020年の東京オリンピック開催が決まった途端、9月12日に死刑が執行されたのは、決して偶然ではあるまい。特にヨーロッパでは、死刑を執行するのは野蛮な国という価値観が強く、EU(欧州連合)は日本に死刑の停止・廃止を強く働きかけている。当然、日本の官僚がそれを知らないはずはない。定期的な死刑執行と同時に、五輪開催地の決定に不利に作用しないようにと「配慮」した結果なのだろう。

 しかし一方で、死刑の停止・廃止を求める日本国内の世論が盛り上がっているとは言えないのも事実だ。国会でも同様のようで、一時は100人を超えた超党派の「死刑廃止を推進する議員連盟(死刑廃止議連)」のメンバーは、昨年来の衆院選・参院選で落選が相次ぎ、激減したそうだ。自公政権は当面、ハイペースの死刑執行を続けることが予想される。

 では、どうすれば良いのだろうか。

 そんな折、日本弁護士連合会(日弁連)が9月下旬に「最高刑シンポジウム」を開いた。副題は「死刑に代わる最高刑として、仮釈放のない終身刑についても議論を」。つまり、刑務所から一生出られない刑罰を設けて、死刑の代替刑にできないか、という問題提起である。なかなか興味深い議論が行われていたので内容を紹介し、その是非について考えてみたい。

 シンポでは最初に、アメリカ・テキサス州へ「終身刑調査」に行った日弁連・死刑廃止検討委員会から視察の報告があった。

 テキサス州は、米国内でも死刑執行が断トツに多い州だ。米国で死刑が復活した1976年以降、これまでに500人以上に死刑を執行した。これは米国全体の約4割にあたる。昨年も15人に執行しており、5年前の半分近くに減ったとはいえ、米国全体の3分の1以上を占めている。

 そんな州が2005年9月に、死刑を存置したまま仮釈放のない終身刑を導入した。提案した州議員によると、「死刑にしないと被告人が将来社会に戻ってくる。でも冤罪かもしれない」という両面で不安を抱く陪審員の心理的な負担の軽減が大きな目的だった。犯罪被害者の遺族にも「凶悪な犯罪者が再び社会に戻ることはない」と一定の理解が得られたそうだ。

 私が驚かされたのは、導入の理由の一つに「死刑事件にかかる費用の削減」が挙げられていたことだ。米国では、死刑事件には「スーパー・デュー・プロセス」と呼ばれる特別に厳格な手続きが定められており、公費負担の弁護士費用などが膨大になる。死刑執行に至る費用は1件あたり230万ドル(2億3千万円)にものぼり、単純に計算すると、終身刑や懲役刑で40年服役した場合の3倍になるという。日本ではどうなのか、検証のために法務省による詳細な情報公開が必要だ。

 テキサス州では終身刑の導入後、どんな変化があったのだろう。

 検事は「死刑の求刑件数が減った」と説明した。05年以前は、死刑の対象になる殺人事件のうち10件に1件の割合で死刑を求刑していたのが、20件に1件でしか求刑しなくなったそうだ。その結果として、死刑判決も減少した。04年の24件が、05年から10件台前半で推移し、09年以降は1ケタになっている。背景に米国内での死刑の減少傾向はあったとはいえ、同州の弁護士も検事も「終身刑の導入が死刑減少の一因」と分析している。

 日弁連・同委員会は「終身刑が導入されていなければ、06年以降の死刑判決が増加した可能性も否定できず、終身刑によって少なくとも死刑判決の増加を阻止することはできたと言える」と捉えたうえで、「被害者や陪審員(日本で言う裁判員)からもそれなりの賛同が得られており、米国の死刑廃止州のほとんどで終身刑が導入されていることからも、終身刑が死刑の代替刑として一定の機能を果たすことは明らかである」と評価していた。

 その後のパネル討論で、終身刑導入を推進していく意向を表明したのは、死刑廃止議連会長の亀井静香・衆院議員である。

 「自由無期刑(終身刑)の導入によって、死刑を事実上なくしていく。廃止の一里塚にしたい」と亀井さんは強調した。終身刑の創設には自民党の幹部級からも賛意が寄せられていたそうで、議論の準備を進めるために5年前に加藤紘一・元自民党幹事長を会長とする超党派の議員連盟が発足している。こちらも、加藤会長をはじめ落選者が相次いでしまったらしいが…。

 半面、慎重論も出された。パネル討論で、笹倉香奈・甲南大准教授(刑事訴訟法)がいくつかの問題点を指摘した。

 その一つは「社会復帰という刑罰の理念を捨てることになる」点だ。終身刑は、一生出所できない=社会には戻れない。現行の無期懲役刑なら、可能性はかなり低いとはいえ仮釈放の希望もあるが、全くそれがない中で、どうやって刑務所での生活を送らせ、受刑者を更生させれば良いのか。テキサス州の刑務所では脱走する終身刑受刑者もおり、刑務所幹部から「処遇は非常に困難」との声が聞かれたそうだ。

 日本の法曹関係者の間にも「かえって残虐な刑罰になる」との懸念があるらしい。アメリカの連邦裁判所は「18歳未満への終身刑適用は憲法違反」との判断をしているという。欧州人権裁判所でも最近、服役後の再審査が制度化されていないイギリスの終身刑は欧州人権条約に違反するとの判決が出た。

 笹倉さんは、刑罰が重くなる心配も示していた。実際、テキサス州では、これまで有期刑が適用されていた犯罪への刑罰が、終身刑にシフトしているそうだ。すでに重罰化の傾向がみられる日本でも起こり得る事態だろう。刑罰全体のあり方という観点からの検討が必要になりそうだ。

 実は日弁連は、厳罰化のおそれなどを理由に終身刑の導入に反対する意見書を出したことがある。とはいえ、死刑の執行停止や廃止へ向けてほかに妙案があるわけでもない現状では、亀井さんの言うように当面は終身刑創設の動きを進めることによって「死刑廃止の一里塚」にしていくしかないのだと思う。笹倉さんも「終身刑が必ずしも死刑廃止に結び付くとは限らない」とクギを刺しながらも、「運動論としての導入ならあり得る」と話していた。

 ところで、政府が死刑存続の根拠として錦の御旗のように掲げるのが、内閣府が2009年に実施した世論調査の結果だ。「場合によっては死刑もやむを得ない」(容認派)が85.6%、「どんな場合でも死刑は廃止すべきだ」(廃止派)が5.7%だった。しかし、容認派の中には「状況が変われば廃止してもよい」と答えた人も34.2%おり、終身刑の導入=状況の変化と位置づけて、この層を死刑停止・廃止に引きつけていく取り組みが必要だ。

 ちなみに、世論が死刑を支持していても、政治主導で廃止した国は多い。日弁連の資料によると、1981年に廃止を決めたフランスでは当時の死刑支持率は62%、69年廃止のイギリスでは81%だった。「生命権をはじめとする基本的人権の侵害は許されない」という認識が「世論」を超え、死刑廃止に動いたわけだ。日本でも、終身刑という代替策を示すことで世論にアピールしながら、人権や国際感覚に根ざした政治的な決断を促していくしかあるまい。

 亀井さんは「議論の基本は、冤罪のおそれもあるのに、国家権力が生命まで奪っていいのか、ということ。人の生き方や痛みについて、国民が思いを致さなくなっている」と語った。たとえば「飯塚事件」のように死刑執行後に冤罪の疑いが強まり、遺族が再審請求しているケースもある。「袴田事件」のように、事件発生から50年近くも無実を訴え続けている死刑囚もいる。冤罪が発覚してから死刑の停止・廃止を議論するのでは、あまりに遅いし、哀しい。

 終身刑の導入は、長年くすぶっているテーマだ。いかに課題を克服し、死刑の停止・廃止へ向けた一歩にしていくか。改めて具体的な議論と提案を積み重ねていくべき時だと思う。

 

  

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第14回
死刑の廃止に向けて「終身刑」を導入することの是非
」 に29件のコメント

  1. magazine9 より:

    欧州人権裁判所が、英国の仮釈放なし終身刑について「非人間的」で「欧州人権条約違反」とする判決を出したのは今年7月。条約加盟国には判決に従う義務があることから、少なくとも現行のままの終身刑制度(判決では、服役25年を経た時点で仮釈放に関する審査をする制度の導入も提案されていました)は廃止される見込み、とのことです。EUが死刑廃止を加盟条件にしていることは周知のとおりですが、議論はもはや次の段階へと移ったといえるのかもしれません。
    一方で、著者の指摘するとおり、日本での死刑廃止に向けた道筋は、まったく描けないのが現状。そんな中での「終身刑の導入」案をどう捉えるべきなのか…皆さんはどう考えますか?

  2. ひとみ。 より:

    世論が死刑を支持していても政府主導で廃止するのをよしとするなら、世論が9条を支持していても政府主導で改正することに意を唱えられないと思いますよ。
    道は遠くても、国民のコンセンサスを得るべきと考えます。

  3. 森正樹 より:

    仮釈放なしの絶対終身刑は死刑より残酷とされていて、小石氏も触れているようにイギリスではなくす方向のようです。そうすると死刑を廃止した場合、犯人が反省しているならまだしも、何人もの命を奪って多くの遺族の人生を台無しにし、裁判では言い逃れと自己弁護に終始した犯人が、昔に比べれば待遇の改善された刑務所で反省もせずのうのうと生きられ、晩年には出所できる(希望がある)ことになり、被害者と比べてあまりに不公平ではないでしょうか?僕だけではなく大半の国民は、遺族感情より、被害者と加害者の境遇を公平にするべきだという考えで死刑制度を支持しているし、角田美代子のような極悪人が死刑にならないのは、どう考えても納得がいかないのです。
    死刑廃止派の皆さんに、被害者と加害者の境遇の公平性についてどう考えるのか、意見を伺いたいです。

  4. 花田花美 より:

    人間が人間を殺す判断をして良いのだろうか?
    完全な人間なんていない。
    不完全な人間が人間を殺す判断をしていいのだろうか?
    もし、自分が冤罪で死刑判決を受けたらどんな気持ちになるだろうか?
    終身刑だったら?

    ・・・わかりません。

  5. とくちゃん より:

    超難問ですね。国民が死刑の容認をしているとはいえ、例えば中国の様に公開銃殺まで望んでいるわけではない。ましてや刑訴法あるいは刑罰論を習熟していない国民の判断(世論)では無理。判決を終身刑と死刑の被告側の選択性にしてはどうですか?

  6. 今村 登 より:

    僕は死刑制度は見直しが必要だと思っているが、一方で終身刑ができた場合、受刑者も晩年は介護や医療が必要となる状態になることも十分あり得る訳で、その際、医療刑務所で最期を迎えるのかもしれないが、医療刑務所は全国に2か所のみ、スタッフも足りないということで、今でさえ数が足りない中どうなっていくのかを想像してみた…
    終身刑となった受刑者は、「尊厳死」という名目の下、「長期の医療、介護が必要となった場合、私はそれを拒否します」というようなリビングウィルを書かされ、年老いたら人知れず薬殺されていく気がする。

    社会の価値観と無関係ではないだろうから…

    死刑制度の是非をはじめ、服役中のあり方を広く国民で議論していくことで、社会の在り様が見えてくる気がする。

  7. 森正樹 より:

    菜食主義者が健康のためというより、人間が生きるために動物の命を奪うことに抵抗感があるから菜食主義を実践しているように、死刑廃止派は、とにかく故意に人の命を奪う死刑制度を国家権力が維持することに生理的な嫌悪感があるから、死刑制度を忌避するのでしょう。でも中絶・安楽死・正当防衛などいろいろな形で人間は他人を殺しているし、死刑廃止派は、女性の人権・自己決定権を尊重して中絶は容認する人が圧倒的に多いのではないでしょうか?
    また冤罪は、大半の冤罪でないのが明白な殺人犯に死刑を回避する理由にはなりえません。
    僕には死刑廃止派は人権・生命を尊重すると言いながら、被害者の人権・生命を軽視しているように思えてならないのです。結局殺人事件においては殺した者勝ち・被害者の殺され損で、どんな悪行を働き、反省すらしていなくても、加害者の人権・生命は無条件に尊重されねばならないのでしょうか?どなたも僕の疑問に直接答えて下さっていませんが、日本では死刑廃止派は少数派なのだから、存置派の思いを知ることから始めるべきだと思います。

  8. さんさ より:

    死刑存置派の方には、原田さんの話を読んで欲しいと思います。
    (すでにご存じとは思いますが)
    加害者を殺したからって、何の解決にもなりません。

    ◆「加害者は許せない。だけど、死刑制度には反対です」
    被害者遺族 原田正治さん
    http://www.jinken.ne.jp/other/harada/

  9. ピースメーカー より:

    とりあえず刑罰という制度を考察するにあたり、象徴的な材料としまして、マガジン9のコラムニストのひとりであるキム・ソンハ氏が紹介された、「ノルウェーの連続テロ事件」についてあげてみましょう。
    http://www.magazine9.jp/kim/110803/
    まず、弁護士の宮武嶺氏は77人の死者を出したノルウェーの連続テロ事件について、イエンス・ストルテンベルグ首相の高邁な宣言をあげ、「死刑を存続させ、周辺諸国と諍いが生じ、ナショナリズムと外国人排斥主義が高揚する日本」と比較し、「暴力に対する愛と寛容を謳いあげる、この気高いノルウェーの高潔さに、我々が学ぶところは大であると思います」という理想主義的な文章で結んでいます。
    http://blog.goo.ne.jp/raymiyatake/e/15237c604c6c9b23aefecbd21b031833
    一方、NHKの報道では、凄惨な事件によってノルウェー国民の心が揺さぶられ、社会の底流で排他的な考え方が広がりを見せている現実、つまりアンネシュ・ブライビーク被告が勝利する可能性をレポートしております。
    http://www.nhk.or.jp/worldwave/marugoto/2012/07/0723.html
    先の、鈴木邦夫氏のコラムで話題になりました、最近、「世界の潮流に合わせて厳罰化すべき」と声高に主張されている差別・排他主義問題も含め、「罪に問う」とは何かを根本的な所から考察してみては如何でしょうか?

  10. 森正樹 より:

    原田氏を始め、死刑廃止派の主張は一通り知っています。「死刑は問題解決にはならない」というのは廃止派の決まり文句ですが、実際は今でも大半の殺人犯は死刑になっていないわけで、それで何か問題が解決しているのでしょうか?また死刑を廃止して終身刑を導入すれば、問題はなくなるのでしょうか?
    死刑制度は、荒っぽくネガティヴなやり方ではあるが、被害者と加害者の境遇を公平にすることによって問題を解決する働きがあるので、存置派の国民も諸手を挙げて積極的に支持しているわけではないが、必要悪として仕方ないものとして死刑を認めているのです。
    死刑廃止派は政治思想的にはリベラル派が多いと思います。僕自身以前は九条を守ることに何の疑問も持たなかったので人のことは言えないのですが、リベラル派の言説は「反戦」「人権」「寛容」「環境」等単体として取り上げると反対しづらいものを錦の御旗として掲げていて、その理想主義が心地よいので、信奉者がリベラリズムの外部に身を置いて批判的に見るのが困難です。しかしたとえばグリーンピースの自然保護の活動が、常識的な国民には異常・過激に見えるように、死刑廃止派は被害者の人権・生命を軽視して、加害者の人権・生命擁護に偏り過ぎているように思えるのです。また死刑制度は何千年も昔からあるから最近の右傾化と結び付けるのは的外れです。
    死刑廃止派は、故意に人命を奪うのは絶対認められないと考え、存置派は被害者と加害者の境遇は公平であるべきだと考えます。廃止派と存置派の対立は、すべての論理・原理は究極的には無根拠だというところに行き着くので、解消しようがないと思います。

  11. タカハシタツオ より:

    死刑制度というのは、封建社会における「仇討ち制度」を残した結果と思う、但し武士階級から「刀」を回収した事から「本人」が仇討ちをする事が出来ないため、国が刑法に「死刑」を加え「代理行為」として「仇討ち」を残したと考える、その後日本の人口が増え、「代理行為を行うべきかどうかの判断する件数」も増え、罪状の軽重によって懲罰の軽重を判断する一般の刑法に組み込んだものと思う。
    戦前戦後において刑法を組み直すときに「死刑」を廃止すべきだったと思うが、時の政治体制を打倒しようとする勢力を規制する手段として、残しておいたものと考える。
    本来、刑罰を科す目的は犯罪を犯したものの「更正」を期すものであって、懲罰を与えるものでは無かったはずである、しかし最近特に青少年に対する厳罰化を1990年代から推し進め、最近は「光市事件」を契機に「重罰化」に一直線に突き進み始めている、それに比例して「冤罪事件」とみられる件数も増加の一途をたどっている、
    08年に処刑された「飯塚事件」の再審請求も現在鋭意審理中である。
    最後に述べるが、死刑を執行するのは被害者の関係者でもなければ、求刑した検察官でも、判決を下した裁判官でもない、全く関係のない「看守」だ、彼らが死刑制度の一番の「被害者」かもしれない。

  12. たかはしたつお より:

    最初に、「意を唱える」は「異を唱える」ですね?
    あなたは「憲法」と「他の法律」と同じものとして考えてませんか?
    国会、内閣、諸官庁が提案してくる「一つ一つの法案」を決めるために、毎回国民投票はしていませんよね、「憲法」を改めるには、国民投票が必要です、(まだ具体的には決まってませんが)それをどうするかを考えるために現在この「サイト」で論じあっているのです、憲法が主役ですが、世の中の全ての問題が「憲法」と繫がっておりますので、話題が極めて広がっているのではないでしょうか。

  13. 森正樹 より:

    僕は刑法学等には詳しくありませんが、社会復帰や更生が刑罰の目的のすべてだとは思いません。
    角田美代子等教育刑的な考え方が似つかわしくない犯罪者も少なからずいて、有力ではあっても一つの学説に過ぎないだろうと思います。悪質な犯罪者に対しては、応報刑的な考え方も必要ではないでしょうか?
    何人殺そうと自分の命だけは取られず、反省(するふりを)しさえすれば社会に復帰できる「権利」があるなんて、いつ誰が決めたのでしょうか?
    また再犯率の高さ等から考えて、殺人犯の多くが本当に反省しているかは極めて疑わしいです。
    教育刑的な観点に従って死刑を廃止した場合、絶対終身刑もいずれなくなることは明らかで、加害者の待遇が被害者と比べてあまりに不公平だという、多くの国民の素朴だけれど根本的な疑問に、死刑廃止派は誰も正面から答えることができていません。

  14. たかはしたつお より:

    森正樹さんの主張の中で、被害者と加害者の境遇、待遇を公平にするために死刑制度は必要だ、と言う部分があるのですが、被害者及び加害者の中にその人の家族や関係者も含まれるのでしょうか、公平にするというのは少し具体的に言って何をどのようにする事でしょうか。
    私が「死刑制度は廃止すべき」と主張している理由は単純で、この世での道徳、倫理の基本は「人を殺すな」だと考えております、それで人を殺したときには裁判において「死刑判決」を言い渡される事があるわけです、それに矛盾を感じた、単純ですがそれが全てです。
    事のついでに、森正樹さんに一言、「グリーンピースの活動が常識的な国民に異常・過激に見える。」とありますが、それは「シー・シェパード」の活動」ではありませんか、マスコミはわざと国民が誤解するように報道するので困ったものですが。

  15. くろとり より:

    横から失礼いたします。
    私も森正樹さんの考えに賛同します。死刑反対派の方の間では加害者の人権のみが過大に尊重され、被害者の人権が無視されている様に思えます。「死人に人権なし」ですか? 冗談ではありません。
    被害者が殺され損になることは絶対に許されません。
    冤罪については別の話です。終身刑であっても人生が台無しとなるのは同じですから。
    冤罪防止についてはそれ単独で考えるべきで死刑制度と同じに考えるべきではありません。
    話はそれますが、グリーンピースの活動が異常・過激に見えるのは当然です。
    彼らのいう「非暴力行動」は自分達の勝手で法律を無視するという点において、犯罪者となんら変わらないからです。以前、運送会社の倉庫に無断で侵入、鯨肉を盗み、有罪となった事をお忘れですか。
    それでも日本は甘い国なのでたいした罪には問われませんがロシアは違いますよ。
    日本もロシア並みに犯罪者に対し、もっと厳しく対応してほしいですね。

  16. さんさ より:

    死刑存置派の方がおっしゃる「被害者に人権はないのか」は、非常にごもっともで、尊いご意見です。
    しかし、ものごとを単純化しすぎてはいませんか。しつこくて恐縮ですが、犯罪被害者で死刑廃止を求めている原田さんは、次のようにおっしゃっています。少し長いのですが、引用させてください。
    最後の2行の問いに、どうお答えになりますか?
    >死刑制度を支持する人は、「悪いことをしたんだから死刑でいい」「被害者の気持ちを考えれば死刑しかない」
    >と言います。それで被害者の苦しみも解決すると思っている。僕が違うことを感じたり、死刑廃止の運動をする
    >と、「被害者のくせして」「被害者なのに」と非難する人も多いです。被害者はひたすら加害者を憎み続け、死刑
    >を支持し、執行されたら気持ちを切り替えなければいけないのでしょうか。
    > 僕を非難する人に問いたい。「じゃああなたは僕が困っている時に手を差し伸べてくれましたか」
    >「被害者の気持ちがわかるなら、その人たちのためにできることを考え、奔走しているんですか」と。
    http://www.jinken.ne.jp/other/harada/harada2.html

  17. マングース より:

    日本では中国などと違って、殺人以外の罪で死刑になることはない。それも相当な凶悪犯のみが死刑判決を受けているのであって、それも判決を受けながらいまだ刑を執行されないかの大量殺人のサリンばらまき教祖などがいるなど、加害者側に大甘な気がする。どんな場合でも殺したのが一人だけなら死刑にならない、というのもおかしい。
    私は憲法改正には反対するリベラル派だが、死刑はやはり必要(必要悪)ではないか、と思う。

  18. いぶし丼 より:

    うーん、どうも上手く思いが言葉に乗らないな…ま、いいか。

    人が単一の生命ならば何をするのも勝手だろう。殺されたと文句を言おうにもそのときは既に死んでいる。だが人は群れで暮らす生き物。災害や外敵から身を守る手段として社会を形成し、生存の場を内外に拡張し続けている。
    望む望まないに拘わらず、人は生まれながらに自由の一部を社会に委譲し、その代償に生活の場と生きる糧を社会から譲り受ける。故に社会との契約は「何をするのも勝手」ではなく「群れの利益を妨げない限り自由」なのだろう。

    この契約は、人は何かの役にたつことを生きる糧とする動物であることが前提となる。恐らく間違ってはいまい。「何してんだ馬鹿野郎。今すぐ責任をとれ」と言われるよりも「口を挟むな役立たず。言われたことくらいちゃんとやれ」と言われるほうがずっと人間を辞めたくなる。きっとみんなもそうだと思う。

    社会との契約を破棄し獣に戻る権利、というのは今のところないし、今後もないはずだ。仮にそのような権利を認めたとしたら、社会は人間を分別するしかなくなる。そしてその一方には人間としての条件を、もう一方には利益の制限を課すだけになり、どちらにとっても得がない。
    だからどうしても人間を辞めたくなったのなら、社会という名の大きな外敵に踏み潰されたのだと割りきって人生を終えるしかない。

    社会が担う最も大事な機能は人の生命活動を行う場を保証すること。その目的のためには人が社会を適切に運用できるマニュアルが必要だ。それが法であるとしたら、罪とはマニュアルに違反し社会の機能を損なう行為、罰とは社会が被った損失に対する保障だと言える。
    既に起きてしまった損失は取り返せない。だから現在から未来への保障として罪を犯した者の更正を促すことでこれ以上の損失を防ぐ訳だ。このため避けられない事故や正当な範囲の自己防衛は罪に問われない。

    罰は復讐や見せしめであってはならない。もしもそれが許されるならば私刑はすぐにでも正当化され、法の効力が薄れるからだ。しかし、近年は個人の責任に重きを置くあまり厳罰化に歯止めがかからないようにも思える。これは犯罪の抑止ばかりに目が行き過ぎて被害者への保障が不足していることの現れ、言い換えれば個人保障を社会保障に転嫁しているということなのだろう。

    殺人は重罪だ。他の問題であればいつかは補填が可能だが、唯一命の代替えはきかない。だから安易に人命を奪う者がいる限り社会は最低限の機能を保証できない。社会の機能を維持するためには、情状酌量の余地なく殺人を繰り返す者を、社会から完全に隔離することでこれ以上の損失が生じないようにする以外、有効な手段はないだろう。

    完全なる隔離という意味では死刑よりも無期限拘留のほうが正しいようにも思える。また、法を用いて人の命を奪うことは社会の過剰な権利行使であるようにも思える。
    しかしそれは違うと思う。

    被害者の人生に関わった人と同じ数だけ加害者にも関わり合った人がいる。新たに生まれる様々な思惑がある。例えば見せしめのようなバッシング報道が延々続くのであれば誰だって他人事ではいられぬし、例えば許せぬ社会悪を成敗するために殺人は有効な手段となり得るはずだ。法がこれらに終止符を打たないのであれば、不安と怨恨は連鎖し社会は自身の機能を維持できないだろう。終止符の機能として死刑に勝るものは今のところない。

    どんなに加害者を責めようと回復不可能な社会損失を埋める術はないのだし、人が社会との契約を破棄できない以上、自由を奪われ、役割を奪われ、死が訪れるまであらゆる未来と断絶することは死よりも残酷な拷問刑だ。死刑はあくまでも被害者に対して起こした行為の範囲を逸脱していないのだから、見方を変えれば数多ある刑罰の中でもとりわけ人に優しいとも言える。
    いずれにしても社会は死刑を手放すべきではない。

    しかしそうは言っても人は必ず失敗するもの。不慮の事故が連鎖したくらいで命まで御用になったんじゃたまらない。そうでなくとも年々高まる社会からの過剰な権利要求にはうんざりしている。いつか何かの失敗を仕出かし連鎖的にそうならないとも限らない。
    となるとやっぱり死刑という名の無期限隔離の中で冤罪を叫んだり社会への訴えをするのが一番良いように思う。それじゃあ現状と何ら変わらないような気もするが、実際には初めから意図してそうなった訳ではなく、様々な歴史の積み重ねが結果的に程よい形を生み出したのだろう。
    だから「今のままじゃダメだ」と警鐘を鳴らし死刑の妥当性を考え続けることは未来への投資であり、社会を殺さぬための永遠の課題なのだと思う。

    無論、実際に死刑廃止論が高まれば俺は全力で拒否する。ついでに「そんなことより社会に殺される者を減らすほうが先だ。まずは憲法15条にある公務員罷免の権利を機能させるべきじゃないか?」と書いたのし紙もつけよう。尤もその時まだ自分が人間を辞めていなければ…の話だが。

  19. 森正樹 より:

    原田氏は立派だけれども、彼が犯人を赦す気になったのは、犯人が真摯に反省して謝罪しているからで、犯人が反省していなければ違った反応をしていたかもしれません。光市母子殺害事件の本村氏も、犯人が反省していたら死刑を求めなかったかもしれないと言っています。それに大半の遺族は犯人に極刑を求めているのが実情で、原田氏のような反応を遺族全員に求めるのは筋違いです。
    人権や生命は重要ですが、何人もの命を奪って多くの遺族の人生を台無しにした犯人が、反省もせずのうのうと生きていられるほど重要だとは思いません。「人間一人の命は地球より重い」というふうな、似非ヒューマニズムには僕は共感できません。
    それと死刑存廃問題を議論するとき、被害者と遺族を区別するべきです。死刑廃止派はよく「犯人を死刑にしても遺族が救われるわけではなく、虚しいだけだ」と言いますが、極端に言えば遺族がどう思おうと被害者と加害者の境遇を等しくするために死刑は必要だと思います。遺族感情だけを問題にするのなら、身寄りのない老人やホームレスは何人殺してもよいという、おかしなことになってしまいます。
    ただし、人間はつい誤りを犯しやすい存在だし、悔い改めて更生する受刑者も少なくないから、殺人犯全員を死刑にせよとまでは僕も思っていません。悪質な殺人犯に限って死刑という今の日本のやり方がよいと思いますが、個人的な意見ではもう少し厳罰化を進めてもよい気がします。被害者が三人以上の場合に確実に死刑という永山基準は犯人に甘すぎるので、情状酌量の余地が特になければ、被害者が二人以上なら原則として犯人を死刑にし、被害者が一人でも殺害方法が残酷だとか悪質な場合には死刑を躊躇わなくてもよいと思います。

  20. たかはしたつお より:

    くろとりさんは、死刑制度と冤罪は別問題として考えるべき、と言っておられますが、今までの死刑・無期懲役冤罪は再審によって無罪になったものだけと考えておられるのではありませんか。
    例えば、松川事件、免田事件、財田川事件、島田事件、松山事件、梅田事件、東京電力OL殺害事件、等々。
    しかし、これらは「冤罪」と感じた人がいて、弁護士に働きかけ、支援者を募って働きかけ、まるで「象を針の穴に通すような」大変な努力をした結果、検察が隠していた重要な証拠を見つけ出した等で無罪判決を得たものばかりです。
    長年「看守」を勤めてきた人や、刑務所に入ってきた人の何人かの経験談を書き記した読むと、冤罪だと訴える人もおらず、死刑執行に直面したときにも、最後まで強く抵抗した人を何人も見てきた、と書いてある話を読んだ事があります、くろとりさんが「私は信じない」から、と言うのならば、信じる事を強制はしません。

  21. くろとり より:

    たかはしたつおさんへ
    確かに冤罪のまま、有罪となった方がいるのかも知れません。それは否定しませんがあくまで免罪を防止するにはどうすればいいのかを考えるべきで死刑制度とは関係ありません。
    また、「最後まで強く抵抗した人」の全員が本来は無罪であったとなぜいえるのですか。
    たかはしさんの言い方だとそうとれますが、凶悪犯罪者であっても自分が死ぬのは嫌がるものです。強く抵抗するでしょう。ある意味人として自然ではあるのです。
    何回も同じことを言いますが、死刑制度と冤罪の問題は本来別個で考えることであり、一緒にすること事態が明らかな間違いなのです。

  22. たかはしたつお より:

    くろとりさんへ
    若干付け加えさせてください、「最後まで強く抵抗した人」が「冤罪」だったと「私が思った」のではありません、その本を書いた「元看守だった人」が、「冤罪」だったのではと思ったと書いてあるのです。
    1992年に福岡県飯塚市で小1年の女の子が二人誘拐・殺害された事件で死刑判決を受けた久間三千年さんがDNA鑑定の誤りを新証拠として再審請求を準備中の2008年に、死刑が執行された。そして2009年に「足利事件」の菅谷氏のDNA鑑定が誤りだった事が判明し、それが「無実」の証拠となって2010年に再審で無罪判 決が出た。
    死刑制度と冤罪問題は別個で考えるべきですか、ただ一つ良い方法があります、それは「死刑制度」自体はそのままにして、「冤罪判決」が皆無になるまで、「死刑執行停止」にしましょう。

  23. くろとり より:

    言い方が悪かったようですが、たかはしさんご自身も同じように思ったから引用されたのではないですか。
    制度があっても適用されなければ無いのと同じです。「冤罪判決が皆無になるまで」っていつ皆無になるとわかるのですか? 極論にて話をかき混ぜないでください。
    それは死刑制度と冤罪の問題を一緒くたにしているのと同じことなのです。

  24. たかはしたつお より:

    私は超能力者ではありません、具体的な裁判の経過も知らないで「冤罪」だと分かるなどと、出来るはずがない事は常識でしょう。長年その様な人との「心の交流」があった人には、「感働き」と言うのがあるそうです、だからその話は真実だろうな、と思ったのです。
    「冤罪が皆無になる」っていつでしょうか?って、私が決めて良いのなら、今からでも始めましょう。
    私やあなたのような普通の生活を送っている人が思う事と、懲役刑の人、無期刑の人、死刑判決を受けた人が考える事が全く違う事を知りたければ、インパクト出版会発行の「命の灯を消さないで」や「死刑囚からあなたへ」等の本を読んでみる事を薦めます。
    私が「冤罪」を知ったのは、松川事件が初めてです、だから冤罪だと言う事に疑問がありませんでした。
    私が「冤罪」に関心を持ったのは、私自身が「冤罪被害者」になった経験からです、と言っても正式な裁判所ではなく、小学校の学級で級友全員が検事、裁判長が担任教師、弁護士なし、証拠調べもなし、即決「有罪判決」罪名は「下校時のお菓子の買い食い。」ーー正解は下校時に母から頼まれた「配給のパンを引換券と交換した事。」、教師がパンの販売店の店主に確認すれば正解を得られるのに、今の裁判と同じですべきことをしなかったと言う事。

  25. くろとり より:

    冤罪が皆無になる日がいつ来るかなんて私やあなただけではなく誰にもわからないから「極論」であり、そんな話に意味はないといったのです。
    また、たかはしさんご自身が超能力者であるだなんて誰も思っていませんよ。元看守の例を出したのだからたかはしさんの考えが元看守と同じなのだろうなと思っただけです。
    たかはしさん個人のパンの買い食い程度のことなら私もいくらでも過去にありました。
    私自身、いじめを受けていた身なのでもっとひどいことも多かったです。
    繰り返し話しますが私は加害者の人権ばかりが尊重され、被害者の人権が無視されることが許せないので死刑制度を支持します。
    免罪に関しては同様に許されないので死刑執行に関しては慎重にする。また、免罪の可能性があれば徹底的に調査することをするべきだと考えています。

  26. たかはしたつお より:

    私の質問にも答えてくれないし、どこを読むと私の「個人のパンの買い食い程度」と読めるのですか。
    「免罪(冤罪?)は許されないので死刑執行に関しては慎重にする。」「免罪(冤罪?)の可能性があれば徹底的に調査する」?
    誰が、どのようにして慎重に死刑を執行するのですか?
    可能性があるかどうかは、誰が、どのようにして徹底的に調査するのですか?
    それを司法関係者が徹底的にサボっているから、司法に不利なものは徹底的に隠蔽する、司法に有利になるように「証拠」をでっちあげる、それでもどうしようもない時には、最終的には裁判官の「想像力」を頼る事になる、例えば「~推定できる。」とか「~犯行に及んだと考えても矛盾はない。」、最後には「~最後まで否認している事は被害者に対する謝罪の気持ちがない。」「~犯罪行為に対する反省の気持ちが感じられない。」等の「推測」を連ねて、「~従って更正の可能性が無いと思われるので、極刑が妥当と考える。」で「冤罪の成立」。終わり。
    もっとまじめに応対してくれる人達だったら、と思いましたので、このサイトでの投稿は全て中止いたします。
    これからは、「なくせ冤罪!市民評議会」、「臓器移植法を問い直す市民ネットワーク」、等々個別に活動してゆきます、このサイトとはしばらくお別れします。

  27. いぶし丼 より:

    ええー。たかはしサンのコメント楽しみにしてたのにやめちゃうの?
    確かにここのコメントは生産性のない「批判の批判」も多いけど、ある程度は仕方ないよ。みんな何かしらの不満を持ってるからこそここへ来るわけだし。「なんとかしたいけどやり方が見つからない」のはみんな同じでしょ。
    たまにイヤーな気分にさせられるけど、都合の悪い意見を省いちゃえば「いろんな感じ方」ってのもわかんなくなっちゃう。
    それに、みんなが不満を抱えてるからこそ「なぜ世間は俺に冷たい?」とそれぞれの思いを言い合えるでしょ。つまりここでは少数派の意見こそ貴重なんだ(と勝手に思っている)。

    実際俺はたかはしサンの意見に深い感銘を受けたよ。「冤罪がなくなるまで死刑を止めよう」なんて並大抵の決意じゃない。「絶対に冤罪をなくす方法はあるはずだ。人類こんだけ頭数増やしておきながら、それが見つからないはずがない」という思いが伝わって来るもの。心震えるよ。
    このサイトの閲覧者が一万人いるとして、そのうち半数がコメント欄を見ているとして、その中の1%がコメント投稿してるとして、そこに俺という一人が含まれている訳だ。少なく見積もっても100人以上の心を震わせたってことさ。
    勿論、いちいち言わないけど、他の方々の意見にもいつも感銘を受けたり、そりゃもっともだと納得させられているんだ。

    もしマガ9コメント欄が盛り上がって、「記事とコメントで二度美味しい」ってなったら、きっと利用者がもっと増えるでしょ?そしたら我々「なんとかしたい人々」は社会に自分の居場所をもっと主張できるじゃない。俺はその日が来るのを待ち望んでいるのさ。

    匿名コメントの整理なんてどんなに金を積まれても割に合わない苦行だと思うけど、できればマガ9編集部の方々にはそれまでがんばってほしいんです。
    そして心震わしてくれたたかはしサンには「俺を嫌いでもいいからAK…じゃなかったマガ9を嫌いにならないでいてください」と言わせてください。

  28. magazine9 より:

    この難しい問題に、みなさま、たくさんのコメントをありがとうございます! 世論では8割が死刑制度を支持していると言われますが、なかなかリアルな場で、顔を会わせて、「死刑制度、どう思う?」なんて会話は、憲法問題以上に出来にくい状況があると思いますが・・・こういう場所を使って、さまざまな意見や考えがあることが、わかるというのは、悪くないのかなと思いました。いぶし丼さん、編集部をねぎらってくれて、ありがとうございます。うう、そういう言葉をかけられると、素直にうれしいものです。

  29. magazine9 より:

    死刑廃止論者にも、
    1)冤罪があるから、そして冤罪を100%なくすことは無理だから、死刑制度は廃止すべきだ。
    2)いかなる凶悪犯に対しても、死刑は行うべきではない。だから死刑制度は廃止すべきだ。
    という考えがありますね。
    私は、1)と2)の両方から、死刑制度には反対です。
    なぜう考えるのか? はとてもシンプルで、
    「暴力」を物事を解決する手段には使うべきでない。死刑=「殺す」という最大の暴力を、国家権力にやらせるべきでない、と考えるから。
    これ、あまりみなさんを説得できる気はしないのですが、私の中ではこれで、「死刑」をどう
    考えるか、という問題は決着がついています。あれ、こんなことを書くと、炎上しちゃうかな。ここは、小石さんのコラムのコメント欄なので、もし、「死刑制度」などの問題で盛り上がるようでしたら、別途、議論の場所を作っても良いかなと思っております。

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小石勝朗

こいし かつろう:記者として全国紙2社(地方紙に出向経験も)で東京、福岡、沖縄、静岡、宮崎、厚木などに勤務するも、威張れる特ダネはなし(…)。2011年フリーに。冤罪や基地、原発問題などに関心を持つ。最も心がけているのは、難しいテーマを噛み砕いてわかりやすく伝えること。大型2種免許所持。 共著に「地域エネルギー発電所 事業化の最前線」(現代人文社)。

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