風塵だより

 先週からしばらく、東北を旅してきた。仙台、塩釜、松島、石巻、南三陸、気仙沼…と回り、その後、ふるさと秋田の実家にも顔をだし、帰ってきたのは20日(月)の夜中。

 「マガジン9」の更新日は毎週水曜日なので、火曜日にはこのコラムの原稿を書き上げて編集部あてに送信する。それが毎週のパターン。
 ただ、それなりに内容を考え、間違いのないように資料を読み込んだり、知人友人に連絡して情報を教えてもらったりという作業があるので、月曜日から準備を始める。
 そんなわけで「今回は時間があまりないので、お休みさせてください」と、マガ9編集部には事前に伝えておいた。
 でも、そうはいかなくなった。
 旅先で、愛川欽也さんの訃報を聞いてしまったからだ……。

 ぼくが旅に出かける前日(15日)、「デモクラTV」の役員会があった。その場で、どうも愛川さんの体調が思わしくないようです…との話を聞いていた。だから、心配はしていたのだが、まさか旅先で訃報に接するとは思わなかった。
 
 「おまっとぅさんです」という、あの独特の挨拶をもう聞けない。
 とても悲しい、さびしい。

 ぼくが、朝日ニュースターというBSテレビ放送の「愛川欽也のパックインジャーナル」という番組に出演するようになったのは、大震災(原発事故)のしばらく後からだった。
 「マガジン9」で当時連載していたぼくのコラム「時々お散歩日記」を読んでくれていたらしい「パック」プロデューサーの大塚さんが、連絡をくれたのだったと思う。
 むろん、テレビ出演など考えたこともなかったぼくだが、この番組が実は大好きで、毎週楽しみにしていたのだった。番組中で愛川さんは、しきりに原発事故について憤り、東電や政府の対応を批判していた。それは、ぼくが書いていたコラムの内容とずいぶん重なっていたように思えた。
 だから「1回だけ」ということで出演したのだったが、なぜかそれから時折、声がかかるようになった。そんな経緯で、ぼくは「パックイン」に出させてもらうようになったのだった。

ぼくが出演した最初の「愛川欽也のパックインジャーナル」の様子。
ぼくは、コチコチになっていたらしい

 ぼくは愛川さんとは初対面ではなかった。
 もうずいぶんと昔の話だが、ぼくが出版社へ入社して最初に配属されたのが『月刊明星』というアイドル芸能誌だった。
 大学を出たばかりで、いわゆるアイドルなんかにはまるで興味がなかったぼくは、コイツは使えないな、と上司に判断されたのだろう。ラジオ深夜放送の取材などを任されるようになった。雑誌の主流じゃないし、まあいいか…てなわけだったと思う。
 だが当時、愛川さんや落合恵子さん(レモンちゃんと呼ばれていた)が、深夜放送のアイドル的存在として人気絶頂だったのである。そこで、ぼくは愛川さんにも何度か取材させてもらったのだ。それが、愛川さんとの初対面。
 その後、落合さんとはさまざまな場面でご一緒し、お付き合いは続いたが、愛川さんとはお会いすることもなく数十年が過ぎた。
 でも、再会した。

 この「マガ9」に「この人に聞きたい」というインタビューコーナーがある。政治的発言をほとんどしない芸能人タレントの中では、珍しくはっきりものを言う方として注目していた愛川さんに、インタビューを申し込んだら、快諾していただいたのだ。その記事はこちら。
 そういえば、「通販生活」という雑誌の愛川さんのインタビューもぼくが担当させてもらった。それらが、ぼくと「パックインジャーナル」との関わりにつながったということだろう。

 ときどき、愛川さんと話をした。
 ある時、ふるさとの話になり、ぼくが「私は秋田の生まれです」と言ったら、愛川さんは、なんだか微妙な表情になった。アレッ?と思ったら、
 「悪いけど、僕は秋田にはいい思い出がないんだよね」と、少し苦い口調でおっしゃった。
 「どうしてですか?」
 「僕は1934年、昭和9年の生まれでね、戦争の時に秋田へ疎開していたんだよ。それでね、ずいぶんといじめられたなあ。僕が使う東京弁が癇に障ったんだろうけど、ほんとうに辛かった。それに、いつでも腹を空かせていたし、いやあ、もうあんな思いはしたくないね、絶対に。
 だからぼくは、戦争だけは何が何でも反対なんだ。冗談じゃないよ、憲法を変えて、また戦争ができるようにするなんて。
 戦争が終わって、新しい憲法の話を聞いたときは嬉しかったなあ。岡田隆吉先生って、まだ名前もお顔も憶えている。岡田先生が教えてくれた『平和憲法と民主主義』、あれがぼくの原点だね」
 愛川さんの「反戦平和」の強固な意志は、このころに根差したものだという。体験に裏打ちされた意志。それは多分、『トラック野郎』でコンビを組んだ菅原文太さんとも共通する。
 「戦争を知ろうとしない子供たち」が、「強い日本を取り戻す」などと喚き立てるのに、我慢ならなかったのだろう。
 いまごろおふたりは、久しぶりに会って、この国の行先を憂えているのかもしれない。

 愛川さんは「僕は護憲派」だと、どこででも公言していた。「マガ9」でインタビューに応じていただいたとき、ぼくは愛川さんに『日本国憲法』の小冊子をお渡しした。
 ぼくが「パック」に初出演したとき、愛川さんは「あの時いただいた『日本国憲法』を、今でもほら、持ち歩いているんだよ」と、胸のポケットから取り出して見せてくれた。
 ああ、この方は本物だなあ、とぼくはそのとき思ったのだった。

 愛川さんは、原発にも強い関心を寄せていた。
 「老眼でね、あまり小さな活字は読めないから、話をいっぱい聞かせてよ」と言いながら、ぼくと原発の話をたくさんした。
 ある時、愛川さんから珍しくぼくの携帯に電話があった。
 「今ね、芝居を書こうと思っているの。原発を推進してきた学者が、この原発事故に遭って、どう葛藤し、どう行動し、どう変わっていくか。そんな芝居がやりたくってね。鈴木さん、いろいろ相談に乗ってよ」
 そんな電話だった。むろん、ぼくにできるお手伝いならなんでも…と答えたのだが、その後、お話は途絶えた。どういう事情かは分からない。
 でも、やってみたかったなあ…と思う。

 朝日ニュースターが2012年4月、唐突に人気番組だった「パックインジャーナル」を打ち切ってしまった。歯に布を着せぬ出演者たちの物言いに、ニュースターを買収したテレビ朝日が二の足を踏んだ、という噂が流れていた。一方では、だからこそ多くのファンがついていたのだが。
 そのファンのみなさんからの強い要望や支持もあって、愛川さんは個人資産をなげうって、市民ネットTV「KinKin TV」を立ち上げ、そこから「愛川欽也のパックインニュース」を発信し始めた。形式はニュースター時代の「パックインジャーナル」と同じものだった。
 しかし、そんな愛川さんを落胆させたのが、同じ年の9月に行われた衆院選の結果だった。安倍自民党の大勝利に、愛川さんはほんとうに落胆した。この国の未来に絶望してしまった…と漏らしていた。
 「僕はあの人が大っ嫌いでね。これで、憲法改悪なんて言い出すんだろうなあ。この国、どこへ行くのかね…」
 その絶望はとても深かった。「パックインニュース」への意欲も、なんだか急に失ってしまったようだった。ある日突然、「もうパックは辞めるよ」と言い出したのだ。
 「パック」の出演メンバーが集まって、愛川さんに「番組は続けましょう。こんな時代だからこそ、必要なんです」と懇願したが、愛川さんは、出演者たちに「やるなら、君たちでやったらいい。僕はもう疲れたから」と呟くだけだった。

 そこで、番組を惜しむ出演者たちがささやかに資金を出し合って「デモクラTV」は始まったのだ。かくして、2013年4月、小さな市民ネットテレビ「デモクラTV」は誕生した。

 安倍首相の危険極まりない「戦争政権」(福島瑞穂議員の「戦争法案」にクレームをつける自民党へのアンチとして、「安倍戦争政権」と呼ぼう)は、どんどん加速している。
 アメリカへの手土産に、翁長雄志沖縄県知事とのパフォーマンス会談をやってみせたりはするものの、内実は何の変りもない。
 「デモクラTV」は、会員制(月額500円+税)のとても小さなメディアだけど、そんな「戦争政権」への批判の矢を放ち続ける。もう番組数も20を超えている。ぜひ、ご視聴を。

 むろん「マガジン9」だって、安倍なんかに負けちゃいられない。こちらは2005年の創刊から、とうとう10年を超えた。創刊以来、無料公開の姿勢を崩していない。
 みなさんからのカンパや寄付、そしてボランティア・スタッフの懸命な努力で、なんとか活動を維持している。「安倍戦争内閣」の暴走が止まらないいま、自由な言論の場をなくすわけにはいかない。
 読者のみなさんの、これまで以上のご支援、そしてカンパ等でのご協力を、改めてお願いいたします(スタッフ一同)。

 そして最後に、愛川さんへの感謝の気持ちと、サヨナラを……。

 

  

※コメントは承認制です。
27 愛川欽也さん、さようなら」 に1件のコメント

  1. 島 憲治 より:

    >「あの時いただいた『日本国憲法』を、今でもほら、持ち歩いているんだよ」と、胸のポケットから取り出して見せてくれた。

    愛川欽也さんの番組はほとんど見ることはありませんでした。芸能界、スポーツ界を通じ、社会人として自分の主張を持ち表現していた数少ない人であったことは知りませんでした。 凄い人を失ったものです。
     私は、行政庁に許認可を申請する業務をしています。憲法的視点からのアプローチは心がけて来ました。しかし、「日本国憲法」を鞄に持ち歩くことは致しませんでした。早速、童話屋発行・「日本国憲法」(286円)を鞄に入れ持ちあることにしました。 ことある事に日本国憲法の視点から考え、行動出来るよう精進したいと思っています。                                                                     愛川欽也さん教訓ありがとうございました。

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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