風塵だより

 年末から年始にかけて、吉永小百合さんがテレビ、雑誌、新聞などにたくさん登場した。70歳だが、その美しさは変わらない。70歳ということは、1945年、つまり敗戦の年に生まれたということ。

 実は、ぼくも吉永さんと同じ年の生まれだ。同年生まれに、落合恵子さんや佐高信さん、早野透さんなどがいる。この方たちとはいろんなところで、よくお会いする。そのたびに「ひどい時代になりそうだね」「いや、もうなっているんじゃないかな」などと嘆きあう。
 ぼくのような者でも、最近は小さな会合や集会などで話を求められることがある。そんなとき「私は敗戦の年に生まれました。だから私は“生きる戦後史”を自称しています」などと前フリして話すことが多い。そして「そんな私が70年間生きてきて、今がいちばん危なっかしい時代ではないかと感じるんです」と続ける。
 2016年になったけれど、この危なっかしさは、いっそう加速しそうだ。正月元旦の新聞にも、「改憲へ 緊急事態条項 安倍政権方針」なんて見出しが躍っていた。

 吉永小百合さんは、たくさん登場したテレビ・新聞・雑誌の記事などで、次のように強調していた。
 「私は、この国がずっと戦後であり続けてほしいと願っています。決して、戦前や戦中にしてはいけません。そうさせないために、できる限りのことをしていきたいのです」
 ほんとうに、ぼくも心からそう思う。今という時代が、次第に戦前の雰囲気に似てきた…と感じるからこそ、吉永さんも「“戦前”ではなく“戦後”であり続けてほしい」と訴えたのだろう。

 元旦の各新聞には、大手出版社の全面広告が掲載されるのが毎年の恒例だ。しかし、出版不況の波はここにも押し寄せていると見えて、全面広告の数はめっきり減っているようだ。それでも数社が、例年通り全面広告を載せていた。ネットの大波に抗して活字の復権を訴えるのに、同じ活字メディアの新聞を利用するのは、当然と言えば当然だ。
 まあ、だいたい各社の傾向は、ぼくも知っているつもりだ。硬派の出版物が多い社はそれなりに、娯楽系出版社もまた社風に合ったイメージ広告を掲げるのだ。そんな中で「おっ!」と目を剥いたのが、集英社の広告だった。ぼくの古巣である。
 集英社という出版社が、娯楽エンタメ系、というよりマンガや女性誌、それに「プレイボーイ」など、女性や若者向けの雑誌社というイメージが強いのは、ほとんどの方の共通認識だろう。だから、広告だってそういう風味。ところが今回は、その味つけが「平和」だったのだ。
 ぼくが数十年も在籍して会社だから、どういう手順で「正月全面広告」が作られるかは承知している。むろん、最終的には社長判断だ。その判断が「平和」だったのだ。
 集英社の場合、広告内容は出稿する各新聞によって違う。朝日、毎日、読売、日経、産経と、メインコピーは同じだが、それぞれの写真やコピーは違うのだ。しかし、共通していたのは以下のコピーだった。

読書は、平和を守る。
永遠平和は空虚な理念ではなく、われわれに課せられた使命である。
Perpetual peace is not an empty ideal, it is a task imposed on us all to achieve.

カント著「永遠平和のために」池内紀・訳(集英社刊)より

 引用された『永遠平和のために』を編集したのが、ぼくの尊敬するIさんという先輩であったというエピソードはさておいて、この広告コピーは、単なる願望としてではなく「平和を守る」と、はっきりと断言している。
 「そんな偉そうなことを言える出版社かよ」という批判は聞こえてきそうだが、それも覚悟で「平和」を前面に押し出したとしたら、ぼくとしては、古巣のスタッフたちを褒めてやりたい気分だ。
 そして、指摘しておきたいのは、こういう出版社が「平和を守る」と真正面から言わざるを得ないような雰囲気が、たしかに今の世の中に蔓延し始めているということだ。

 考えてみれば「戦争は娯楽の敵」である。
 本を読むという「娯楽」は「平和」の中にしか存在しない。戦前の、特に戦争が近づいたころ、日本で何が起こったか。歴史書を開いてみれば、すぐに分かる。娯楽は疎まれ、ファッションは息苦しくなり、監視の目は人々の生活の隅々にまで及んだ。
 権力批判の本などは「禁書」とされ、出版することさえ許されなかった。出版許可が出ても、少しでも批判的な言葉は×××(伏字)にされ、内容は意味不明。
 出版ではないけれど、笑うことさえ影をひそめた。禁煙ならぬ「禁演落語」という笑えぬ話もある。ちょっとでも“お上”をおちょくろうものなら「上演禁止」を言い渡されたのだという。
 そんな世の中が、ちらほら顔を見せ始めているではないか。

 こう書けば、批判は予想がつく。曰く…
 「そんなことが起きるわけがない」「また狼少年のウソが始まった」「おまえらの被害妄想だ」…。そうだろうか?
 もし国内でテロが起きたら…、もし派兵された自衛隊員が戦死したら…、もし災害時に略奪が起きたら…、そして、それが外国人の仕業だという噂でも流れたら…。
 敵を許すな!
 テロリストを殲滅せよ!
 英霊に申し訳ないと思わないのか!
 外国人はすべて国外追放せよ!
 国民は一心になれ、団結して敵にあたれ!
 若者よ、銃をとれ!
 もっと強い軍隊を持て!
 核武装を恐れるな!
 自分では戦場に行かない連中に限って、言葉の嵐で煽り立てる。こんな嵐が吹き荒れないと、誰が言えるだろうか? そんな時代は、絶対に来てほしくない、いや、来させてはならない。
 だが、事実は嫌な未来を示唆している。
 例えば、書店の「民主主義フェア」は「選択が偏っている」という批判によって中止や延期、内容変更などが行われた。また、護憲や反原発の集会が、行政側の一方的な措置によって会場を変更せざるをえなくなったケースもある。同じことがなんと、学問の自由を守るべき大学でも起きている。事態はすでに進行中なのだ。
 だいたい「憲法を守れ」という集会が政治的だという理由で拒否されることに、違和感を持たないのが不思議だ。不許可にする小官僚たちは「憲法99条」を読んだことがないのだろう。

第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 地方公務員といえども、憲法擁護の義務を負っているのだ。それを拒否するのはまさに「憲法違反」だ。もはやこの国は、上から下まで「憲法違反」だらけになってしまった…。
 戦争批判が許されなくなるまで、そんなに距離はない。

 むろん、これらのことがすべて安倍政権の直接的な圧力によるものと言うつもりはない。しかし、安倍政権を支持する人たちの動きと連動している、と考えるのはさほど間違っていまい。
 安倍政権の影に脅える地方小官僚の姿が目に浮かぶ。反権力ないしは政治的と考えられる催しには会場使用許可を出さない、という彼らの姿勢は、明らかに世の風潮との悪しき同調である。

 年が明けて1月4日、“憲法違反の国会”が召集された。安倍首相は、なんだかんだと屁理屈をこねて、とうとう“憲法に規定された臨時国会”を開かなかった。その上で、通常国会を召集したのだから、これはまさに“憲法違反の国会”と言うしかない。
 それに先立つ記者会見で、安倍首相は「挑戦、挑戦、そして挑戦あるのみ」と、いつも通りのわけの分からない空疎な言葉を並べてみせた。その上で“憲法改正”について「参院選でしっかり訴えていく。その中で国民的な議論を深めたい」と述べた。

 ここで少し脱線するが、ぼくは“憲法改正”という言葉には強い抵抗感がある。少なくとも、自民党の新憲法草案等が“改正”だとは、ぼくにはとても思えないからだ。
 あれを“改正”だと考える人が使うのは勝手だ。だが、マスメディアが無批判に“改正”と言うのは極めておかしい。例えば“改定”という言葉があるのだから、それを用いて“憲法改定”と言うべきだと思うのだ。でなければ、マスメディア自体が、「正しく改める」と考えているということになる。それをおかしいと思う感性が、マスメディアの記者たちからはもう失われてしまったのだろうか?

 話をもとに戻そう。
 安倍の言葉遣いの無内容さは今に始まったことではないが、あの安保法制について「国民的議論」や「丁寧な説明」など、一体いつどこで行ったというのか。ウソと欺瞞と言い逃れに終始して、米艦での邦人親子の救出やホルムズ海峡での機雷除去など、次から次へと矛盾をさらけ出したではないか。あげく、答えられなくなってヤジで誤魔化すというていたらく。
 いまさら「国民的議論を」などと、白々しいにもほどがある。しかも、最初は本丸の「9条」には手をつけず、「緊急事態条項」などという定義不明確なところから“9条改正”の外堀を埋める作戦らしい。

 2016年が始まった。
 このままでは、真摯な議論もきちんとした説明もなされないまま、自民公明の醜悪な二人三脚によって、改憲発議がされかねない。
 野党は、もはや四の五の言っている場合ではない。野党共闘の道を探るしか生き残る道はない。当然“野合”という批判は出て来ようが、そんなもんは無視すりゃいい。
 この国は、まさに曲がり角に来ているのだ。70年間の「戦後」を新しい「戦前」にしないためにも、来るべき選挙では野党共闘候補を!

 安倍首相とその同調者たちよ、どうしても戦地へ兵士を送りたいなら、まずこの漫画を読め。
 『総員玉砕せよ!』(水木しげる、講談社文庫、690円+“消費税”)。腕一本を失いながら、南洋での戦争をかろうじて生き延びた水木さんの、怒りを込めた長編戦記だ。あとがきで、水木さんは「この『総員玉砕せよ!』という物語は、九十パーセントは事実です」と書いている。事実の持つ重み、究極の残酷と悲惨…。
 最終ページの、目玉を失った骸骨の眼孔が見つめる死者の怨念。それをしっかりと見た上で、戦争を語れ。
 これは漫画だ。難しい漢字もほとんど使われていない。安倍首相だってルビなしで読めるはずだ。

 

  

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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