風塵だより

 ぼくは新聞を3紙購読している。朝日、毎日、東京の各紙だ。だから、ぼくの朝は新聞を読むことから始まる。
 まず3紙の大きな見出しをざっと斜め読みし、興味の湧いた記事をじっくりと読む。同じニュースを扱っていても、切り口はさまざま。それらの中から、必要だと思う記事を切り抜き、ファイルする(ただしこのファイルには、必要に応じて、週刊誌やネット記事も含まれる)。
 ファイルは「原発」と「沖縄・憲法・他」という2種類。「原発」はこれまでにNo.33、「沖縄・憲法・他」はNo.20にまで達している。
 なんでこんなことを始めたのか。
 それは、あの福島原発事故がきっかけだった。

 それまで、ぼくは雑誌や新書の編集で、原発についての特集や単行本を担当したりしたので、原発について多少の知識はあると思っていた。だが、実際に事故が起きてみると、事故原因や原発構造の問題点、地震や津波との関連、原発マフィアと呼ばれる一群の存在など、ほんとうに知らないことばかりだったことに気づいた。原発に関する資料はかなり持っていたが、すべてを読破して知識化していたとはとても言えない。
 しかも、事故後しばらくは状況の変化が著しく、事態を追いかけるので精一杯。新聞情報も錯綜していた。昨日のニュースと今日の記事が矛盾する。A紙とB紙の中身がまるで違う。テレビでの記者会見では、保安院や経産省の役人が何を言っているのか、まるで雲をつかむよう…。そんなことが連日だった。ぼくにはどれが事実か分からない。だから、目についた記事を切り抜き、それを後で検証できるようにとっておく必要が生じたのだ。
 そんなわけで、ぼくのファイルはあの2011年3月11日以降に始まったのだ。最初は「原発」だけだった。しかし、新聞を克明に読み込んでいくと、当然のことながら、「原発」の後ろには「憲法」が控えており、その「憲法」の埒外の存在としての「沖縄」が浮かび上がる。
 かくして、ぼくの2種類のファイルが出来上がった…。

 ぼくは、ずいぶんマスメディア批判をしてきた。しかし、情報源としては、やはり新聞が圧倒的に多い。批判は、それだけ新聞に期待しているということの裏返しでもある。
 ネット上では「マスゴミ」などという罵倒が飛び交う。そう言いたくなる気持ちが分からないわけではない。新聞によっては、その言葉が似合うほどひどい記事も散見される。
 しかしぼくは、決して「マスゴミ」とは言わない。教えられることだって多いのだ。懸命に頑張って、思いがけぬスクープで世の中を震撼させる記者もいるし、キャンペーン企画で問題の深層に迫る連載もある。
 むろん、批判すべきはしておかなければならない。ことに、マスメディア各社のトップたちの安倍との頻繁な会食や、記者クラブ制度、官庁や政治家との癒着、記者たちの勉強不足とそのための質問力の劣化など、批判の材料には残念ながらこと欠かない。

 しかし新聞の場合、個々のニュース記事はもちろん重要だが、時折掲載される個人名のインタビュー記事や寄稿文がキラリと光ることが多い。それも、ぼくが新聞を捨てられない理由のひとつだ。
 例えば、作家・中村文則さんの「選べない国で 不惑を前に僕たちは」(1月8日付)という朝日新聞の寄稿文などは、これひとつでも1日分の新聞の価値あり、と思わせる一文だった。
 日本という国の現状を、小説家の目を通して見つめ、「正社員という特権階級」と「フリーター」の恐るべき断絶と格差、「人権」や「在日」が不思議なキイワードになって、ある種の人たちが「日本人というアイデンティティ」に目覚め、右傾化していく過程…。
 この国の現状への厳しい批判の文章だが、その中でぼくの目を引いたのは「両論併記」という言葉だった。それこそが新聞の現状への根源的な批判であり、当の掲載紙である朝日への痛烈な問いかけだと思ったのだ。
 「「『王』『奴隷』二つの顔 強い政府求める空気 ブレーキ失っていく」」と題された寄稿文の中で、中村さんは次のように言う。

(略)昨年急に目立つようになったのはメディアでの「両論併記」というものだ。政府のやることに厳しい目を向けるのがマスコミとして当然なのに、「多様な意見を紹介しろ」という「善的」な理由で「政府への批判」が巧妙に弱められる仕組み。
 否定意見に肯定意見を加えれば、政府への批判は「印象として」プラマイゼロとなり、批判がムーブメントを起こすほどの過熱に結びつかなくなる。実に上手い戦略である。それに甘んじているマスコミの態度は驚愕に値する。(略)
 ネットも今の流れを後押ししていた。人は自分の顔が隠れる時、躊躇なく内面の攻撃性を解放する。だが、自分の正体を隠し人を攻撃する癖をつけるのは、その本人にとってよくない。攻撃される相手が可哀想とかいう善悪の問題というより、これは正体を隠す側のプライドの問題だ。僕の人格は酷く褒められたものじゃないが、せめてそんな格好悪いことだけはしないようにしている。(略)
 この格差や息苦しさ、ブレーキのなさの果てに何があるだろうか。僕は憲法改正と戦争と思っている。こう書けば、自分の考えを述べねばならないから少し書く。
 僕は九条は守らなければならないと考える。(略)
 九条を失えば、僕達日本人はいよいよ決定的なアイデンティティを失う。あの悲惨を経験した直後、世界も平和を希求したあの空気の中で生まれたあの文言は大変貴重なものだ。(略)
 最後に一つ。現与党が危機感から良くなるためにも、今最も必要なのは確かな中道左派政党だと考える。民主党内の保守派は現与党の改憲保守派を利すること以外何をしたいのかわからないので、党から出て参院選に臨めばいかがだろうか。その方がわかりやすい。

 引用が少々長くなってしまったが、興味を持たれた方は、ぜひこの全文を読んでいただきたい。1月8日の朝日新聞「オピニオン欄」である。
 この国の進む方向を考えれば、マスメディアの果たす役割は、戦後70年の中でも極めて重要な局面にあると思う。中村さんは、まさに日本の進み行きを危惧するがゆえに、マスメディアの役割の重要さを思い、「両論併記」という悪しき横並びを批判せざるを得なかったのだろう。
 その意識は、ぼくもまったく同じだ。ことに、最近の朝日新聞の「両論併記」ぶりは目に余る。
 朝日は社説でも「特定秘密保護法反対」と(遅かったけれど)書いたし、基本的には「安保法制反対」の立場をとっている。ならば、なぜ「両論併記」の体裁を取る必要があるのか。「賛成派」の意見を取り上げるならば「それを批判する」という文脈で取り上げればいい。そういう意味では、かの産経新聞のほうが徹底している。
 国の行方を決めようというときに、何も上品ぶる必要はあるまい。徹底的に批判の論陣を張るべきだと、ぼくは思うのだ。
 神奈川新聞がネット右翼の批判を受けて発した言葉は「偏っていますが、何か…」というものだった。批判を避けるための「両論併記」など知ったことか、との宣言だ。まことに潔い。
 沖縄の2紙、沖縄タイムスと琉球新報もまた、ネット右翼たちの怨嗟の的になっているけれど「偏向報道批判」などには目もくれない。住民と並走する決意だからだ。ほかにも「闘う地方紙」は数多い。なのになぜ、全国紙は「両論併記」にこだわるのか。経営陣が“安倍メシ”を食っている限り、それは無理か。

 ぼくが最近、とても頼りにしているコラムがある。「uttiiの電子版ウォッチ」という有料サイトだ。ぼくの尊敬するジャーナリストの内田誠さんが1日も欠かさず、朝日、毎日、読売、東京の4紙を深く読み込み、重要な記事をピックアップして4紙の論調を比較検証、そこへ内田さんの鋭い批評を加えて毎朝配信してくれるものだ。これが毎朝配信されて、1カ月の購読料が324円。絶対にお得。強くお薦めする。
 ぼくは、自分の読み方を毎朝、内田さんの批評と重ねてみる。そしてホッと胸を撫で下ろしたり反省したりするのだ。
 その「uttiiの電子版ウォッチ」(1月9日)が、やはりこの中村文則さんの寄稿文を取り上げていた。少しだけ引用させてもらう。

 お読みになった方も多いと思いますが、昨日の朝日新聞。オピニオン欄に、1977年生まれの芥川賞作家、中村文則さんの寄稿した文章が載りました。
 「選べない国で」という連載企画の最終回を飾る4100字ほどの文章です。中村さんが大学へ入った96年の頃から書き起こし、時代の雰囲気や人々の気分、就職についての考え方などから、最後は夏の参院選までを見通して、しなやかな文体で、この社会の病巣をえぐり取るような表現が連ねられています。

 との前置きで、内容に触れる。その中で「両論併記」については「メリット・デメリット論に通じます。何度か論じてきたので、繰り返しません」と書いている。では、その「メリット・デメリット論」とは何か?
 それについては、ぼくへのメールの中で、次のように教えてくれた。

 「両論併記」はまさにメディアを麻痺させる見事な仕掛けですね。第一次安倍内閣を倒す要因の一つになった「ホワイトカラー・エグゼンプション」のときには、マスコミは両論併記なんかしませんでした。「残業代ゼロ法案」という言葉が流行って政権はピンチに陥りました。今はもう、仮死状態になってしまったマスコミ。安倍の脅しの前にすっかり牙を抜かれてしまいました。
 ただ、私に言わせれば、「メリット・デメリット論」も似たようなもので、例えば「TPPにもメリットがある」という発言は、それを言いっ放しにするのではなく、最後に判断をして「TPPを批准すべきか否か」という問いに答える必要があるのですが、だいたい「メリットがある」と言う人は、だからTPPを認めようという結論に導くためにそう言っている、というところがありますね。実はそこがいちばん恐ろしい。一概に反対できない→賛成、というのは明らかに飛躍なのですが、そのようには意識されていない。…

 とても分かりやすい。
 権力側は、手を変え品を変えてマスメディアを脅し、もしくは懐柔を図る。マスメディアの側も、最初は抵抗のそぶりを見せるものの、いつの間にか「両論併記」というお題目に飲み込まれて、誰かさんの思う壺に落ち込んでいく。内田さんが読み解いてくれたように「両論併記」と「メリット・デメリット論」は、同じ流れでつながっている。
 マスメディアは、そんな穴から何とか這い上がってきてほしいと、ぼくは強くそう思うのだ。

 参院選が近い。衆参同時選もささやかれ始めた。安倍首相は「衆参同時選など考えてもいない」と言うけれど、火のないところに煙を立たせ、いつの間にか煙の奥に炎が見え隠れする。それが権力側の常套手段だ。
 「改憲を目指す」と、安倍はついに本音を声高にぶち上げ始めた。そのために衆参同時選の準備に入ったのは間違いない。観測気球を上げておいて、自分に有利だと見れば、衆院解散に打って出るだろう。

 マスメディアはもう「両論併記」で改憲反対・賛成の両論を並べたり、「改憲のメリットとデメリット」などという与太記事を載せるような時期ではないはずだ。はっきりと立場を明確にして、改憲是か非かを、ジャーナリズムの責任として打ち出すべきだ。
 すでに産経や読売は態度を明確にした。それはそれでいい。そこに「両論併記」はない。東京新聞も態度は明確だ。
 いまさら新聞を「社会の木鐸」などと言う気はないが、ジャーナリズムとしての最後の選択が、いま、朝日新聞や毎日新聞に迫られていると思うのだ。

 ぼくは「マスゴミ」などという言葉を使いたくない。

 

  

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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