風塵だより

 これを書いているのは、8月16日。つまり、日本の敗戦によって第2次世界大戦が終結した日から71年目の翌日だ。
 この15日を中心に、例によって、新聞もテレビも「終戦特集」とかいう「8月ジャーナリズム」を繰り広げたけれど、今年は「オリンピック狂騒曲」の真っただ中、きちんと検証したわけではないけれど、いつもの年よりは、戦争に関する報道はかなり少なかったように思われる。多分、ジャーナリズムと称されるものが、硬いテーマよりも、もっと単純に熱く思い入れのできるテーマ(ネタ)に簡単に乗り換えてしまう、ということの証左だろう。昨年は「戦後70年」という区切りの年だったので、報道が増えたという側面もあったのだろうけれど。
 その中で、やはり目についたのは、8月15日に毎年行われている、政府主催の「全国戦没者追悼式」でのあいさつだ。
 今年の式典での「天皇のお言葉」は次のようなものだった。

(略)終戦以来既に71年、国民のたゆみない努力により、今日の我が国の平和と繁栄が築き上げられましたが、苦難に満ちた往時をしのぶとき、感慨は今なお尽きることはありません。
 ここに、過去を顧(かえり)み、深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されないことを切に願い、全国民とともに、戦陣に散り、戦火に倒れた人々に対し、心から追悼の意を表し、世界の平和と我が国の一層の発展を祈ります。

 これは、昨年「さきの大戦に対する深い反省とともに、今後、戦争の惨禍が再び繰り返されぬことを切に願い…」と述べられたことを、ほぼ踏襲したものだが、今年もはっきりと「過去を顧み、深い反省」と言い切っている。過去を振り返ることと反省が結びついている。
 天皇ご夫妻が、太平洋戦争の激戦地を次々に訪れ、兵士も一般人も含め、さらには相手国の犠牲者をも同時に慰霊していることと、この「お言葉」はつながるものだろう。過去への眼差しがなくては、反省などできはしない。それをきちんと認識している。
 それに対し、では安倍首相の式辞はいかなるものだったか。

(略)あの苛烈を極めた先の大戦において、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に斃(たお)れられた御霊、戦禍に遭われ、あるいは戦後、はるかな異郷に亡くなられた御霊、皆様の尊い犠牲の上に、私たちが享受する平和と繁栄があることを、片時たりとも忘れません。衷心より哀悼の誠を捧げるとともに、改めて敬意と感謝の念を申し上げます。(略)

 一読、首相式辞の旧弊さに改めて驚く。
 平易な言葉でなんとか意を伝えようとする天皇に対し、首相式辞では「祖国」「御霊」「犠牲」「哀悼の誠」などという言葉が羅列される。祖国や家族のための尊い犠牲、それが御霊なのだと説く。まさに、安倍首相やその閣僚たちが望んでやまぬ靖国神社の国家護持への道である。
 ここに欠如しているのは「深い反省」だ。天皇が「過去を顧み」ているのに反し、首相式辞には「過去への眼差し」が決定的に欠けている。というより、安倍首相にとっての「過去」は、「日本が正しかった」ことになっているのではないか。
 もうひとつ欠如しているものがある。日本という国がもたらした「他国民の死」だ。安倍首相の言及は、徹底的に「祖国の御霊」に限られる。彼にとって、戦争の死者とは、まるで日本人だけだったみたいだ。
 あの戦争で、日本が「反省」しなければならないようなことなどなかった。多分、それが安倍首相の考えだろう。彼の頭の中は「日本は悪くなかったのだから、反省する必要などない」というリクツ。それは、安倍首相を熱烈支持する人たちと、ほとんど同じメンタリティだ。そして安倍内閣の閣僚たちの多くの部分と共通する。→「日本は間違ってはいなかった!」
 ぼくは、天皇制という制度を支持しているわけではない。だが、人間としてどちらが尊敬に値するかと問われれば、それは自明だ、とだけは言っておきたい。
 
 戦争には必ず「リクツ」がついて回る。なぜ戦争をするに至ったか、という理由だ。当然のことながら、一方が主張する理由は、相手国からすればまったく理由にならない。一方が正しいと主張することは、他方から見れば悪としか受け取れない。
 どんな戦争においても、当事国は「相手が悪い」と主張する。歴史を辿れば、いつだってお互いが「それなりのリクツ」によって開戦する。とすれば、戦争が終わった後には、それ相当の「反省」がどうしても必要になる。反省なしに、戦争相手国と友好関係を再び結び直すことなどできない。これは、それこそ当たり前のリクツだろう。
 だが、我が安倍首相には、その当たり前のリクツが通用しない。首相式辞には、自国の戦没者への「哀悼の誠」は込められていたが、日本軍による相手国の戦没者への言及はまったくない。
 やがて日本にも戦死者が出ることを予想して、日本人(自衛隊員)の「御霊」を念頭に置いての式辞だったのだろうか。もし、自衛隊が具体的な戦闘に踏み込み戦死者が出るようなことがあれば、相手側のことなど構ってはいられない。「祖国に殉じた尊い御霊」としての「犠牲者」に対し、涙ながらに「哀悼の誠」を述べる自分を夢想しているのかもしれない。
 これは、ぼくの勝手な想像ではない。現実に可能性が大きくなっているのだ。南スーダンである。

 折も折、政情悪化が伝えられるアフリカの南スーダンへのPKO部隊の増派が、国連安保理で決議された。自衛隊がすでに参加しているところだ。ここでは、大統領派と前副大統領派が反目し続け、一旦は停戦合意したものの、7月にはその停戦合意が破られ、すでに300人以上が死亡したと伝えられる。現地の情勢は悪化の一途だ。
 毎日新聞(8月14日付)によれば、南スーダンに関しては、以下のような情勢だ。

 国連安全保障理事会は12日、東アフリカ・南スーダンの治安回復に向けて現地の国連平和維持活動(PKO)への4000人規模の部隊増派を認める決議を採択した。同国では7月に戦闘が再燃し不安定な情勢が続いている。南スーダン政府は反対しているが、国連は武器禁輸の発動も示唆し受け入れを迫っている。(略)
 現地でPKOを行う国連南スーダン派遣団(UNMISS)の指揮下で、国連要員や人道関係者、市民らへの攻撃に「積極的に対処」する。国連職員などへの攻撃が準備されているとの信頼できる情報がある場合は、先制攻撃も可能だ。
 追加派遣で、陸上自衛隊の部隊約350人も参加するPKOは1万7000人規模になる。(略)

 さて、ここで問題になるのは自衛隊の任務だ。自衛隊にとって、南スーダンは最初の試練になるだろう。昨年、ほとんど憲法無視の強行採決の結果、成立した「安保関連法」による危険極まりない「駆けつけ警護」の、最初の実施ケースになるかもしれないからだ。
 朝日新聞(8月8日付)は、「駆けつけ警護」について次のように書いている。少し長い引用になるけれど、どんなに危険な任務が自衛隊員に課せられることになるか、よく分かる。

 政府は昨年成立した安全保障関連法に基づいて、自衛隊の新たな任務となった「駆けつけ警護」の実施に向け、8月中にも訓練を開始する方針を固めた。南スーダンの国連平和維持活動(PKO)で、11月に交代予定の陸上自衛隊派遣部隊が対象。3月の法施行後、参院選前は訓練実施を控えてきたが、与党大勝の結果を受けて、環境が整ったと判断したとみられる。(略)
 駆けつけ警護は、離れた場所で国連職員や民間人、他国軍兵士らが武装集団に襲われた時、武器を持って助けに行く任務で、安保法の一つである改正PKO協力法に盛り込まれた。他国軍と協力し、武器を持って宿営地を警護する「宿営地の共同防護」の訓練も想定している。
 安保法施行後、防衛省内では武器使用方法を示す「武器使用規範」の見直し作業を進めてきたが、世論への影響に配慮し、参院選前の訓練実施は控えてきた。今月中に踏み切ることで、南スーダンPKOに11月から交代派遣される予定の青森駐屯地(青森市)の陸自第5普通科連隊を中心とした部隊を対象に訓練を実施することになる。(略)

 参院選に影響が出るかもしれないとして、これまで訓練さえも行ってこなかったというのだから、自衛隊は、政府自民党によって翻弄されてきたと言っていい。いつもながら、姑息な安倍政権である。
 この記事で、自衛隊がどんな任務に就くのか、よく分かる。しかも、まるで訓練開始を待っていたかのように、国連安保理の南スーダンへのPKO部隊増派が決まった。
 国連が部隊増派を決めたのは、それだけ現地の情勢が緊迫しているということだ。前述したように、大統領派と前副大統領派の武力衝突は、もう抜き差しならぬところまで来ている。
 そんな中で、今度は実際に武器を携えて戦闘地帯へ「駆けつける」のだ。銃弾が飛び交う場所へ行くのだ。ヤツは敵だ、敵は殺せ。撃てば撃たれる、殺せば殺される……。
 戦後71年、一度も対外的には銃弾を発射せず、ひとりの他国兵士も殺さず、そして自衛隊員も他国兵士に殺されることなくやってきた国が、遂に、殺し殺される現場に足を踏み入れる。
 日本がまったく別の国になる、その第一歩だ。
 安倍は、憲法違反をものともせず、この日本の71年を根底から引っくり返そうとしている。その集大成が、ついに始まる。

 実は、現在駐留している南スーダンの自衛隊の宿営地のごく近くでも銃声が響き、隊員はまったく宿舎から出られず、ストレスが極限に達しているという。実際の戦闘行為に参加していなくても、ストレスは凄まじいものだろう。海外駐留後に帰国した自衛隊員の自殺者が激増した、というデータもある。
 だが今度は、ストレスどころの話じゃない。実際に武器を手にし、命をかけて戦うのだ。
 すでに、南スーダンへのPKO部隊の交代要員は、青森の部隊に決定しているという。ここでは、隊員たちに上司から「マスコミの取材には絶対応じてはならない」「弁護士との接触も禁止」「それらを破れば出世に影響する」との脅しのような命令が下っているとも聞く。

 だが、話が違うのである。自衛隊員は入隊時に、自衛隊法施行規則で定められた「服務の宣誓」というものを行う。その宣誓と「駆けつけ警護」では、まったく話が違うのだ。宣誓文はこうだ。

 我が国の平和と独立を守る自衛隊の使命を自覚し、日本国憲法及び法令を遵守し、一致団結、厳正な規律を保持し、常に徳操を養い、人格を尊重し、心身をきたえ、技能をみがき、政治的活動に関与せず、強い責任感をもって専心職務の遂行にあたり、事に臨んでは危険を顧みず、身をもって責務の完遂に努め、もって国民の負託にこたえることを誓います。

 ここには「日本国憲法及び法令の遵守」が堂々と謳われている。ぼくは、憲法違反の疑いが濃い安保法に従うのは宣誓に反する、と思う。だが、安倍政権が「合憲」だと強弁するのだから、自衛隊員としては従わざるを得ないのかもしれない。
 しかし、宣誓文の冒頭では、自衛隊員としての使命は「我が国の平和と独立を守る」ことだとされている。遠く熱砂の国まで出かけて行って、駆けつけ警護の名の下に銃を撃ち合うことなど、この宣誓にはまったく反するではないか。
 これでは「約束違反だ」「話が違う」との不満・不安が、自衛隊員の間から出てくるのは当然だろう。南スーダンで銃を撃ち合うことが、どう「我が国の平和と独立」に結びつくのか。
 中日新聞の電子版(15日)に、以下のような記事が載っていた。

(略)実際、現役隊員からも声が上がった。安保法に基づく防衛出動は違憲として今年三月、国を相手取り東京地裁に提訴した。原告の隊員は「入隊時に、集団的自衛権の行使となる命令に従うことに同意していない」と主張する。(略)
 隊員家族の胸中も揺れる。岐阜基地に勤務経験のある空自隊員の妻は「自衛官だから命を危険にさらすのは仕方ないと納得する面と、本当に死んだらどうしようという心配が半々」。(略)

 この記事の末尾には、次のような記者(竹田佳彦氏)の危惧の念が記されていた。ぼくの思いと一致する。掲げておこう。

 戦後七十一年。平和国家の安保政策を大転換させた安倍政権は、自衛隊員のリスクを十分に語ることなく、本格的な改憲へ向けて走り出そうとしている。

 

  

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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