風塵だより

 ぼくの郷里・秋田の偉大なる先達・むのたけじさんがお亡くなりになった。101歳だった。何度か集会などでお見かけした。ご挨拶させていただいた。
 「ぼくも秋田です。むのさんを誇りに思っています」と声をかけると、顔をクシャッと緩めて笑った。
 「おお、そうかそうか。頑張れよ」
 例の、秋田弁まじりの口調でおっしゃった。もう、あの声が聞けないと思うと、ほんとうにさびしい。

 永六輔さん、大橋巨泉さん、そして、むのたけじさん。時代に抗い、背筋を伸ばして、きちんと言わなければならないことを言ってくれた人たちが、次々に世を去っていく。
 「ああ、もうこれ以上、壊れていくこの国を見たくないよ…」ということだろうか。いや、多分、「オレの力はみんなにおいていく。負けるなよ、空から見ているからな……」が正解だろう。
 お三方と親しく言葉を交わしたことは、残念ながらない。ただ、永さんには一度だけ取材させてもらった。丁寧なお礼のハガキをいただいて恐縮した覚えがある。むのさんには、立ち話でご挨拶させていただいただけだし、巨泉さんとはお会いしたこともない。
 だけど、みなさんの揺るがない姿勢には、いつも敬服の感を持っていた。そんな方たちが、そろって旅立ってしまった…。

 先日、毎日新聞の特集ワイド(8月10日付)に、元読売新聞大阪本社社会部長の黒田清さん(1931~2000年)の記事が載っていた。
 「2016年夏 会いたい 平和よ2」という大きな記事だった。
 反戦平和を貫く記事づくりで「大阪読売に黒田軍団あり」と称された反骨のジャーナリストだった。読売本社との確執で退社なさったと聞いた。
 ぼくが週刊誌の編集をしていたとき、黒田さんの連載を企画して、大阪までお願いにあがったことがある。そのときは、副編集長の田中くんも一緒だった。いろいろ話をしていたら、「鈴木に田中。首相ふたりに口説かれたら、断るわけにはいかないなあ」と笑って、承知してくれた。鈴木善幸、田中角栄に引っかけたギャグだったわけだ。
 そして始まったのが「ブラック・ファックス」(後に『ブラック・ファックス──あるいは「昭和」から「平成」、時代を読む』というタイトルで単行本化された)というコラム。むろん、これも黒田の黒をもじったタイトル。ダジャレにはダジャレで返す。考えてみれば、週刊誌も、まだそんな牧歌的な時代だったかもしれない。
 黒田さんは、読売を退社した後、「窓友新聞」という24ページの月刊ミニコミ紙を創刊した。ぼくも、何度か原稿を頼まれて載せてもらった。とにかく、反戦平和、庶民感覚を絶対に外さない人だった。真のジャーナリストという存在があるとすれば、黒田さんは、間違いなくそのおひとりだった。

 真っ赤な夾竹桃が咲く夏は、なぜか、故人を思い出す。

 筑紫哲也さん(1935~2008年)とは、ずいぶん長い間おつき合いさせてもらった。ぼくが月刊誌の編集者だった頃、取材させてもらったのがきっかけ。その後、週刊誌に移ってからも親しくしていただいたし、やがて新書を立ち上げる時にも、筑紫さんにはずいぶんお世話になった。
 「開高健ノンフィクション賞」を創設しようとしたときにも、多くのアドヴァイスをいただいた。むろん、筑紫さんに選考委員になってもらったのは当然のこと。
 「ぼくは忙しいからなあ、無理だよ」と言葉では言いつつ、実は若い才能を見つけることが大好きだった筑紫さんが断るはずがないと、ぼくは高を括っていた。そしてぼくの思惑どおりになった。
 選考委員は、ほかに佐野眞一さん、崔洋一さん、田中優子さんという錚々たる顔ぶれ。それぞれが一家言の持ち主。議論百出でなかなか結論が出ない。そうなると、みんながチラチラと目をやるのが筑紫さん。結局、落としどころは筑紫さんの役回りだった。
 選考委員が4人だから票が割れると2対2で困る。そんなわけで、重松清さんを口説きに行った。「すごいメンバーですねえ」と言いながら、ニコニコして重松さんは承諾してくれた。
 毎年、選考会が終わると、会場(山の上ホテル)の近所のとある酒場で打ち上げをするのが恒例だった。それが、ぼくの年に一度の最大の楽しみだった。だって、筑紫さん、佐野さん、崔さん、田中さん、それに重松さんという超弩級のみなさんと酒が飲める。こんな至福の時はなかった…。
 その筑紫さんも、もういない。

 忘れられない人といえば、本田靖春さん(1933~2004年)。そういえば、この人も元読売新聞のトップジャーナリストだった。読売にも、凄い人材がそろっていたのだなあ、と今にしてしみじみ思う。で、現在の読売には? という問いは、発しないことにしよう。
 ぼくは、今はなき「月刊PLAYBOY」誌で、2年間ほど「PLAYBOYインタビュー」を担当していたことがある。毎月のロングインタビューで、この雑誌の売り物のひとつだった。なにしろ、最低5時間はお付き合いいただくという、なかなかシビアなインタビューだったのだ。
 そこでお願いしたおひとりが本田さんだった。本田さんは『不当逮捕』『疵』『私戦』『誘拐』など、綿密な取材に基づいたノンフィクション作品で知られた作家でもあったからだ。
 ところが、インタビュー日程の直前に、「赤報隊」を名乗る人物が朝日新聞阪神支局に侵入、若い記者を射殺し、もうひとりの記者に重傷を負わせるという衝撃的な事件が起きた。ぼくはインタビューのテーマを「ジャーナリズムの危機」にしようと考え、本田さんに相談。本田さんも快諾、そこでぼくらは兵庫県西宮市の朝日阪神支局へ出かけた。
 支局の玄関先に設けられた祭壇に花と線香を手向けた後で、支局長に挨拶し、それからホテルへ入ってインタビュー開始。翌日の帰りの新幹線では個室を取って、インタビューを続けた。それが最初。
 本田さんの没後、講談社から本田さんの最後の書『我、拗ね者として生涯を閉ず』が出版されたが、そのカバー写真については面白いエピソードがあり、ぼくもその一端に関わっていたことが出版後に分かった。でも、その話は別の機会に…。
 その本田さんも、鬼籍に入られた。

 ぼくが尊敬する方たち…。
 井上ひさしさん(1934~2010年)もそうだった。井上さんとも、最初は「PLAYBOYインタビュー」でお会いした。ぼくの親友のOさんが、井上さんととても親しかった関係で、彼の紹介だった。その縁で、井上さんが座付き作者だった「こまつ座」の芝居をよく見るようになった。
 ぼくは井上さんの初期のころからの大ファンで、小説はほぼ全部読んでいたから、とても楽しいインタビューだった。
 その後、ぼくが週刊誌に移って『誰も知らないPKO』(1992年刊)というムックを作ったことがある。自衛隊がPKO(平和維持活動)の名目で海外へ出ることの危険性を指摘する、いま考えれば、かなり先見の明のあるムックだったと思う。
 PKOに井上さんも大きな危機感を抱いておられると聞き、井上さんが毎夏、ふるさとの山形県川西町で開いておられた「生活者大学校」へ出かけた。同じ不安を指摘しておられた広瀬隆さんとご一緒して、巻頭対談をしていただくことにしたのだった。
 あの対談で、井上さんと広瀬さんが指摘しておられたような危険な状況に、まさにいまの日本は踏み込もうとしている。読み返してみると、作家の感性は凄い。的確に将来を見通しているのだ。
 青々とした田んぼ道で写真を撮った。
 ぼくの、貴重な思い出のひとつである。

 愛川欽也さん(1934~2015年)のことも忘れられない。
 自分のことばかりで恐縮だが、ぼくの編集者としての仕事始めは「月刊明星」というアイドル雑誌だった。新入社員で配属されたのだが、学生時代のぼくには、アイドルなんて全く範疇の外だった。興味もなかったし、テレビも持っていない貧乏学生だったから、アイドルの名前なんてほとんど知らなかった。ぼくが持っていたものといえば、あまり感度の良くないラジオだけ。
 当時、学生たちのアイドルといえば、深夜放送のデスクジョッキーだった。その中でも、落合恵子さんと愛川欽也さん、それに野沢那智さん、白石冬美さんなどが筆頭級。
 ひとりのアイドルの名前も挙げられないぼくに、呆れた当時の副編が「じゃ、きみは何ができるの?」と訊いた。
 「深夜放送のデスクジョッキーの名前ならたくさん知っています」
 「ふーん、若者には人気があるの?」
 「そりゃ、大人気ですよ」
 「じゃあ、それでも取材してみるか?」
 というわけで、ぼくはラジオ担当みたいなことになった。そこで、愛川さんの「パックインミュージック」にも取材に出かけたというわけだ。
 そして数十年の年月が流れ、ひょんなことからまた愛川さんにお会いすることとなった。愛川さんの番組「愛川欽也のパックイン・ジャーナル」(旧・朝日ニュースター)から、お呼びがかかったのだ。ぼくが「3・11」以降、福島原発事故をしつっこく追いかけて「マガジン9」などで発信しているのを、番組のプロデューサーが、何かのきっかけで知ったらしい。
 そこでご挨拶したら、愛川さんは「うーん、うっすらと憶えているような…」とおっしゃった。多分、ぼくのことなど憶えていなかったと思うけれど、そこは愛川さんの優しさ。
 その後、「パックイン・ジャーナル」から「パックイン・ニュース」と模様替えしてネット市民TVに移行してからも、愛川さんの番組に出させていただいた。
 ある時、ぼくが「秋田の出身です」と言ったら、愛川さんはちょっと苦い顔をして「悪いけど、ぼくは秋田が嫌いなんだよ」と言った。いきなりのことで戸惑っているぼくに、「いや、べつに鈴木くんには罪はないんだけどさ」と笑った。
 愛川さんは1934年、東京・巣鴨生まれの江戸っ子だ。だから、1945年の敗戦の年には11歳だったわけだ。ということは、当時の「疎開児童」である。愛川さんは、つてをたどって秋田へ疎開した。そこで、かなりのイジメを受けたのだという。
 「ぼくは、彼らの喋っている言葉がほとんど分からなかったんだ。その上、ぼくの話す東京弁が、どうも彼らの気に障ったらしい。ま、それがイジメの原因だったと今なら分かるけど、小学生のぼくに、そんなことが分かるわけはなかったからねえ」
 まだテレビのない時代、戦前の秋田の子どもたちにとって、東京なんて遠い幻の都。東京言葉なんて外国語並みの理解不能言語だったと思う。そこから来た少年の東京弁はとても眩しかったに違いない。だから、余計いじめた…のかもしれない。
 愛川さんの話は、こう続く。「あれもみんな、戦争のせい。あんな経験はどんな子どもにもさせたくない。ぼくが戦争絶対反対と言い続けるのは、そんなこともあるんだよ」
 その愛川さんも、去ってしまわれた。

 台風がやって来た。夏の終わりの台風が過ぎれば、もうじき秋だ。
 オリンピックもやっと終わった。その終わりには、安倍首相の奇妙なマリオの田舎芝居。これが東京オリンピックにつながるのだとすれば、ゾッとする。

 どうして静かな秋が来ないのだろう…?

 

  

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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