風塵だより

 以下は、2010年の冬に、ぼくが沖縄本島最北端の辺戸岬(へどみさき)を訪れたときに書いた文章です。

 岬の突端に、強風に晒されるように「碑」はそそり立っている。高さは5メートルほど。この種の記念碑にしてはかなり大きい。周りに人影はない。この寒さ、観光客の脚がここまで伸びるはずもない。
 しかし、その寒さに抗するほどに、碑文は熱い。
 白い文字。風雨に晒され少しかすれてはいるが、十分に読める。こう刻まれている。

祖国復帰闘争碑
全国の そして世界の友人へ贈る

吹き渡る風の音に 耳を傾けよ
権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の乾杯の声だ
打ち寄せる 波濤の響きを聞け
戦争を拒み 平和と人間解放を闘う大衆の雄叫びだ
鉄の暴風やみ 平和の訪れを信じた沖縄県民は
米軍占領に引き続き 一九五二年四月二十八日
サンフランシスコ「平和」条約第三条により
屈辱的な米国支配の鉄鎖に繋がれた
米国支配は傲慢で 県民の自由と人権を蹂躙した
祖国日本は海の彼方に遠く 沖縄県民の声はむなしく消えた
われわれの闘いは 蟷螂の斧に擬せられた
しかし独立と平和を願う世界の人々との連帯であることを信じ
全国民に呼びかけ 全世界の人々に訴えた
見よ 平和にたたずまう宜名真の里から
二十七度線を断つ小舟は船出し
舷々合い寄り 勝利を誓う大海上大会に発展したのだ
今踏まれている土こそ
辺戸区民の真心によって成る沖天の大焚火の大地なのだ
一九七二年五月十五日 沖縄の祖国復帰は実現した
しかし県民の平和への願いは叶えられず
日米国家権力の恣意のまま 軍事強化に逆用された
しかるが故に この碑は
喜びを表明するためにあるのでもなく
まして勝利を記念するためにあるのでもない
闘いをふり返り 大衆が信じ合い
自らの力を確かめ合い 決意を新たにし合うためにこそあり
人類の永遠に存在し
生きとし生けるものが 自然の摂理の下に
行きながらえ得るために 警鐘を鳴らさんとしてある

 これが全文である。
 普通の感覚ならば、この碑文はいささか熱すぎる。これほどまでに力のこもった文章は、読み通すのが少し気恥ずかしい。たとえば何かの本の中にこの一節を見出したとしよう。ふっと息を吐き出し、ページを閉じてしまうかもしれない。そういう熱さなのだ。
 だが、この場所に立って、石に刻み付けられた文字の連なりを見ていると、熱さがそのまま私の中に沁みとおって来る気がする。じりじりと身を焼くほどの怒り、その怒りのままに叩きつけたくなる言葉、誰かへ向かっての叫び、受け止めてくれという切なる想い。ふだんなら地に埋もれてしまいそうな硬い言葉が、この地では読む者の体に突き刺さって来る。
 それが、この碑なのだ。
 かつて沖縄はアメリカの軍政下にあった。軍政は苛烈を極めた。軍政は、日本国憲法の理念とは絶対に相容れない。憲法下の権利も恩恵も、沖縄県民にとっては無縁の夢でしかなかった。頻発する米兵の犯罪に、日本の法律は適用されなかった。
 沖縄は日本でありながら「日本国憲法の枠外」に捨て去られた地域だったのだ。
 その状況に抗して、沖縄の人たちは「沖縄県祖国復帰協議会」(復帰協)を組織し、軍政からの脱却、すなわち「日本国憲法の下への復帰」を求めたのである。
 1976年4月にこの碑は建立された。復帰協(第3代)会長だった桃原用行氏が起草し、同じく復帰協(第6代)事務局長だった中宗根悟氏が揮毫したのがこの碑文であると、碑の裏面に記されている。
 沖縄の日本復帰実現は1972年のことであった。しかし、この碑はその4年後に建てられている。なぜか?
 復帰後の状況が、沖縄県民の望んだ形とはあまりにかけ離れていたからである。
 碑文にあるとおり「権力に抗し 復帰をなしとげた 大衆の声」は確かに沖縄全土に轟いた。だがそれはつかの間の喜びでしかなかった。喜びはやがて「県民の平和への願いは叶えられず 日米国家権力の恣意のまま軍事強化に逆用された」ことへの怒りに転じる。
 基地被害はいっこうに緩和されず、むしろ米兵犯罪の顕在化となって県民を苦しめる。接収された土地は返還の気配すらなく、訴えは闇の中に葬られた。それが復帰後の現実だったのだ。
 現実が沖縄県民を苦しめる。その苦しみに抗うため、抗うことを再確認するために、この碑は建立されたのである。だから復帰4年後だったのだ。
 「人類の永遠に存続し 生きとし生けるものが 自然の摂理の下に 生きながらえ得るために 警鐘を鳴らさん」として碑は建てられた。しかし、その警鐘が日米両政府に届いているか。
 否だ。だからこそ、いまもなお、そしてこれからもずっと警鐘を鳴らし続けていかなければならない。
 この碑の訴えは、建立されてから35年ほども経った現在、その意味を新たに持ち始めた。復活したのだ。建てた人々は、碑の訴えの復活など望んでいなかったに違いない、祖国復帰の記念碑として、いつかひっそりとその役目を終えてほしい。そう願っていたのに違いないのだ。しかし……。

 普天間飛行場問題等をめぐって、日米両政府は沖縄の「祖国復帰」以来の願いをいまだ足蹴にしたままだ。解決の糸口を失って迷走を続けるいまだからこそ、この碑の熱い、けれども悲痛な叫びが甦りつつあると思うのだ。
 寒風に冷え切った体を車に押し込め、今度は東海岸沿いの70号線を南下する。
 雲はまだ低い。今日は晴れそうもない。

 前述したが、これは2010年に上梓した自著『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版、1500円+税)に収録した文章だ。
 そこでも述べたように、この碑が建てられたのは1976年だった。すでに40年以上が過ぎたことになる。だが沖縄の状況は、悪化こそすれ改善の兆しはまったく見えない。この40年間とは、沖縄にとっていったい何だったのか?
 女性がレイプされて殺され、米兵犯罪は後を絶たず、オスプレイ等の米軍機は事故を繰り返す。しかし肝心の「日米地位協定」は見直される気配もなく、沖縄が置かれた植民地的立場は放置されたまま。その上で、高江や辺野古に見るごとく、米軍新基地の強化ばかりが進んでいく。

 沖縄県民は、何度「基地反対」の意志を明らかにしてきたことだろう。ぼくがあの文章を書いてからだって、県知事選でも名護市長選でも衆院選でも参院選でも、ずっと「基地反対派」が勝利してきたではないか。
 現在、沖縄地方区選出の国会議員で「基地容認派」は一人もいない。すべて「反対派」が占めている。それ以上の「意志」を、沖縄県民はどうやって示せばいいというのか。
 それでも安倍首相は、アメリカに尻尾を振り続け、沖縄県民の意志を蔑ろにし続ける。そんなアベの姿勢を後押しするような「沖縄ヘイト」の醜悪な言説も増えている。この国の民への、なんとも知れぬ哀しみ…。

 2017年2月7日。
 安倍政権が、辺野古沖の埋立て作業を強引に開始した日。
 ぼくは、悔しさとともにこれを書いている。

 

  

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106寒風の中の慟哭
 沖縄「祖国復帰闘争碑」 
」 に1件のコメント

  1. 鳴井 勝敏 より:

    昨今の選挙は、市民の「感情」に支配されていると映る。これは危険なことだ。ナチス・ヒトラーに学んだのは人民投票の危険性だ。「人の支配」に繋がり易いからだ。そこで考え出したのが「法の支配」である。
     しかし、沖縄は違う。「理性」で民主主義を動かしている。つまり、人権侵害に対して民主主義を道具に闘っているのだ。
     民主主義で救えない人を救うのが司法の使命である筈だ。その役割は増すばかりだ。ところが、傲慢な裁判官が目につく。そして、ヒラメ裁判官が繁殖していると聞く。大丈夫だろうか。
     民主主義の原動力になっている「感情」、「理性」に変える装置がないものか。「教育改革なくして、社会の発展はない」という意識が共有できないものか。悩む。

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)、『反原発日記 原子炉に、風よ吹くな雨よ降るな 2011年3月11日〜5月11日』(マガジン9 ブックレット)、『原発から見えたこの国のかたち』(リベルタ出版)など。マガジン9では「風塵だより」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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