伊藤真のけんぽう手習い塾

今年の憲法記念日は

 5月3日は憲法記念日でした。
 例年は護憲や改憲の立場で講演・集会が盛んに行われるのですが、今年は東日本大震災を受けて、催しを延期したり、被災地支援や原発の勉強会に切り替える団体が多かったようです。全国紙でも、5月3日付けの新聞1面は、原発事故に関する賠償額が4兆円にのぼることや、アメリカ政府のビンラディン殺害作戦でした。たしかに、それらは関心の高い問題です。ただ、自然災害にしろ、原発事故にしろ、国際テロにしろ、根本のところで憲法が関連していることを忘れてはなりません。
災害と平和的生存権

 震災に関しては憲法問題が山積みです。すぐに思いつくだけでも、個人の尊重と幸福追求権(13条)、生存権(25条)、経済活動の自由と財産権(22条、29条)、居住移転の自由(22条)、子どもたちの教育を受ける権利(26条)、勤労の権利(27条)、適正手続保障(31条)、国家賠償請求(17条)、そしてインターネット上の流言飛語の削除要請や、原発の状況について知る権利は、21条(表現の自由、検閲の禁止)などがあがります。また、地方自治(92条)も問題になりますし、明文はないものの国家の人権保護義務や国家緊急権なども議論になりえます。
 ですが、今回は私がもっとも重要だと考える平和的生存権(憲法前文2項)について考えてみます。
 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」
 この権利は平和的生存権と呼ばれています。圧政の恐怖と経済的な欠乏から解放された平和な社会で生きることを、世界中の人びとの権利として保障するものです。憲法の保障する基本的人権を行使することは、平和の基盤があってはじめて可能です。全ての基本的人権を享有する土台となる平和な環境を確保するのが平和的生存権なのです。そして人間の安全保障の先取りともいえる規定です。憲法9条が客観的制度として、国に戦争放棄や戦力不保持を命じるのに対し、前文2項は主観的権利として平和的生存権を保障し、両者が相まって、すべての人権を十分に享有できる環境を確保しているのです。
 従来まで、この平和的生存権が問題になったのは自衛隊に関連する事件でした。自衛隊の地対空ミサイル建設に関連する長沼ナイキ事件第1審(札幌地判昭和48年9月7日)やイラクへの自衛隊派兵阻止を求めた名古屋高裁判決(平成20年4月17日)がその例です。自衛隊は、諸外国の軍事的脅威から日本の国を守ることを役割としています。ですから、軍の施設を設けるにしろ、海外で活動するにしろ、それは平和な環境と緊張関係にあります。その意味で平和的生存権は、国内問題というよりも、諸外国の軍事的脅威との緊張関係という国外問題において問題とされてきました。
 ただ、平和的生存権の出発点は、人権を十分に享有できる環境を確保することにあります。平和のない戦争状態は、そのような環境を破壊する典型例ですが、それ以外の場面で平和的生存権が問題にならないわけではありません。国内に起きた自然災害、人的災害によって、基本的人権を十分に享有することができなくなっているときにも、人間の安全保障そして平和的生存権の保障が問題になるというべきです。
 今回の東日本大震災で被災された方々は、住む家も仕事も失い、避難所暮らしを余儀なくされ、将来の生計のめどすら立たない多くの方々がいらっしゃいます。特に、東京電力と政府による人災といえる原発事故では、原子力発電所周辺に住む住民の方々が、飛散した放射性物質のために、住み慣れた土地に戻ることを制限されているばかりか、通常の数十倍もの放射線を浴びたことで、その生命・健康すら脅かされる事態を招いています。これではとても基本的人権を享有できる環境とはいえません。命を守り、健康を維持し、一日でも早く普通の暮らしを取り戻すための環境を、憲法の平和的生存権は保障しているのです。

国に求めることができること

 では、平和的生存権が認められると、具体的になにができるのでしょうか。
 イラクへの自衛隊海外派兵が問題になった前述の名古屋高裁判決によれば、平和的生存権は、裁判所に保護・救済を求め、法的措置の発動を請求する具体的権利となりうるものだとしています。判決では、国が戦争やその準備をすることによって、個人の生命・自由が侵害されるおそれが生じたり、戦争による被害や恐怖にさらされた場合、また、戦争に加担したり、協力を強いられるような場合には、平和的生存権の主として自由権的な態様の表れとして、裁判所に対し、そのような憲法違反の行為の差止請求や損害賠償請求を求めることができる場合があるとしています。要するに、国に対して戦争をやめろと主張し得ることを認めているのです。
 そうだとすると、原発事故によって被災された方々は、今起きている原発事故からの保護・救済を国に求めることとともに、過去から将来にわたって、生活空間を追われたことによる補償・賠償を求めることができるのはもちろんです。さらに一歩進めて、原発が稼働している状況ではもはや、平和な暮らしを回復することは困難ですから、私は、国に対して原発の稼働を停止する(運転を再開しない)ことも求めることができると考えます。津波による被害は自然災害ですが、原発事故は、原子力政策を推進する国策と、震災後の政府の対応が拙劣だったことに由来するのですから、そのような救済は当然に認められなければなりません。
 原発を停止するという主張に対しては、原発推進派は「夜にろうそくを立てて暮らすのか?」という恫喝をすることもあります。しかし、原発がなければ電気が作れないというのは誤りです。原発は稼働をはじめれば出力調整ができないために、いったん走り始めればフル稼働しなければなりません。その結果、他の代替エネルギーを稼働できないというだけなのです。従来からの水力、火力発電以外にも、新たに風力、太陽光、太陽熱、地熱など、電力を作るエネルギーは他にもたくさんあります。特に、地熱発電、太陽光発電、風力発電は、日本の企業が世界的にも強い場面です。
 平和的に生きるためには、予測される東海大地震などが起きる前に、早急に、新しい原子炉を含めて第三者の目で安全点検を行うこと、古い原子炉の稼働を停止して廃炉にしていくこと、代替エネルギーを模索することが不可欠といえます。その意味では経緯への批判はあるものの浜岡原発停止措置は憲法上も必要な措置といえます。

悪法・悪政を変えること

 ところで、今回の原発事故で思い出し、15年前の明日の法律家講座第11回で行われた、故・平井憲夫さんのご講演を改めて聴いてみました。平井さんは、原発プラントの現場に関わり、その後、被曝労働者の支援をされてこられた方です。そこで印象に残った話が2つあります。
 北海道のある中学校では学校に備え付けた風力発電によって校内の暖房をまかなっていたのですが、その中学生が、夜間にその電力を近所の住宅に供給できないかと提案してきたそうです。ところが、当時の電気事業法では、学校で作った電力は学校内で使うしかなく、他に供給することは認められていませんでした。電気事業法は、建前上は「電気の使用者の利益を保護」することが目的にされているのですが(電気事業法1条)、結局は、電力会社の地域独占を守る運用しかされていないのです。このことは現時点でも変わりません。そのことが代替エネルギーの開発の遅れにつながっているのです。そういう運用を必死に働きかけて、平井さんたちは電気事業法を一部改正させたそうです。わたしたち国民自身が自分たちで決めた法律なのですから、おかしいところがあれば変えられないはずはないのです。そうおっしゃっていました。このことは電力会社の地域独占を改め、発電送電の分離やスマートグリッド促進による自然エネルギー支援政策なども、主権者たる国民の意思によって成し遂げることができるはずだということを示唆しています。
 平井さんのお話で印象に残ったもうひとつは、プルトニウムの話です。日本では使用済み核燃料を再処理してプルトニウムを作り、保有しています。ウランと合わせて核燃料(プルサーマル)として使うという建前です。ところが、内閣府の発表では2009年度末の時点で31トンだそうです(マスコミでは2005年末で45トンとの報道もあります)。しかし、これだけの量のプルトニウムは、もはや核燃料という平和利用の形で使い切れるものではありません。プルトニウムはかつて人類が遭遇した物質のうちでも最高の毒性を持つだけでなく、核兵器の原料としてしか使えません。国際原子力機関(IAEA)では、管理しているプルトニウムが8kg見つからなければ、原爆を1個製造したと考えるそうです。そこから計算すると、保有するプルトニウムが31トンだとして、日本は3875発の核爆弾を潜在的にもっていることになります。たしかに、原子力発電という平和利用のために核をもつこと自体が憲法に違反するかどうかは議論があるところです。しかし、プルトニウムが、核燃料以外には核爆弾の原料としてしか使えない以上、核燃料として使い切れない量のプルトニウムをもつということはもはや、憲法9条が定める「戦力の不保持」に違反するのではないでしょうか。これを極論と一笑に付する人もいるでしょうが、核と原子力はもともと区別される概念ではありません。原子力の平和利用は核の平和利用であり、核兵器の平和利用に発展しない保障はありません。少なくとも現政府は小型の核爆弾は自衛のためであれば憲法上は保有できるという立場なのですから、いざというときに核兵器を作れるように核の平和利用という名目で核を温存していると考えるのは、杞憂でしょうか。

憲法を使いこなす

 憲法は、平和的生存権を保障しています。それは、被災者はもちろん私たちの暮らしをも守ってくれるものです。しかし、守ってくれるからという受け身の姿勢でお上に依存してしまう今までのようなスタンスでは、原発推進の流れを止めることも、私たちの暮らしを守ることもできません。法律を改正し、役人の無策を批判し、それに向けた行動を起こすことは、まさに私たち自身の責任なのです。
 官が提供する情報を鵜呑みにしているだけでは、自分の安全は守れないということは今回の原発事故後の政府の対応でよくわかったことだと思います。民主主義国家においては、権力は信頼の対象ではなく、常に監視や批判の対象です。我々が主体的な意思をもって1人1人が学習し、これからのエネルギー政策を考え、意見を持っていくことが何より大切なことです。
 私が従来から取り組んできた1人1票の実現はまだ道半ばであり、これからが正念場ですが、原発の問題も同じく、選挙権を使い、また、ツイッターやデモを通じて、その意思を表明し、行動していく。そうして憲法を使いこなすことこそ、私たちが自分たちの暮らしを守っていく唯一の道だと思うのです。

 

  

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伊藤真

伊藤真(いとう まこと): 伊藤塾塾長・法学館憲法研究所所長。1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。著書に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)、『憲法の力』(集英社新書)、『なりたくない人のための裁判員入門』(幻冬舎新書)、『中高生のための憲法教室』(岩波ジュニア新書)など多数。近著に『憲法の知恵ブクロ』(新日本出版社)がある。

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