伊藤真のけんぽう手習い塾

「家族のため」という正当化

 皆さんは年末年始をどのように過ごしましたか。一人であるいは家族とともに過ごした方など様々だと思います。家族のために日程を調整したという方もいるのではないでしょうか。「いや、正月くらい好きに過ごさせてもらうよ」という人に対しては、「家族は大切なもの。だからあまりわがままを言ってはいけない」、そんな声も年配者から聞こえてきそうです。
 家族は大切。だからわがままを言わないで、少しくらい我慢しなさいというメッセージを当然と思う人も少なくないかもしれません。ですが、話が疑似家族となると少しややこしくなります。たとえば「会社は家族のようなもの。だから会社のために少しくらい我慢しなさい」と言われると反発する人もいると思います。
 様々な組織での関係を家族と見立てて、組織のために犠牲になることを正当化する圧力がいたるところにあります。会社のため、町内会のため、クラスのため、チームのため、仲間のため…。
 父親は会社のために長時間労働をするのは当然。母親が家族のために家で休みなく家事労働をするのも当然。どちらも「家族のため」なのだからという正当化が、この国ではなんの疑問もなく行われてきました。
 確かに家族は重要です。自分の存在の基礎なのですから、誰もこれを否定することはできません。また、「親を大切に」という価値観も否定するのは難しいです。だからこそ、これらのとても強い力を持った家族への愛情や親への恩というものを国家や組織が利用しようとしたときに、これに抗うことは極めて難しくなります。親を大切にする孝という概念と、君主に仕える忠という概念はときに矛盾するという葛藤が、平重盛に父清盛への孝と後白河院への忠の間で、苦渋の決断を強いたのですが、この矛盾するはずの忠孝を一致させて国家が利用する工夫が明治政府によってなされました。教育勅語です。忠と孝の対象を天皇として一致させ、すべての家族の総元締めとしての天皇への忠誠を政治的に利用したのです。

戦前に広められた「大家族主義」

 私は東洋思想の徳という概念が好きです。私の理解する徳は、「自己の最善を他者のために尽くしきる」というものです。その道を説くことも個人としては重要と考えています。個人として持つべきいくつかの価値観の一つとして、そして生き方の指針の一つとして、こうした考えがあることを子どもたちに知ってもらうことは意味のあることだと考えています。
 しかし、これを国家が道徳教育という名の下で利用するとなると話は別です。一転してうさん臭さを感じます。道徳教育と称して、性別役割分業やルール・規律・秩序を守ることの重要性を教えるとなるとこれは、戦前回帰と愚民化教育が一緒にやってくるようなもので、見過ごすことはできません。
 「家族を大切に」という抗えない力を持った言葉とともに、サザエさんに登場するような3世代家族の縦のつながりを強調することは、戦前の家制度、そして、「全国をも一家一族となし、皇室を宗家となすところの大家族主義」(家族的全体国家主義)につながるものだからです。
 大日本帝国憲法は、神聖不可侵の天皇の絶対統治という原理で貫かれています。皇室は万世一系の天照大神の子孫であり、神によって永遠の統治権が与えられている天皇により神国日本は統治されるのだということになっていました。この帝国憲法発布の翌年に発布された教育勅語には、天皇の支配が国家の統治のみならず、道徳の世界にまで及ぶものであることが示されていました。
 教育勅語によって天皇から要求される徳とは、忠と孝であり、忠の対象としての君主が忠と並べて孝を命じていたのです。当時の代表的教育学者である吉田熊次は、「我が国にあっては忠ならんと欲すれば孝ならずとか、孝ならんと欲すれば忠ならず、ということはあり得ない」としています。なぜなら、「我が国家組織の根本原理たる万世一系の天皇の大御心を奉体することが忠であり、かかる民族的精神を継承することが孝である」からであるとしています。
 「我が国にあっては、家の観念が本であって、しかもその家なるものは家族個々人の単なる集合以上のものである。すなわち家という全体観念はひとり子の父母に対する道を規定するのみでなく、父母の祖父母ならびに子女に対する道をも規定するものである。我が国の孝道はかくの如き世界観、人生観を土台とすることを明確に理解しなければならぬ。否、単にそれのみでなく、全国をも一家一族となし、皇室を宗家となすところの大家族主義にまで昇華せられなければならぬ」というのです。つまり、孝は単に親への忠誠ではなく、家の祖先への忠誠であり、さらには臣民ひとりひとりが帰属する家の総本家である皇室への忠誠へとつながるものとされたのです。
 国もひとつの大きな家であり、ここに国“家”という概念が生まれます。家の家長への忠誠は、国という家の家長である天皇への忠誠となり、忠と孝が両立することになったのです。このように教育勅語の論理は、帝国憲法の万世一系の天皇の統治を臣民と天皇の関係を家族とみなすことによって肉付けしたものといえます。

全体主義の否定と近代立憲主義

 このように祖先への道徳的関係を国家統治に利用したものが家族国家観であり、帝国憲法の本質と思われます。そこでは当然に社会の基礎的単位は家族とされ、個人は家族の中に埋没させられました。こうして全体主義、ファシズムの温床がつくられていったのです。
 こうした戦前の日本の全体主義に対して、よくドイツのナチズムが対比されます。ドイツでも、国家を有機的な一体としての共同体としてとらえ、個人主義を徹底的に否定しました。
 ナチズムによって個人は民族(Volk)の中に埋没し、個人と国家の区別、対立関係自体が消滅し、国家権力を制限する憲法も必要なくなっていったのです。戦前の日本もドイツもともに民族主義的色彩の強い全体主義という点では共通であり、個人主義を徹底的に否定していったという点もよく似ています。
 本来、こうした全体主義の台頭に抗して、立憲主義が歯止めの役割を果たすべきなのですが、戦前の日本もドイツも、そこでの立憲主義は単なる外見的立憲主義にすぎませんでした。見掛け倒しの立憲主義です。憲法で国家権力を縛るという意味の立憲主義こそは認識されていたのかもしれませんが、何のために憲法で国家権力を縛るのかという目的が意識されていませんでした。まさに個人の尊重と人権保障という立憲主義の目的が抜け落ちてしまっていたのです。
 そこで民族主義的全体主義が台頭してきたときに、立憲主義でそれに対抗することができませんでした。だからこそ、戦後のドイツも日本も、こうした戦前への反省から全体主義を否定するとともに、個人の尊厳の尊重と人権保障を重視した近代立憲主義の正統派を継承することにしたのです。
 特に日本は、戦前、治安維持法による思想言論弾圧、皇民化教育による神権的国体思想の思想統一、軍機保護法(1937年改正)による情報統制などで高度国防国家をめざすようになり、国家総動員法(1938年)、大政翼賛会(1940年)を経て戦争に突き進んでいきます。国家統治の手段としての上からの立憲主義(外見的立憲主義)ですら、天皇機関説事件(1935年)によって弾劾され完全に駆逐されてしまいました。
 こうした大きな反省から、日本国憲法は、神権的「国体」思想を完全に否定するために、戦前の神権天皇、軍隊、宗教の三位一体構造を解体し、象徴天皇制、9条による戦争放棄、政教分離を規定することで、民族主義的色彩を除去し、全体主義を否定することにしました。他方で、戦前不十分だった外見的立憲主義を「個人の尊重」(憲法13条)を基礎とした真の立憲主義にすることで立て直します。違憲審査制を持つ徹底した「法の支配」を採用して、裁判所の役割を重視(司法権の独立)しながら、近代立憲主義憲法の正統派の流れを継承することにしました。

何のために憲法で国を縛るのか

 このように様変わりした日本国憲法が施行されて70年を迎えます。
 少し前から、ようやくこの国でも立憲主義が語られるようになりました。ですが、立憲主義が単に、「憲法で国を縛る」というレベルにとどまっていたのでは、800年前のマグナカルタと何も変わりません。何のために憲法で国を縛るのかという目的がしっかりと理解され、自覚されなければ戦前と何も変わりません。その目的が個人の尊重であり、人権保障です。立憲主義の目的が個人の尊重のためだと自覚されて初めて、西欧諸国と共通の価値観を持つ国といえるようになるのです。
 「2012年の自民党憲法改正草案も立憲主義を守っています」という政治家がいます。確かに、外見的立憲主義とはいえるかもしれません。しかし、自民党改憲草案ではその13条で個人の尊重を否定している以上、残念ながら、欧米の近代国家と共通の価値観を共有しているとはとてもいえません。
 さらに、自民党改憲案24条では、「家族は、社会の自然かつ基礎的な単位として、尊重される。家族は、互いに助け合わなければならない」と規定しています。一見もっともなことを言っているように見えますが、本来、社会のもっとも基礎的な単位は“個人”のはずです。それを“家族”を基礎的単位とするということで、個人を家族の中に埋没させます。ここでも個人主義の否定です。
 戦前の帝国憲法の時代がよかったという人たちは、家族や家を強調します。そして憲法の個人の尊重を「行き過ぎた個人主義」として批判します。個人主義に対する憎悪すなわち近代立憲主義の否定と、家制度の復活は表裏一体なのです。そしてその延長線上には、天皇をいただく国家、大家族観があります。天皇に忠誠を尽くす臣民として生きることに喜びを感じる人もいることでしょう。しかし、そうした価値観に納得できない人まで巻き込んでこれを強制することはできません。
 24条改正を主張する人の中には、「お一人様」がかくも増え、「バツイチ」「バツニ」がかくも増えたのは、親は結婚や離婚のことには口出しするな、個人の尊厳なんだから「両性の合意」に口出しするなという今の憲法があるからである、という人がいます。驚くべき発想ですが、帝国憲法の時代を考えればある意味で筋は通っています。
 そして、家族のために犠牲になること正当化する論理は、戦後日本の高度成長を支えました。家族のために父親が犠牲的精神で仕事に邁進する。家族はそのことに感謝するべきであり、家族との時間がないことに不満など言ってはいけません。そして会社自体も社員を一生面倒見るという終身雇用の名の下で過重労働を正当化する。社員という家族を愛する社長(家長)と、家長のために犠牲的精神で献身的に働く社員の構図は、戦前の国家の構造そのものです。
 このような考えを賛美するだけでいると、やがて大義のために死ぬことを正当化し美化する考えにつながっていく怖れを感じます。聖戦として戦死を美化し、犠牲的精神を高く評価し、大きなもののため命を投げ出す。私も若いころにはそうしたヒロイズムに自己陶酔した時期がありましたが、国を挙げてこれをめざすとなるとこれは恐ろしいことになります。
 家族を大切にという言葉の持つ“負の面”にも留意しつつ、家族を大切にすることが私たちには求められています。憲法24条を攻撃し、選択的夫婦別姓、同性婚を攻撃し、男女共同参画社会に反対することの根底には個人の否定があり、その延長線上には、国家のために犠牲になる臣民を理想とする姿があることを忘れてはなりません。
 戦争法や9条破壊に反対し、男女分業社会に抗うためには、個人の尊重の意義を今一度再確認する必要あります。憲法13条と24条が施行されて70年の今年はこれらの規定をしっかりと自覚していきたいと思います。

近代立憲主義をさらに進めた憲法9条

 その上で、今年は日中戦争が始まって80年です。そうした区切り目としてもう一つ、立憲主義に関して意識したいことがあります。
 日本国憲法の立憲主義は、これまで述べてきたように「すべての人々が個人として尊重されるために、最高法規としての憲法が、国家権力を制限し、人権保障をはかる」という近代立憲主義の理念を基盤としています。この点は、欧米先進国と共通の価値観といってよいでしょう。
 1215年のイギリス・マグナカルタから始まった「憲法で国家権力を制限する」という第1ステージの中世立憲主義に対して、「個人の尊重と人権保障」を目的にした近代立憲主義を第2ステージとすると、帝国憲法の外見的立憲主義を経て、日本国憲法はここまで到達しました。
 日本国憲法のすごいところは、西欧の近代立憲主義をさらに一歩進めて、平和まで憲法の目的に取り込んだ第3ステージの立憲主義を採用した点にあると考えています。
 日本国憲法はその前文で憲法制定の目的を2つ掲げました。1つは「わが国全土にわたって自由のもたらす恵沢を確保」するため、すなわち、日本中に自由と人権をもたらすという人権保障のために憲法を作りました。これは立憲主義の第2ステージです。もう1つの目的は「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」、政府に二度と戦争をさせないために憲法を作りました。この点が立憲主義の第3ステージであり、その具体化として憲法9条、前文の平和的生存権規定を設けたのです。
 すなわち、近代立憲主義の個人の尊重をさらに一歩進め、個人を徹底して尊重するために、個人を国家の戦争の道具にしない(一切の戦争放棄)、国家同士の多様性をも認めあえる関係を外交努力によって作っていくこと(平和的生存権、人間の安全保障)を政府に要求する、徹底した恒久平和主義を憲法の目的にしたのです。
 普通の国では、戦争をするかどうかはそのときどきの国民の意思に従って政府が決めます。いわば民主的にコントロールされているのであれば、戦争をも肯定するのが普通の国の憲法です。ですが、日本国憲法では、たとえ民主的手続きによって正当化されたとしても、戦争だけは絶対に政府にさせないように憲法で規制したのです。これは普通の国の普通の憲法とは大きく異なります。
 戦争で2000万人以上の命を奪う加害者になり、310万人ともいわれる日本人の被害者を生み出した戦争だけは、二度と政府にさせてはならないとして、憲法の目的に徹底した恒久平和主義をも取り込んだのです。私は、これは日本の英知であり、人類の英知となるべきものと考えています。

未来を作る覚悟、守るべき矜持

 今年は憲法公布70年ですが、日中戦争勃発から80年でもあります。人類は、70年から80年おきに大きな戦争を繰り返している。戦争体験者がそうしたインターバルでいなくなるからだという指摘があります。人は体験から知りえないことも、知性の力によって知ることができます。人間は戦争してはならない。戦争はよくないことだ。どんなに金儲けにつながるとしても、これだけは守ろうという矜持を持つことが知性です。
 ときにはやせ我慢が必要なときもあります。建前を貫き通す頑固さが必要なときもあります。立憲主義の最先端を走る日本国憲法には、ますます風当りが強くなるでしょう。先頭を走るのだから当然のことです。
 予想もできない世界と日本の未来。だからこそゆるぎない価値基準が必要なのだと考えます。どうなるのか不安だとおびえるのではなく、未来は私たちの意思で作り上げるという覚悟が必要になるのだと思います。
 そのときの価値基準として天皇や家族、集団主義ではなく、個人の尊重でありたいと思います。もちろん、ここでいう個人の尊重は自分だけがよければよいという利己主義や自分勝手とはまったく違います。自分と同じく他者を個人として尊重するということです。人は一人では存在できなことは確かです。だから個人の尊重とは他者の尊重に他なりません。そしてそのような他者への思いやりは多様性を認め合う寛容の精神につながります。
 寛容・思いやりという人間が共存するために必要な根本の価値を今一度、憲法とともに再確認する必要があります。戦争は絶対に許さないという強い意志と、思いやり・寛容というしなやかな強さを両立させることを自分の中の目標にしていきたいと思います。

 

  

※コメントは承認制です。
第八十九回憲法施行70年にあたって
〜9条、13条、24条を考える〜
」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    たとえ国民の多数が、戦争することを民主的な制度によって選んだとしても、日本国憲法はそれを許していません。この「徹底した恒久平和主義」という理念こそが、世界に類を見ない、立憲主義の最先端を走る日本国憲法の根底にある価値観だと、伊藤先生は指摘しています。それはある時は、民主主義を超え、また否定することにもなるかもしれません。それでも「戦争はしない」というこの価値観、貫くべきではないでしょうか。カオスとも言われる混沌とした時代だからこそ、人類にとっても、日本国憲法のこの価値観が必要とされるのではないでしょうか。現憲法をいただく主権者として、2017年は改めてきちんと考え、発信したいと思います。

  2. 鳴井 勝敏 より:

     人間が最も能力を発揮する環境は何か。寛容性ある組織、社会であろう。その為の「個人の尊重」(憲法13条前段)である。
     「個人の尊重とは他者の尊重にほかなりません。そして、そのような他者への思いやりは多様性を認め合う寛容の精神につながります」との指摘。その為には、一人一人が自立した市民としてものを考える様にならなければならないと考えている。
     日本では「個人は家族の中に埋没」。ドイツでは「個人は民族の中に埋没」。個人を徹底して否定する構造は共通していた。そして現在、日本では「疑似家族」という地下水が脈々と流れていると見ている。むしろ、国民の不安はこの流れを強めているように映る。
     これは、自立心の涵養を阻み、「考える力」を奪う。そして、集団は時に人を変えてしまう。行動する際の価値観を「善悪」という客観的基準よりも、共同体において「迷惑を掛けたか否か」という主観的基準に求めるからだ
     そんな中、寛容な組織を作りスポーツを闘うチームが増えてきた。選手の可能性を最大限引き出すために有効だと気づき始めたのだ。最近では、東京箱根往復大学駅伝で青山学院大3連覇が良い例だ。勝敗はもちろんのこと、人間成長のためにもこの流れは加速することだろう。
     個人を家族の中に埋没させようとする自民党憲法改正案。歴史の教訓に逆行する改正案を考える人、支持する人。私達は、不確かな時代に生きていかなければならないのだ。その羅針盤を早く見せてほしい。

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伊藤真

伊藤真(いとう まこと): 伊藤塾塾長・法学館憲法研究所所長。1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。著書に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)、『憲法の力』(集英社新書)、『なりたくない人のための裁判員入門』(幻冬舎新書)、『中高生のための憲法教室』(岩波ジュニア新書)など多数。近著に『憲法の知恵ブクロ』(新日本出版社)がある。

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