伊藤真のけんぽう手習い塾

改憲が必要であるという理由の一つに、「独立国家である以上、自分の国は自分たちの国の軍隊で守るのは当然である」という論調があります。これについて、伊藤塾長がていねいに反論、解説しています。

独立国家である以上、
自分たちの軍隊で国を守るのは当然、への反論

 これまで、軍事力を持つことは、今の日本においては、必ずしも私たち国民の生命と財産を守ることにならないという話をしてきました。今回は、それでも、独立国家である以上、自分の国は自分たちの軍隊で守るのが当然だという考え方について検討したいと思います。

 この主張は2つに分けることができます。
[1]独立国家である以上、自衛権があるのであり、自分たちで国を守ることができるし、また守るのが当然である。
[2]国を守るためには軍隊は不可欠である。

 さて、[2]については、結局、軍隊が国民を守るために有益か、本当に不可欠かという論点になります。この点については、軍隊は私たちひとり一人の国民の生命や財産を守るものではないというのが軍事の常識であり、国を守るためには軍隊以外の方法もあることはすでに述べました。国家の発言力を高めるため、外交カードとして軍隊が必要かという点については後に検討します。

 今回は[1]に焦点を絞って考えてみましょう。独立国家である以上は、自衛権がある。だから自分の国を自分たちで守るのは当然だという考えです。
 確かに、日本は独立国家なのにアメリカに守ってもらわなければならないというのは我慢ならないという人もいるでしょう。また、日米安保条約があるから、いざというときにアメリカに守ってもらえるかというと、この点はあまり楽観的に考えるべきではないと思われます。安保条約も実際にはアメリカ軍の武器弾薬などの兵站の要として、また軍事訓練拠点として日本が機能するためにこそ存在しているようにみえます。

 日本中に135カ所もある米軍基地は、安保条約6条によって、「日本国の安全に寄与し、極東における国際の平和及び安全の維持に寄与するため」に置かれていることになっています。しかし、実際には、イラク戦争でも横須賀から空母キティーホークをはじめ軍艦5隻が出撃し、トマホークでの攻撃や艦載機による空爆で多数の一般市民を殺害し、三沢、横田、厚木、岩国、佐世保、沖縄から出撃した1万人以上の部隊がイラクに展開し、大義なき戦争を続けています。

 どうもアメリカはアメリカの都合で戦争を行っているようで、あまり日本のいうことをきいてくれそうもありません。いざというときに、日本のことよりもアメリカ国民やアメリカ企業の利益を第1に考えるでしょうから、やはり日本は自前の軍隊を持たないと不安だという気持ちはよくわかります。まさに日本は独立国家なのだから、自分の国は自分で守るべきだというわけです。

 それでは、独立国家だから自衛権があるはずだ。自衛権があるのだから、自分たちで守らなければならない、という点について考えてみます。また、よくある疑問のひとつに、独立国家なのだから、正当防衛権があるのではないか。個人に正当防衛が認められるのと同じように国家にも正当防衛権があり、自衛のための戦争は当然に許されるはずではないかというものがあります。この考えについてもついでに検討しておきましょう。

戦争を正当化してきた三つの条件

 まず、自衛権についてです。

 そもそも戦争は国家間の争いです。その戦争が正当化される場合を昔から国際法学者はなんとか説明しようとしてきました。国際法の父と呼ばれるグロティウスという人は、戦争が正当化される場合として、自己防衛、財産の回復、処罰の3つをあげていました。その後も他国を侵略する戦争はいけないが、自己防衛つまり自衛のための戦争は仕方がないという考えが主流となりました。

 いくら戦争を避けようとしていても、他の国から戦争を仕掛けられてしまったら応戦せざるをえない。だから国家は自衛権を持つのだというわけです。

 ここで自衛権とは、ある国家が、他の国家から不法な武力攻撃を受けたときに、それを排除するうえで他に手段がなく、緊急やむを得ない場合に、必要な限度を超えない範囲で反撃する権利と定義されています。

 もちろん、この定義からもわかるように攻撃されたら何をしてもいいというわけではありません。【1】急迫不正の侵害があること、【2】その侵害を排除するために他に手段がないこと、【3】排除するために許される実力行使は必要最小限であること、という3要件を満たす必要があります。

 こうした自衛権は独立国家が持つ当然の権利と考える人が多くいます。その根底には、個人の正当防衛との対比で当然と考えるようです。この点は次に述べます。ですが、その点をおいたとしても、実は自衛権という概念は時代によって、その内容も変わり、位置づけも変わってきているものなのです。

 第2次世界大戦後に生まれた国連憲章では、原則として一切の戦争を違法としています。そして、国家の安全は後に述べる集団安全保障によることとしています。国際の平和を維持するためには、一国の自衛権に頼るのではなく、あくまでも集団で対処することにしました。ただ、例外的に集団的措置をとることができないときに限って、自衛権を認めたのです(国連憲章51条)。自衛権の行使も例外として位置づけられました。国家が当然にもっている権利という発想ではないのです。

時代とともに変わる
自衛権の概念

  この国連憲章51条に、世界で初めて集団的自衛権という概念が登場しました。それまで自衛権といえば、自分の国が不法に侵略されたときに行使するものと考えられていたのですが、それは個別的自衛権と呼ばれるものになりました。そして、集団的自衛権つまり、同盟国が攻撃されたときに、自国への侵害とみなして、その相手国に対する武力攻撃を正当化する考えが生まれたのです。他国のために、または他国に代わって武力攻撃をすることが認められたのですから、これは自衛権という概念の大きな変化です。

 集団的自衛権はもともと、アメリカが合法的に軍事行動をとるための免罪符として創り出されたものといえますが(そのあたりの経緯は、浅井基文さんの『集団的自衛権と日本国憲法』(集英社新書)を参照してください。入門書としてとても勉強になります)、その後も、ベトナム戦争をはじめとしてありとあらゆる戦争が集団的自衛権の名の下に行われてきました。

  個別的自衛権も集団的自衛権も、国家がもともと持っているから当然の権利として、国連憲章で規定されたのではなく、大国の意向によって、国際政治の妥協の産物として規定されたにすぎません。しかも、集団安全保障が機能するまでの例外としての位置づけです。

個人に正当防衛が認められるなら、
国家にも正当防衛権があるはず?

 それでは、そもそも、個人に正当防衛が認められるから、国家にも正当防衛権があるのだという主張はどうでしょうか。

 刑法の世界で、なぜ、正当防衛が認められるのかについては議論が分かれています。ひとつは、侵害者の「急迫不正の侵害」の方が違法であり、許されないことを法が確認し、それを宣言するために、正当防衛行為を違法ではないとするのだという説明です。国民の法的利益(法益)を守るのが刑法の役割であるにもかかわらず、国家の救済を求めることができない緊急事態において自分の法益を守ろうとする行為(正当防衛行為)を処罰したのでは、刑法自体が破綻してしまう。つまり法益を守ることを目的とする刑法が、法益を守る行為を処罰したのでは自己矛盾に陥ってしまうので、法益を守る行為を例外的に処罰しないのだという説明です。もうひとつは、侵害者の法益と防衛行為者の守ろうとする法益を比べて、後者の方が絶対的に優位するから、違法ではないとする説明です。

 いずれの説明も、人間には生まれながらに正当防衛権という権利があると言っているわけではありません。あくまでも刑法という法によって例外的に認められた制度に過ぎないことを前提にしています。襲われたときにたとえ正当防衛であっても、その侵害者を殺害することは、刑法上の犯罪行為にあたります。つまり本来は違法です。ただ、一定の要件を満たした場合に例外的に法的には違法と評価されないというだけのことなのです。あくまでも正当防衛は刑法という法律によって例外的に認められたものにすぎないのです。

  刑法が個人に例外的に正当防衛を認めたからといって、国家に同じように正当防衛権が認められるという理由はどこにもありません。国家の問題は国家の問題として、国際法によってどのようなときに自衛権の行使が許されるかを個別に検討するというだけのことなのです。

 また、刑法の正当防衛は侵害してきた相手に対しての反撃を許しているだけです。反撃の際に第三者を侵害してしまったときには、正当防衛では正当化できません。戦争の際に、目の前で自分に銃を向けている敵の兵士を殺害することは正当防衛になるとしても、その背後の部隊やましてや民間人を殺害することを正当防衛で正当化することは、不可能です。

 つまり個人の正当防衛の問題と国家の自衛権の問題を同一視すること自体が間違っているのです。個人の正当防衛は、自衛戦争を正当化する根拠にはなりません。

 さて、独立国家である以上、当然に自衛権があるから、自衛軍を持ち、自衛戦争ができるように準備するのは当たり前だという主張は一見もっともらしいのですが、実は当然のことではないということがわかったかと思います。自衛権も当然に認められるものではなく、国際社会の一定の条件の中で生まれるものにすぎません。ましてや個人の正当防衛と同列に論じることなどできないのです。

9条のもとでは行使できない
集団的自衛権

 日本ではよく、個別的自衛権は行使できるが、集団的自衛権は行使できないと説明されることがあります。ここで前提にされている個別的自衛権は軍事力の行使以外の方法による自衛です。つまり自衛のための実力は許されるというわけです。たしかに警察力などは許されるべきでしょう。ですが、本来の自衛権が武力行使を前提にしているところからすれば、憲法は自衛権すら否定していると言った方がすっきりします。ただ、その点に抵抗があるのであれば、言葉の問題ですから、自衛権はあるけれども、軍事力は行使できないと理解しておいてもかまいません。

 それに対して、集団的自衛権は現在の憲法の下では行使できません。これは政府も一貫して否定しています。「我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであって、憲法上許されないと考えている。」(1981年5月29日政府答弁書)

 持っているけれども、行使できないとはわけがわからないという政治家がたまにいますが、どうしてわからないのか、私にはわかりません。200キロのスピードが出る車を持っているけれども日本では100キロまでしか出さないのと同じです。アイスクリームを食べる権利は誰にもあるけれど、自分は健康のことを考えて食べないことにするのと同じです(これは東大の長谷部恭男教授がよく出される例ですが、けっこう気に入っています)。持っているけれど使わない。できるけど、やらない。これは誰もが理解できることです。

  日本は憲法で集団的自衛権は行使できないと自分たちに歯止めをかけたのです。集団的自衛権の名の下に行われたさまざまな不法な武力行使に加担しないですんだのは9条があったからです。

独立国家の主権を制限することで、
国の安全を確保する

 さて、これまでの議論の前提には、自分の国を守るのは自分たちだという考えがありました。

 そこには、主権国家なのだから、自分たちで自分の国を守るのは当然だという発想があるように思われます。確かに、近代民主国家は国民が作った国家であり、国民が自分たちで守ろうとするのは当然のなりゆきでもあります。本格的な国民軍はフランス革命によって生まれたといっても過言ではありません。徴兵制は民主主義の産物です。

 また、市民革命はそれまで国内に存在していた様々な権力、たとえば、地方都市や封建領主、教会や大学といったものまで含めて、あらゆる権力の頂点に国家があるのだと、国家の位置づけを明確にしました。権力を国家へ集中させ国内的には国家を最高とし、対外的には独立の存在としたのです。これを国家の最高独立性といい、国家主権ともいいます。こうして主権国家ができあがり、戦争も独立した国家によるものとなります。

 なお、ここでいう国家の主権は、国民主権の主権とは意味がちがいます。国民主権の主権は国家のなかにおける政治の最終決定権を意味しますが、国家主権の主権は、国家自体の最高性、独立性を意味します。日本は主権国家なのだから、外国による内政干渉は許さないというときに使う「主権」です。

 このような主権国家である以上は、自分たちで自分の国を守るのは当然のように思えるのですが、最近はそうでもなくなりました。この独立国家としての主権が制限されるようになってきたのです。その典型はEUです。国家の独立を守るために、むしろ国家の主権をお互いに制限していこうとするわけです。この一見、逆説的にも思える発想は、現代のひとつの潮流といってもいいでしょう。

集団的自衛権と
集団安全保障との違い

  自分の国を守るために、自国の軍備を拡大するとどうしても軍拡競争となり、かえって地域の軍事的緊張が高まります。紛争の火種を抱えることになり、地域の安全保障の障害になります。そこで、自国の戦争する権利を制限して、周辺諸国と信頼し協力しあうことで安全保障を実現しようという試みが生まれたのです。

 独立国家としての主権を制限することによって、むしろ国家の安全を守ろうとするのですから、これまでの自衛権の発想とはずいぶんと方向性が違います。むごい戦争を経験した人類が到達したひとつの知恵といってもいいかもしれません。これが集団安全保障という考え方です。

 集団安全保障というのは、多くの国があらかじめ友好関係を結び、相互に武力行使を禁止すると約束して、お互いの国家主権を制限します。もし万が一、この約束を破って他国を侵略する国があれば、侵略された国が自衛権を行使して反撃するのではなくて、他のすべての国が協力してその侵略を止めさせようとするのです。

 集団的自衛権は、同盟国の敵を自分の敵として反撃しようとするので、同盟国だけで結束し、それ以外は敵とみる、いわば排除の論理を前提にしていますが、集団安全保障は、仲間を信頼して、共同して問題を解決しようという共生の論理を前提にしています。その前提とする発想がまったく逆向きなのです。

 国連憲章は、先に述べたようにこの集団安全保障を原則としました。国際政治の現実への妥協から自衛権の行使を禁止することはできませんでしたが、あくまでも集団安全保障の方向で問題を解決しようという姿勢は明確です。

 その後、1946年に制定されたフランス憲法でも、「平和の組織および防衛に必要な主権の制限に同意する」として、個々の国が自分たちの力だけで、自国を守るという伝統的な発想から解放されたのです。その後ドイツでも安全保障のために国家主権を制限する憲法を制定します。

 そしてこうした集団安全保障のために国家主権を制限するという発想は、幣原喜重郎によって提案された日本国憲法9条と前文に端的に現れています。日本は国家主権としての戦争を放棄し、自国の安全を維持する手段としての戦争も放棄したのです。

現在の潮流にある
集団安全保障の考え方

 以上のように、独立国家だから、自分の国を自分たちでまもらなければならないという考え方は、自分たちだけで守るべきだという意味であれば、それは時代遅れの発想ということになります。世界の流れは、たとえ国家の主権を制限しても、集団安全保障のしくみをいかに構築していくかに焦点が移っているのです。

 もちろん、ヨーロッパでも移民の問題や人種、宗教の問題など、安定した集団安全保障の仕組みを作り上げるには、まだまだ多くの難問を抱えています。国連も十分に機能しているとはいえません。しかし、他国と協力して集団安全保障を図っていこうとする枠組み自体は否定されていません。地続きのヨーロッパでは自国の軍事力だけで自国を守ろうとすることがいかに非現実的かよくわかっているからでしょう。

 日本も、アジアの一員として存在し続けるためには、大陸や朝鮮半島の国々と協力関係を築き、アジアにおける集団安全保障の枠組みをいかに構築するかという大きなテーマを議論する時期に来ているように思われます。アジアでは、経済問題のみならず、エネルギー問題、環境問題、自然災害対策など私たちの生存に必要な課題が山ほどあります。
  それらの問題を軍事力強化によって解決できるとはとても思えません。

 こうした我々の生存や生活を脅かすあらゆる脅威からの安全を確保するためには、アジア各国との信頼関係、協力関係の構築は不可欠のはずです。そのときに他国の軍拡路線に惑わされて、日本の基本的な軸がぶれることは、日本のみならず、アジア、ひいては世界の安全保障に大きなダメージを与えることになるでしょう。

 自国の住民を守るために、国家の主権すら制限し、より広い範囲で広い意味の安全を確保するための努力が必要だと考えます。
 感情論ではなく、理性と知性によって、より安全に快適に暮らせる社会をつくることに努力するべきです。そうした知性を発揮することは、国力を高めることにもつながり、日本が国際社会において名誉ある地位を占めることにつながるのです。
 私たちひとり一人が、他国の脅威論やわかりやすい暴力肯定論に惑わされるのではなく、本当に必要なことは何かをしっかりと具体的に考えることが必要です。そのために憲法9条は重要な意味を持っているのです。

 

  

※コメントは承認制です。
第九回 自衛権と集団安全保障」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    個別自衛権、集団的自衛権、国家の主権、集団安全保障と、
    これまで漫然と読んできたこれらの言葉ですが、それぞれの持つ意味が、
    非常によくわかり頭の中で整理されました。
    伊藤塾長、ありがとうございました!

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伊藤真

伊藤真(いとう まこと): 伊藤塾塾長・法学館憲法研究所所長。1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。著書に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)、『憲法の力』(集英社新書)、『なりたくない人のための裁判員入門』(幻冬舎新書)、『中高生のための憲法教室』(岩波ジュニア新書)など多数。近著に『憲法の知恵ブクロ』(新日本出版社)がある。

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