この人に聞きたい

今年95歳を迎えた現役映画監督、新藤兼人さんは、64年前の軍隊生活を振り返り、「これだけは伝えておきたい」と映画『陸に上がった軍艦』のシナリオを書き、出演・証言をしています。戦争のこと、原爆のこと、現在の政治・平和運動について、今、伝えたいことをさらにお聞きしました。

新藤兼人(しんどう・かねと)
1912年広島生まれ。1950年近代映画協会創立。映画監督・シナリオ作家。代表作は「裸の島」(モスクワ映画祭グランプリ受賞作品)、「原爆の子」「第五福竜丸」「午後の遺言状」「ふくろう」他、多数。日本のインディペンデント映画の先駆者であり、95歳の現在も現役監督・シナリオ作家として活躍中。70年に及ぶ制作活動において手がけた監督作品は47本、シナリオは240本以上。48本目の監督作品となる『花は散れども』の撮影準備が進行中。
32歳で召集。
下級兵士の壮絶軍隊生活が始まった

編集部
 現在公開中の映画『陸に上がった軍艦』(監督・山本保博)は、原作・脚本・証言を担当されています。どんな映画になりましたか?

本土決戦に備えて、木で作った戦車を相手に終日突撃訓練
©ピクチャーズネットワーク

新藤
 僕は、いわゆる「戦争反対」と言っている人たちとは、少し次元が違うんです。32歳で召集され、戦争の中身を体験して帰ってきているわけですから。
 僕が、戦争になぜ反対かというと、それは“個”を破壊し、“家庭”を破壊するからです。みんな、戦争は良くない、反対だと、口癖のようにいうけれど、そういった、戦争の本来の原点から言っている人は、あんまりいないんじゃないでしょうか。
 『陸に上がった軍艦』は、それを山本監督がやってくれた。私はシナリオを書き、出演して証言をしていますが、そのうえ監督をするとですね、私の主観的なものになるでしょ? すると他人から「これは嘘じゃないか、新藤君」と言われてもしょうがないことになる。
 でも戦争を体験したことのない若い監督が、このシナリオを演出するとなると、客観的なものが出てくる。そういう意味でも、今回は私がやらずに、山本監督にやってもらったということなんです。勿論、これはプロデューサーが、意欲を持って取り組んでくれたから、できた映画なんです。とにかく戦争を、二等兵から見上げた戦争日記のようなものを、みなさんに知ってもらいたいと思ったんですね

編集部
 新藤さんが実体験された過酷な軍隊生活が、ドキュメンタリードラマとして描かれているこの映画は、悲惨なのに、命令される作戦や軍事練習がばかばかしすぎて、笑ってしまう所もいくつかありました。

靴を逆さに履くことで、足音を消し(?)突撃訓練
©ピクチャーズネットワーク

新藤
 僕は、昭和19年、松竹のシナリオライターとして仕事をしていた時に招集されました。32歳だから、老兵です。帝国海軍二等水兵として呉海兵団に入りました。そこで100人の隊に編成されました。それはいわゆる掃除部隊でした。最初に天理市にいって、1ヶ月ほど予科練が入る施設の掃除をして、そこの掃除がすむと、上官が勝手にクジを引きます。クジで決まった60人は、フィリピンのマニラへ陸戦隊として就くよう出撃命令が下ります。しかしちょうどそのころは、アメリカ軍は沖縄に向かっており、マニラではすでに日本軍は敗走しているわけです。そこへ行け、という命令なんだけれど、ほとんど意味がない。その60人は、マニラ・フィリピンに着く前に、撃沈させられたようです。
 僕らは二等兵として招集されたから、軍隊では一番下の位でしてね、天理での掃除がすんだから、余分な兵隊たちを処理しなくてはならない、という意図があったのかどうか知らないけれど、100人のうちの60人は、実際そういう目にあって、死んでいます。
 残った40人のうち、上官がまたクジをひいて30人が潜水艦に乗せられ戦死します。そして私を含むその10人が残り、宝塚の予科練航空隊に入り、雑役兵として掃除をさせられていましたが、そのうちの4人は、日本近海を防衛する海防艦に乗せられます。最後に残った6名だけが、宝塚で生きて終戦を迎えます。

編集部
 戦場ではない場所で、無惨に死んでいったのですね。

新藤
 僕と一緒に召集されたのは、30歳も過ぎたものばかりだから、みんな家庭の主人なんだ。主人が亡くなってあと、家庭はどうなりますか? 悲惨な運命です。
 しかし、当時の軍隊は、いちいち家庭の破壊のことを考えていては、戦争はできない。軍の司令部は、俺達が国をまかなっているという意識であり、要するに、一人の人間の権利なんて考えていません。しかし、実際に戦争を戦うのは、みんな個人なんだ。そして、ひとり一人の個には家族がある。
  だから戦争は、個の立場から考えると、まったくやってはいけないこと。いかなる正義の理由があろうとも、やってはいけないことなんです。国家として平和を守るということは、つまり国民の、一人ひとりの個の平和を守ることなのに、まるっきり逆のことをやっている。そういう観点からぼくは戦争を見ているし、そういう角度から見て、ぼくは戦争反対なんです。その理由から憲法9条も変える必要はないと思っているのです。

編集部
 映画にも、戦争が、普通の人とその家族を破壊していく様が描かれています。

新藤
 戦争を指揮している人からすると、国民は戦争が起きたら、当然軍隊に入り戦うもの、という考え方があるわけですね。号令をする人は、安全な場所にいて、お茶でも飲みながら、「ここはこうしたらいいんじゃないか。ここは無駄だとは思うけど、ここへもってって配置したらいいんじゃないか」と作戦を立てる。大局的に見て、将棋みたいなもんですからね、だから駒をいかに詰めていくかというようなもんで、要するに捨て駒もしなければいけない。そういうことなんだけど、捨て駒になる兵隊は、たまったもんじゃありませんね。本当は、大将も下級兵も、家庭が破壊されるということからすれば、同じなんですが。
 だから戦争なんかなぜするのか?と思っています。例えば、イラクで今、戦争をやってますね。内戦状態になって、毎日毎日、家庭の主人を殺したり、子どもを殺したり、主婦を殺したりしているわけですね。家族を殺された人は、敵意をむき出しにして、また相手を殺すというようなことをやっているわけですね。そこには複雑なものがあると思うんだけれども。しかしアメリカが、この戦争の口火を切ったわけで、なんであのような超大国が他国へ行って、手を伸ばして、その国の人たちや家族を破壊していくのか、それがなぜ許されるのか、わかりませんね。

一人の戦争経験者として、
言っておきたいことがある

編集部
 最近もまた、たくさんの戦争映画が作られていますが、二等兵の視点から描かれた映画は、あまりないかもしれません。

新藤
 忠誠とか、正義とか、名誉の戦死だとかということになっていますが、戦争にそんなものはない。しっかりとした思想のもとに戦争するということは、ないですからね。間違った戦争をやって、どんどん死んでいって300万人あまりが死んでいった。司令部の作戦の誤りで、硫黄島やアッツ島で玉砕するとか、そういうこともたくさんありました。
 その人たちの、玉砕した人たちの瞬間の様子を想像してみてください。その瞬間は、国家とか天皇のためとかではなく、一人の家庭人として、一人の人間として、突撃していっているわけです。その心境を思ってみなきゃいけないですね。絶望的に死んでいくわけですよ。
 人間はどうやって死ぬかということは、人間の持っているひとつのテーマでしょう? 誰もが考えてますよ。できるだけ長生きしたいとか、ぽっくり死にたいとか、平和にやすらかに死にたいとか、家族や子供たちみんなに見守られて死にたいとか。そういうのは人間の大きなテーマなんですね。
 それが、戦争によって取り上げられちゃう。人の一生の大切なテーマが、メチャクチャにされてしまうということです。

軍隊生活では、理不尽に年下の上官に殴られる
©ピクチャーズネットワーク

編集部
 どう死ぬのかは、どう生きるのかと同じぐらい、人間にとって大事なことですね。

新藤
 当時は、国家が国民を養っているような時代だから、国のためには、死んでもらうのも当たり前、みたいな話だったんですよ。だけど、その戦争の内容が、歪んでるでしょう? まあ、あらゆる戦争は歪んでいると僕は思うけれども、特に日本は、大陸に侵略しようとしたり、満州を侵略しようとしたり、侵略が目的で戦争を始めているわけです。しかしそれは、戦争最中にはわからないわけ。国民には言わないから。全体主義で国家主義でね、国家が声を出せば何でも従わなければならないというような、理不尽な立場に置かれている国民たちだった。しかし今は違いますね。

編集部
 戦後制定された日本国憲法で、主権は国民になり、個人の尊厳が保障され、憲法9条によって戦争の永久放棄がうたわれました。

新藤
 憲法9条は、敗戦したからこそ、こういういいものが生まれたわけでしょ。戦争に勝つとか、勝たなくとももう少しいい立場で終わっていたら、こういうものはできませんよ。要するに人類の永遠の命題ですね。国家として交戦権と軍隊を放棄したということは、ひじょうに立派なことでね、なかなかそんな発言はできるもんじゃないですよ。それを国家としてできたということは、戦争をやったことによる、わずかな宝ですね。だから戦後はこれをしっかりと守っていかなければならない。そして、憲法9条がなぜ生まれたかをよく見つめるということは、戦争をきちんと考えることなんですね。

編集部
 今出されている自民党の新しい憲法草案では、自衛隊を自衛軍にするように書かれています。その自衛軍は、国会の決定によって、海外に出かけていくことが可能です。

新藤
 今はいろんな事情が押し寄せてきているから、だから改憲して、日本の立場を立ち直らせねばならないというようなことがあって、(権力者は)今変えたいと思っているようだけれど、どういうふうに変えたいと思っているのかね? 要するにまた戦争やりたいと思っているのかね? もちろん僕は、そうだと思いますよ。だからなんかいろんな理屈をつけて、じわじわと軍隊らしいものを創ろうということなんでしょう。

編集部
 いわゆる「戦争ができる普通の国」になるための、憲法9条改正です。

新藤
 国家による戦争は、家庭を破壊するんだということを、一人ひとりの人間の原点に立って、考えなきゃいけないですね。
 みんな憲法9条を守らなきゃいけないと言うけれど、もちろんそれは、いいことなんだけれど、僕みたいに第二次世界大戦を体験した人はですね、もう切実ですよ。100人のうちの94人が死んで、6人しか生き残っていない。僕もクジが当たっていたら、死んでいた。そしてそれは、僕のいた隊だけのことだけではなくて、日本全国全ての隊でこういう風なことになっていたわけです。そして死んだ男の家族たちは、みんな何らかの形で破壊されていったでしょう。大黒柱を失って、愛する人を失って、二度と立ち上がれない人なんかもいたかもしれない。それを、名誉の戦死、だとか言っちゃいけないね。名誉でもなんでもないんだ。みんな絶望的に死んでいったんだから。

「原爆投下は、しょうがない」とは、
冗談じゃない

編集部
 さて、「原爆の子」「第五福竜丸」など、被爆者の怒りを一つのテーマに、作品を作りつづけてきた監督にお伺いします。久間防衛大臣(当時)の「原爆投下は、しょうがなかった」という発言については、どう思われましたか? またアメリカ政府においては、「終戦のために原爆投下は正しかった」といった認識が一般的ですが、これについて、どう考えますか? 

新藤
 私は広島の出身だから、原爆で広島が破壊されたことは、私自身が破壊されたように考えているわけです。だから『原爆の子』『第五福竜丸』『8/6』『さくら隊散る』、そしてテレビドキュメント『ヒロシマのお母さん』と、原爆を撮り続けてきました。5本ほど作ってきて、もうひとつ物足りないのは、原爆が落ちた瞬間を撮っていないこと。
 これまでの原爆の映画や映像は、広島に原爆が落ちたあとの、被爆した焼跡を写しているわけですね。普通はそれしかできませんから。しかしそのような焼跡は、“そのような”と簡単に言ってはいけませんが、自然災害においても、阪神淡路大震災の災害の後でも凄まじい形で残っています。しかし、原爆というのは、一瞬のうちに数万人の人間を焼き殺し、結果的には20万人くらいの人間を殺しているわけです。たった一発の原爆で。
 そしてその一発というのは、アメリカが実験的に落としたものです。アメリカの大陸で実験をやってみたけど、それは無人の荒野でやった。そんなことでは物足りないから、実際に人のいるところで実験してみたいと思って、それで人間のいるところへ持ってきて落としたわけです。
 無警告で、最も多くの人が外で活動している時間、朝の8時15分に、銃後の市民の世界に持ってきて落としたのです。だから、最近の防衛大臣(元防衛大臣の久間氏)が「しょうがない」とか発言しましたけれど、冗談じゃないと思います。そんなことは、アメリカが言ってきたことと同じです。原爆を終戦のために落とした、だから平和のために尽くしたのだ、とかそんなこと言っているんですよ。冗談じゃない。
 オッペンハイマーやアインシュタインとか、もう何千人という科学者が集まって、原爆を作る研究をして、それが落とされるとどんなことになるのか、みんな科学者たちは知っていて、広島への原爆投下に賛成しているわけだから、彼らは、ほんとに人間じゃないと思います。
 またアメリカは、大金を使って原爆を作ったから、アメリカ市民に対しても、何か形になるものを見せたいと思ったんですよね。操縦士もちゃんと目的地に投下できるように、優秀な将校を集めて一年間練習したんですよ。何もかも計画的にやっていたわけです。

編集部
 放射能の体内被曝についても、さまざまな実験をしていたので、のちのち悪影響が出るということが、わかっていたらしいですね。

新藤
 なんと言ったって、一挙に一瞬で数万人の人間を殺すというのが凄いじゃないですか。イラクで100人が殺されたといってもですね、それももちろん大変なことですが、一度に数万人ですからね。 その「残酷」の問題について、映像作家として何をやるか、ということが残されているわけです。原爆が投下された1秒、2秒、3秒の瞬間を、広島が破壊されるさまを映像に撮らなくてはならない。白閃光に焼かれ、爆風に飛ばされ、何万人という人の首がとび、目が飛び出し、川に飛び込み悶絶し、溺死していく。それは、一発の原爆でおきた、地獄を想起させる現象。映像の力でその様を再現すれば、みんなもわかると思うんですよ、他人ごとに考えている人もわかると思うんです。勝った国の人にも、原爆を受けた人間はこうなるんだということを、想像できると思うのです。
 原爆作家というわけではなく、映像作家としてそういうことができないかとずっと考えてきて、企画書もシナリオもできているのですが、とにかく費用がかかるわけです。今、世界中の大衆は、映像に対してとても厳しい目をもっているから、適当なものを作ったのでは、反対の現象がおきてしまって、「なんだ、原爆はこのぐらいちゃちなものか、たいしたことないな」と思うでしょう。そう考えると、原爆のおそろしさをきちんと表現するには、広島の街の半分ぐらいを模型で作り、実写で破壊しないと撮れない。すると最低20億円ぐらいはかかるのです。
 つまり被爆国の広島としては、それを見せる必要があるとおもうんです。広島というのは、原爆の洗礼を受けた平和のメッカの場所として、現実的に核兵器廃絶を迫るものを発信していかなくてはならない。この趣旨には、広島市長をはじめみんな賛成してくれているんだけれどね、制作にかかる金額を聞いちゃったらみんな、後ずさりしてしまうんだな。

編集部
 昨年夏にインタビュー「この人に聞きたい」に登場いただいた、原爆被爆医師の肥田舜太郎先生は、「広島の原爆投下が描かれた映画やテレビ番組はいろいろ見たけれど、実際はこんなものじゃない、という感想を持った」とおっしゃっていました。

新藤
 その方の眼には、すごいものが映っただろうと思いますよ。それと同じものを再現するのは難しいけれど、それに近いものは再現しなくちゃいけない。原爆は、人がいるところに落とせば、一挙に数万人殺すことができる爆弾だ。どうして数万人を、一瞬で殺せるんだ。そんなこと、普通は信じられないわけ。だからそれは、映像で見せなくちゃいけない。しかしそれは、体験した人じゃないとわからない、僕も体験していないから、わからないけれど、今まで原爆の映画をつくってきたから、被爆者の目に近づいたものを撮りたいと思っています。その生き残った被爆者も高齢になってきて、口だけでの語り伝えが、だんだんと難しくなっています。

敵機の襲撃におびえ、誰もが死の恐怖を抱えていた
©ピクチャーズネットワーク

個の平和を守る立場から声をあげる

新藤
 やっぱり、僕が言いたいことは、戦争とは、家庭を破壊すること。個を破壊することなんです。大事なことは、個が集まって国家を形成している。つまり政治も、みんなの個を守る、個の平和を守るという立場で行われなくちゃいけない。首相が「美しい国」にする、といっても、漠然としていて、よくわからない。

編集部
 今、日本は戦争こそしていませんが、「美しい国」というスローガンのもとで、個がどんどんないがしろにされていっている、そんな気がします。

新藤
 口先だけで言ってたんじゃ、だめです。「美しい国」を作るための、その根源は、何ですか? 具体的にどうやって個を守るのですか? そこが明らかにならないと、そんな言葉には、賛成できない。
 個というのは、誰の立場でも、日本中、世界中、どんな人間の立場であっても、破壊しちゃいけません。繰り返しますが、僕が言いたいことは、個が国家を築いている。ひとりひとりが集まって国家を築いているんです。だから個が大事なんです。みんなにも、そういう立場から、戦争反対を言ってもらいたいですね。

 

  

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