この人に聞きたい

『ファンタジスタ』『俺俺』など、幻想的でありながら、現実の政治や社会と強くリンクした作品を発表してきた作家の星野智幸さん。ブログやツイッターなどを通じて、秘密保護法制定や憲法改正、ナショナリズムなどの問題についても発信を続けています。今の社会を、星野さんはどんなふうに見ているのか? そして、この状況下での「文学」の役割とは? お話を伺いました。

星野智幸(ほしの・ともゆき)
1965年、ロサンゼルス市生まれ。2歳半で帰国。1988年、早稲田大学第一文学部文芸専修卒業。2年半の新聞記者生活を経て、メキシコへ留学。1997年「最後の吐息」で第34回文藝賞を受賞して小説家デビュー。2000年『目覚めよと人魚は歌う』で第13回三島由紀夫賞、2003年『ファンタジスタ』で第25回野間文芸新人賞、2011年『俺俺』で第5回大江健三郎賞をそれぞれ受賞。
路上に暮らす人たちの文学賞

編集部
 前回、社会の動きに対して違和感を持っても、それを口にする「文化」が日本には根付いていない――そのことが「愛国心」が声高に叫ばれ、秘密保護法制定や憲法改正などの動きに歯止めが掛からない現状の背景にあるのではないか、というお話でした。では、そうした「文化」を根付かせていくために、どんなことが必要なのでしょうか。

星野
 そうですね。僕は2010年に友人の写真家、高松英昭とともに「路上文学賞」という賞を立ち上げたのですが、実はこの活動もそこにつながっているんじゃないか、と最近思うようになりました。

編集部
 路上生活者の人たちが書いた小説やエッセイなどを公募して、選考・表彰する文学賞ですよね。星野さんはその選考委員も務めておられますが…。

星野
 もともと、賞を始めたときから考えていたのは、路上で生活している人たちに「自分の人生の体験を書いてください」というものにはしたくない、ということだったんですね。彼らはえてして、一般的に「受けがいい」ことを書いてしまう傾向があると感じていたので。

編集部
 「受けがいい」というと…「かわいそう」なストーリーとか、そういうことですか?

星野
 そうですね。いかに自分が悲惨な目に遭ってきたかとか、社会が悪いから自分はこんなふうな身の上になっちゃったんだとか…。もちろん、それは一面で事実なのでしょうが、一方で支援者から聞いた話など、外側からの影響で構築された部分があることも否定できません。彼らにとってはそうした語り方をすることが、「身を守る」すべにもなっていて…ただ、自分自身のストーリーを語るときにそこに寄りすぎると、みんな同じような、公式的なストーリーになってしまうんですね。
 そうではなくて、外からの目線にとらわれずに自分の気持ちや欲望を素直に表現できた作品を評価したい、というのが賞の趣旨でした。それによって、作品を読む人たちにも「路上生活者」という固有のイメージにとらわれず、一人ひとりが違う人間なんだということを感じてほしいな、と思っていたんです。

編集部
 実際に集まった作品は、どうだったのでしょう?

星野
 応募作品のうち、半分くらいはやっぱり「ああ、外の目を意識してるなあ」というもの。でも、文章を書くのも初めての人たちが、すごく素朴に自分の思いをつづってくれた作品もたくさんありました。中には、一文の中で話題やテーマがどんどん変わって、正直なところ何を言っているのかをなかなか理解できないようなものもあるんですが、それがすごく面白くもあって。野球が好きだという話をしていたはずが、いつの間にか母親の話に変わっている、そこがどう結びついているのか最初は全然わからないんだけど、読み進んでいくうちに必然的な結びつきだったようにも感じられてくる。そういうなんとも不思議な感動があるんですよ。読んでいると、自分の作家としての姿勢まで問われる気もしてきて。
 そして、そういう体験を重ねるうちに――路上文学賞は、昨年で第3回までやったのですが――、今の世の中、路上生活者だけではなく誰もが、小説というものを書いちゃったほうがいいんじゃないかという思いが生まれてきたんです。

編集部
 どういうことですか?

星野
 要するに、路上文学賞が目指しているような、「外からの目線を気にせず表現する」ということを、もう路上とか関係なく、あらゆる人がやってみたほうがいいんじゃないかと。他人の目線や世の中の基準みたいなものはいったん置いておいて、自分は本当にどう思うのか、何を感じたのかをどんどん表現する。そういうことを「やっていいんだ」とみんなが感じることが今、必要だと思います。まずは「一人ひとりがみんな違う」ことを肯定することができなければ、民主主義の社会なんて成り立たない。ではどうするかと考えたときに、「みんなが小説を書いちゃう」ことは、一つの方策となり得るんじゃないか。文学というのは、それだけの力のある表現なんじゃないかと思うんです。
 僕は、文学を文学たらしめているのは――例えばブログやエンターテイメント小説と違うのは、「書き手が自分でも意識していない部分が出てくる」ことだと思っています。もちろん、作品を書く上では、自分でちゃんと意識している部分について考え詰める作業は必ず通過しなくてはいけないですけど、その上でそれでも意識で捉えきれないものが、何らかの形で言葉になって出てくるのが文学だと考えているんです。
 それは、絶対に「みんな同じ」ではありえない領域のものだし、人間の一番根幹の、切実な部分でもあります。そこを外に向かって表現することができるようになれば、時代に押し流されていくことに対して、どこかで抵抗したり、歯止めをかけたりできるのではないか。実際に「みんなが書く」のは現実的に難しいとしても、例えば「路上文学賞」を通じて「一人ひとり違う」表現を肯定することで、賞を取った作品を読んだ人に「こういうのもあっていいんだ」「こういうふうに書いちゃっていいんだ」と感じてもらうこともできるかもしれない。
 そういう意味も含めて、路上文学という活動にはすごく意味があると感じています。実は、他の仕事との兼ね合いもあって、次回の日程はまだ未定なのですが、これからも長く続けていきたいなと思っています。

なぜ「文学」は時代とシンクロするのか

編集部
 文学を文学たらしめているのは、自分でも意識で捉えきれないものが言葉になってくること…。一方で、星野さんの作品を読んでいると、それがあまりにも社会の状況とリンクしていて、驚くというか怖さを感じることがあります。例えば〈「俺」がどんどん増殖していく〉という『俺俺』の世界は、秋葉原の無差別殺傷事件を想起させますし、カリスマ政治家に熱狂する人々を描いた『ファンタジスタ』は、少し前の大阪の「維新の会ブーム」を思わせます。いずれも小説が先にあって、現実のほうが後からついてきている形なのですが…文学で描かれているのが「意識で捉えきれないもの」であるのなら、にもかかわらず、なぜ時代とシンクロしてしまうんだろう? と、ちょっと不思議な気がしてきました。

星野
 僕ら職業作家の場合は、路上文学賞のように「初めて小説を書く」ケースとはちょっと違ってくるわけですけど…僕は、近代以降の小説というのは、常に何かを相対化している、何かを疑っている言葉として書かれるものだと思うんです。例えば、聖書にはこういうふうに「神の言葉」が書かれているけど、それってほんと? という。西洋における「最初の近代小説」といわれる『ドン・キホーテ』だって、キリスト教的な倫理を体現した騎士道物語のパロディというか、それを相対化して、現実とのギャップを描いていったものだといえますよね。
 つまり、小説を書くということは、自分が生きている時代を見つめるにしても、それをそのまま描くのではなくて、「なぜ今の世の中はこうなのか」「それはどうしてなのか」と、どんどんどんどん相対化を続けていく作業でもあるんですね。
 例えば『ファンタジスタ』は、ちょうど小泉首相が登場して人気を集めていた時代に書いたものですけど、そのときもそのまま「小泉のような首相がいる世界」を書くのではなくて、「なぜそういう状況ができてくるのか」を考えに考えていくところから始めたわけです。

編集部
 なぜ小泉のような、圧倒的な人気を誇る首相が登場したのか、を考えていく?

星野
 理由はいろいろあるでしょうけど、一つの大きな要素としては「有権者のマジョリティがそれを望んでいるから」。じゃあ、なぜマジョリティがそれを望むのか。あるいは、なぜ望んでいる人たちがマジョリティになるのか。そういうふうに、どんどん突き詰めて考えていく。もちろん、どこまで考えても「終わり」はないんですけど、自分として考えられる限界まで考え続けて、そこで初めて具体的な物語や人物の設定をつくっていくんです。
 もちろん最初は、路上文学賞などと同じように「自分」からスタートしていくんだけど、そこからどんどん相対化を続けていくうちに、もっとメタレベルの、社会全体の無意識みたいなところに近づいていくという感じでしょうか。

編集部
 自分だけではなく、社会全体の「意識していないもの」を描き出すのが作家、ということなのでしょうか。逆に、時代や地域によっては、文学がより直接的に国の行く先に影響を与える、扇動するといった役割を担った場合もあると思うのですが、今の日本社会の中での文学の役割は、どういうところにあるとお考えですか?

星野
 昔、テレビもラジオもなくて活字メディアの力が非常に強大だった時代には、良くも悪くも文学が「国を動かす」役割を果たしていた面があったでしょう。でも、今の作家はそこを担おうとしなくてもいいんじゃないか、と思っています。特に日本の場合、作家に限らず「偉い人」が何かを言うと、とたんに世論がそちらになびいちゃったりするけど、それでは何も変わらない。例えばそれで脱原発が実現したとしても、本質的な部分は変わっていないから、簡単にひっくりかえってしまう可能性があると思うんです。
 だから、作家は別に、他の人と何ら変わらない、普通の人間であって構わない。ただ、「他の人と違うことを感じたら、周囲を気にせず堂々と表現している」姿を見せ続けること、そしてそういう作品を書き続けることこそが重要なんじゃないかと思うんですね。
 そして願わくば、作品を読んだ人が、書き手がそこに込めた「何か」を感じて、読む前とはどこか世界が違って見える――というと大げさですけど、読む前とほんのちょっと色が変わる、そういうふうに感じてくれれば、という思いはあります。例えば『ファンタジスタ』を読んだ後に「橋下ブーム」に接して、ちょっと違和感を持つ、とか。もちろん、その人に合う作品、合わない作品はあるわけですから、いろんな小説がいろんな人に対してそうした働きかけをすることで、結果的に社会は少し変わっていくかもしれない。現代においては、それが一番の小説の役割なんじゃないかな、と思っています。

声を上げ続けること、
先を見据えて行動すること

編集部
 他の人と違うことを感じても、堂々とそれを表現する――。その意味では、3・11後の脱原発デモなどもそうですね。それを思うと「違和感を表明しない」という日本の「文化」にも、少しは変化が起こってきたのでは、という気もします。

星野
 それはあると思います。あんなふうに、特に「活動家」というわけではない人たちが大勢、社会的なイシューのために集まるというのは、1970年代に学生運動が潰えて以来なかったことですよね。外に出て、デモをしてもいいんだという雰囲気は、マジョリティにまではならないにしても、確実にできてきた。ある種の文化としての歴史が始まった、という感じは僕も持っています。
 だから、肝心なのはそれを絶やさないことですよね。効果がないから、とやめてしまえば、また動けなくなってしまう。続けている人がいれば、何かあったときにはまた外に出て声をあげればいいと思えるでしょう。

編集部
 国会周辺に数万人が集まった秘密保護法制定への抗議行動がまさにそうですね。脱原発デモなどの積み重ねがなければ、あんなふうにスムーズには集まれなかったと思います。

星野
 そういうふうに、「表現をしていいんだ」ということを、いろんな形で広げていければいいと思うんですね。デモだけで何かを変えることはできないかもしれないけど、デモをするというのは「表現をしていい」という一つの肯定の形。それがあれば、「ほかの形でも表現していいんだ」ということにもなるわけですから。

編集部
 デモをする、小説を書く、あとは路上で演奏するとか、みんなで議論のできる場をつくるとか…今後、さまざまな面でどんどん締め付けが厳しくなっていく可能性はありますし、やれるうちにどんどん声をあげていく必要がありますね。これまで、違和感を持ってもちゃんと口にしてこなかったことが、今の状況をつくったのだとすれば。

星野
 そしてそのときに、重要なのは単に「文句を言う」のではなくて、何かしらの「表現」の形をとることだと思います。「敵」を想定して、それに対する攻撃をするだけでは個人的な憂さ晴らしに過ぎない。そうではなくて、「表現をする」こと自体にある種の充実を覚えられるような形をとれれば、発展性も持続性もあるし、周囲の人を「楽しそう」と惹きつけることにもつながるんじゃないでしょうか。

編集部
 多彩なプラカードや音楽に彩られたデモや、あと「路上文学賞」も、その意味で「表現」になっているからこそ続いているのかもしれないですね。同時に、そうした表現に規制をかけることができる特定秘密保護法の危険性にも、改めて気づかされます。

星野
 秘密保護法は成立はしてしまったけど、どういう形で施行されるかは世論次第です。世論が「やっぱりあれはよくないよ」となって、政権の支持率もどんどん下がって、ということになれば、廃案まではいかなくても、チェック機関を充実させるとか別に情報公開の定めをつくるなどの方法で、ある程度法律を「骨抜き」にしていかざるを得ない状況になるかもしれないし。国政選挙がしばらく予定されていない以上は、ひとえに世論にかかっていると思います。
 一方で、歯止めをかけきれなかったとき、「その後」にどうするか、ということを考える必要もあると思うんですね。これまで、安倍政権のほうが常に先手先手を打ってきていて、それに抵抗する側はいつも、対症療法的な反対をしか言えなかったという状況があるので。

編集部
 きちんと「反対」を言い続けると同時に、「その後」を考えて行動する必要もある…。

星野
 規制が強まって「表現」ができなくなって、世の中全体がその流れに乗って「表現」に対して冷淡になっている、そんな時代が来たときに、どういう態度がとれるのか。去年、安倍政権が成立したとき、僕が思ったのは「これからは僕たち作家は莫言(※)になるしかない」ということでした。
 彼が共産党一党支配下の中国でやってきたのと同じようなやり方を――つまり、思うような表現ができない中で、権力に抵抗するような言説を、どれだけ「向こう側」にわからない形で盛り込めるかを考えていかなくてはいけない、と。これは、先日いとうせいこうさんと対談したときにも、まったく意見が一致したんですよ。
 それも、本当に「その時代」になってからでは遅い。小説に込められたメッセージを読み取る能力を、読み手の人たちに準備してもらうためにも、僕たち書き手は、さまざまなメッセージを組み込んだ「政治小説」を、今からどんどん書き始めていかなきゃならない。今、そんなことを考えているところです。

※莫言…中国の作家。体制批判に対して厳しい検閲が敷かれる中国国内にあって、直接的な政府批判ではなく、「マジックリアリズム」と称される独自の手法で中国農村の現実を描き出す作品を多数発表してきた。2012年にノーベル文学賞を受賞。

(構成・仲藤里美/写真・塚田壽子)

 

  

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星野智幸さんに聞いた
(その2)
すべての人が
「小説を書いてみる」べき時代
」 に1件のコメント

  1. magazine9 より:

    もちろん、政権のこれ以上の「暴走」を止めることも大事。一方で「その後」を考えることも、同時にしていかなくてはならないのだと思います。作家としての星野さんの決意、さて、わたしは、あなたは、どうする?

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