この人に聞きたい

米軍によるバグダッド陥落の直後から、イラクで支援活動を続けてきた高遠菜穂子さん。彼女を現地へと向かわせたものは何だったのか、まずはその原点から伺いました。

高遠菜穂子(たかとお・なほこ)
1970年北海道千歳市生まれ。イラク支援ボランティア。2003年よりイラク支援を行い、ファルージャ再建プロジェクトに取り組む。著書に『戦争と平和〜それでもイラク人を嫌いになれない』(講談社)、『愛してるってどういうの?』(文芸社)がある。「イラク・ホープ・ダイアリー」で日々活動を報告中
「人の役に立つ」人間になりたかった

編集部
  高遠さんが、現在のような活動を始められるようになった経緯をまず伺いたいのですが…。ご著書などによれば、ずっと以前から、30歳になったら仕事も全部やめてボランティアに専念しよう、と考えておられたそうですね。

高遠
 高校生ぐらいのときから、すごく抽象的だけど考えていたことがあったんです。たとえばよく、テレビで「アフリカの飢餓の解決のために一生懸命働いている○○さん」を扱ったドキュメンタリー番組なんかがありますよね。ああいうのに憧れる人って多いと思うんですけど、私もその1人で。すごく単純に、「人の役に立つ人間になりたい」と思っていたんですね。
 なんかね、変なビジョンだけが頭の中にあったんですよ(笑)。砂漠みたいなところで、私が働き疲れて「ふう」とか言ってる、そういう映像。場所も何もわからないんだけど、自分の中では「ああ、私はこういうことをやりたいんだな」ってすごく腑に落ちてた。自分の体一つで、お金のためじゃなくて人のために働きたい、そこにしか自分の幸せは感じられないだろうな、と思っていたんです。

編集部
 それが「将来の夢」だった?

高遠
 そうなんだけど、職業名とかがついてるわけでもないし、それを説明して周囲を納得させる言葉が見つからなくて。だから「将来の夢は」とか聞かれたときには、「ピアノの先生」とか「美容師になりたい」とか、適当に答えてましたね。「それも嫌じゃないけど、でも違うな」と思いながら。
 でも、大学を卒業した後は、とりあえず就職するんですよ。当時はまだNGOとかボランティアとかもそんなに盛んじゃなかったし、自分がイメージしていたような仕事をするなら青年海外協力隊と、あとは国連くらいしか思い浮かばなくて。実は一応協力隊も受けたんですけど、あれって何か専門的な技能が必要じゃないですか。「ダメだろうな」と思って受けたらやっぱり受からなかった。かといって国連に入るほどのアタマもないし、「アタマがよくないと国際社会にコミットしていけないんだろうか」っていう疑問はありつつも、ソフトウエアの会社に入って、1年くらい働いて。
 それで、その会社をやめてアメリカの友達のところに遊びに行っていたときに、親から言われて田尻先生のところにお手伝いに行くことになるんです。

編集部
 「田尻先生」というのは?

高遠
 田尻成芳先生といって、私の両親の古い友人なんですけど、1950年代、まだ公民権運動も始まるか始まらないかという時期からアメリカで黒人解放運動をしていた人。マルコムXとかマーチン・ルーサー・キングとかの時代も、全部現地で見てきた方なんです。
 私は高校生のとき、たまたまうちに泊まりに来られた先生に話を聞いて、ものすごい影響を受けたんですね。それまでアメリカといえばアメリカンドリームとか民主主義とか、楽しい部分しか見ていなかったところに、いきなり黒人差別とか奴隷制度とかの暗い部分をどーんと突きつけられて。その晩はショックで眠れなかったくらいでした。あのときに、「差別」という言葉が私の中にインプットされたんだと思います。
 その方が、私がアメリカに行っていたその当時、もう80代だったんですが、アメリカ南部の黒人の大豆農家と日本の納豆会社の取引を成立させるという、今で言うフェアトレードみたいなことをやってらして。それで「忙しいみたいだから手伝ってきなさい」ということになったわけです。そのときはとにかくわけもわからず、鞄持ちで後をついて回っただけでしたが、その活動をずっとそばで見ることができた。今も母親に「あんたは田尻先生の影響をまともに受けてるね」と言われますね。田尻先生は2004年、ちょうど私のイラクでの拘束事件の後に亡くなられたんですけど。

「平和の道具」になる覚悟

編集部
 その後、日本に帰られた後は、地元の北海道でお店を始められるんですね。

高遠
 父親に、「何かアイデアを出して商売をやれ」と言われて、カラオケボックスを始めたんです。ただ、そのときも両親には「やるからには、もちろん本腰を入れてやる。でもそれは30歳までで、その後は前から言ってるように、世界へ出て自分のやりたいことをやるから」と言っていましたね。たぶん親のほうは「そのうちあきらめるだろう」という感じで、「はいはい」と聞き流してたんだと思うんですけど(笑)。
 でも、商売も面白かったですよ。地元のカラオケボックスで初めてパーティールームをつくって、結婚式の二次会を呼び込んだり、合コンを企画したり(笑)。それだけじゃ飽き足らなくて、イベントを企画したり情報誌をつくったりと、まちづくりにも関わったりしてました。そこでの経験が、今やってる支援活動にもすごく役立ってると思います。

編集部
 商売が順調で面白くもあったのに、当初から決めていたことは揺らがなかった、と。30歳になって、仕事をやめて、まず行かれたのが…。

高遠
 インドのカルカッタ(コルカタ)にある、「マザーテレサの家」です。マザーテレサという人が、宗教者というよりも行動するひとりの人間として、とにかくすごいな、かっこいい人だなと思っていたので。そこで1年間くらいボランティアをしていました。

編集部
 今年の3月に「ネイキッド・ロフト」で行われた映画監督の鎌仲ひとみさんとのトークイベントで、「マザーテレサのところで、自分は”平和の道具”になりたい、という誓願を立てた」というお話をされていたのもお聞きしましたが…。

高遠
 それは去年、4年ぶりにマザーテレサの家に行ったときのことなんです。シスターたちは、私のことを覚えてくれていて・・・「菜穂子のこと、みんなで祈ってましたよ」と言われて。彼女たちはみんな、世界中の紛争地で支援活動をしているんですね。マザーテレサの修道会には「貧しい人たちの中でも、もっとも貧しい人々へ献身する」という誓願があるんですが、そのとおり、危険な目にあっても現地にへばりついて活動を続けている。
 そういうシスターたちと話していたら、すごくリラックスできたと同時に、ああ、この人たちは本当に”平和の道具”なんだな、と感じて、私もそうなりたい、と思ったんです。出家しようとかシスターになりたいとかいうわけではないけど、精神的にはそっちのほうが自分にとって自然だ、と。
 それで、私はクリスチャンでも何でもないんだけど、マザーテレサのお墓で個人的に、ひとりで誓願を立てたんです。今まで、たとえばマザーのことを理想で、憧れだと思ってきたけれども、これからは本当に、自分自身が平和の道具になるべく覚悟を決めます、と。本当に、肝が据わったというか、初心に返ったという感じでした。

「戦争」と向き合うためにイラクへ行った

編集部
 そのマザーテレサの家で、1年間ボランティアをされて…その後、イラク支援にかかわられるようになるまでには、何かきっかけのようなものがあったのでしょうか?

高遠
 インドの後、カンボジアのプノンペンにあるエイズホスピスで、しばらくボランティアをしていたんです。それが2001年、内戦が終わってちょうど10年経ったころだったんですが、まだ治安は安定しなくて、貧富の差も拡大していました。プノンペン行きのスピードボートが爆破される事件なんかもあったし。
 そんな中で活動していて、「戦争が終わっていない」状況をまざまざと感じさせられてしまったんですね。地雷原も見に行ったし、周りにも地雷被害者がいっぱいいる。そもそも、毎日通っていたエイズホスピスの「エイズ」自体が、内戦の負の遺産なんですよね。カンボジアの最初のHIVポジティブは、内戦が終わって国連暫定政府ができたその翌年、外国人向けの売春宿から出てるんですから。

編集部
 内戦そのものは集結していても、その「負の遺産」は厳然と残されている状況だった、と…。

高遠
 しかも、私はポル・ポトの名前も何となく知っている。つまり、その当時「戦争が起こっていた」ことを知ってたのに何もしなかったということですよね。その後も、アフリカやいろんなところで紛争が起きていたのに、やっぱり何もしなかった。そういうものすごい罪悪感に駆られてしまって。そこから、これはもう「戦争」を無視しては生きていけない、「戦争」と向き合わざるを得ない、と思い始めるんです。

編集部
 それが紛争地へと向かうきっかけだったのでしょうか。

高遠
 最初はアフガニスタンでした。ちょうど、カンボジア滞在中に9・11の同時多発テロ事件が起きて、日本へ帰ったところで、アフガンへの報復攻撃が始まって。
 そのとき、すぐに「アフガニスタンへ行こう」と思ったんですけど、カンボジアでの経験から、「戦争」に対する想像がリアルになりすぎてしまって、腰が引けちゃったんですね。食事も喉を通らなくなって、何かしなきゃいけないんだけど何をしていいかわからない、という強烈な無力感に駆られながら、結局1年半近く悩みました。
 そしてようやく決心がついたのが、米軍のイラク攻撃が始まったときだったんです。そのときには、すでに「この戦争には大儀がない」と言われていて、世界中でも何百万人が参加してのデモが起こっていた。それなのに強引な攻撃があって、しかも小泉首相(当時)がそれを「支持します」と言って…。それも、すごい衝撃でした。

その2へつづきます

 

  

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