この人に聞きたい

400万人以上の難民を生み出したともいわれる中東・シリアの内戦。その受け入れや処遇をめぐり、欧米各国でも議論が巻き起こっています。地理的には遠く離れた私たちの国にとっても、決して無関係とはいえません。今後、日本はこの問題とどう向き合っていけばいいのか、国際社会の中でどんな役割を果たしていくべきなのか。NPO「難民を助ける会(AAR)」理事長の長有紀枝さんにお話を伺いました。

長有紀枝(おさ・ゆきえ) 1963年東京都生まれ、茨城県育ち。早稲田大学大学院政治学研究科修士課程修了。外資系企業に勤務しながら1990年よりNPO「難民を助ける会(AAR)」でのボランティアに参加、翌年から専従職員となる。旧ユーゴスラビア駐在代表、常務理事・事務局次長を経て、専務理事・事務局長(2000~2003年)。紛争下の緊急人道支援、地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)の地雷廃絶活動などに携わる。2003年にAARを退職後、東京大学大学院総合文化研究科「人間の安全保障」プログラム博士課程に在籍し、博士号取得。2008年よりAAR理事長を務める。現在、立教大学大学院21世紀社会デザイン研究科・立教大学社会学部専任教授。主な著書に、『入門 人間の安全保障ー恐怖と欠乏からの自由を求めて』(中公新書)、『スレブレニツァ-あるジェノサイドをめぐる考察』(東信堂)、『地雷問題ハンドブック』(自由國民社)など。
TVに映る「難民」の向こうには
もっとたくさんの苦しむ人たちがいる

編集部
 長さんが理事長を務められているNPO「難民を助ける会(AAR)」は、1979年から35年以上にわたって世界各地の難民支援の活動を続けられています。現在は、内戦の拡大に伴って難民が増加しているシリアの問題が世界的な注目を集めていますが…。


 最初にお伝えしておくと、もちろん世界の難民の問題というのはシリアだけではありません。最近ではアフガニスタンやイラク、あるいはアフリカ諸国など、たくさんの国々で難民が生まれています。その中で、今回のシリア難民については、ヨーロッパにあれだけ流入してきたから話題になったという面があるのは否めません。
 ただ、実際にはヨーロッパにやってきているシリア難民というのは、紛争の影響を受けているシリア国民の、ほんの一部に過ぎないという事実もあります。

編集部
 どういうことでしょう?


 おかしな言い方になるかもしれませんが、難民というのは、ある「条件」が揃っていないとなれないんですね。
 私たちは、どうしても国境を越えて逃れてきた人たちの存在にばかり注目しがちですが、実はその前に、家や故郷を追われたけれど国外には出られないでいる「国内避難民」の人たちが大勢います。もっと言えば、家から離れることもできなくてそのまま住んでいるんだけど、食料もなくてインフラも絶たれている、仕事もできないというような人たちもいるわけです。

編集部
 「離れられない」というのは…。


 まず、逃げる場所がない。敵に四方八方を囲まれていたら、そもそも逃げることさえできませんよね。国外に逃れた難民にしても、紛争の初期は圧倒的にヨルダンに逃げる人が多かったけれど、ある時期からトルコに出る人が一挙に増えた。これは前線の場所が動いたからです。戦火が迫ってきたからといって、どこにでも逃げられるわけではないんですよね。
 それから、移動できるだけの体力などがあるかどうか、という問題もあります。女性と子どもだけの世帯や、高齢者や病気の人、障害のある人などが遠くに逃げるのは非常に難しいでしょう。そしてもちろん、国外に、特にヨーロッパに逃げるのは非常にお金がかかるので、そこにまた高いハードルがある。テレビに映っている難民に男性や若い人、外国語が堪能な人が多いのは、そういう「ハードル」を越えてきた人たちだからです。
 あとは、物理的な条件以外にも、ゆくゆくはシリアに帰りたいからできるだけ近くの国にいたいとか、家や家畜が心配で残った家族がいるから、自分たちもあまり遠くには行きたくないとか、いろんな理由でトルコやヨルダンなどの隣国でとどまっている人たちもいます。

編集部
 抱えている事情も思いも、今置かれている状況も、当然ですが本当にさまざまで…私たちが見ている一部の人たちの後ろに、もっと多くの、日常を奪われた人たちがいるんですよね。


 難民の問題はいつもそうなんですが、私たちはその人たちが「難民」になってからの姿しか見ないので、あたかもその人がずっとそういう状況だったかのように思ってしまいがちです。でも、本当はその前に、彼らにも「普通の生活」があったわけで…。
 「どうして難民がスマホを持っているのか」といった声も聞くことがありますが、「難民がスマホを持っている」のではなくて、スマホを使って、私たちと同じような生活をしていた人たちが、ある日突然難民にならざるを得なかった、ということなんですよね。「同じような」というと語弊があるかもしれませんが、少なくとも内戦前のシリアの都市部は「途上国」とはいえなかったと思います。
 だからこそここまでひどい状態になってしまうとは、当初は誰も思わなかった。どこかで「すぐ元どおりになるんじゃないか」と思って傍観している間にここまで来てしまったという感じだと思います。
 AARでは、トルコの国境地帯でシリア難民向けのトルコ語教室などを開いているのですが、内戦がはじまった2011年当時は、真面目にトルコ語を学ぼうとする人はほとんどいませんでした。すぐ帰れると思っていたからです。でも、これだけ内戦が長引いて、最近は「しばらくはここにいるしかない」と考えて、真剣に勉強しようとする人が増えてきているように感じますね。

シリアへの「特別措置」として
まずは病人・けが人の受け入れを

編集部
 そうした状況を受けて、欧米を中心にシリア難民の受け入れが大きな課題として捉えられるようになっています。その中で、日本はどのような役割を果たすべきだと思われますか?


 日本政府が現在、「難民」として認定をしているのは、いわゆる「狭義の難民」——1951年の難民条約(難民の地位に関する条約)の定義に明確に合致する人のみです。この定義は「人種や宗教、国籍、政治的な意見などを理由に、迫害を受ける恐れがあるとして国外に逃れた人」ですので、シリア難民のような、紛争から逃れてきた人は含まれないことになります。
 この認定基準自体がどうなのかという議論は当然あると思いますが、それとは別に、私は今回のシリア難民については特別措置として受け入れをするべきだと考えています。

編集部
 それだけ深刻な問題だということですね。ベトナム戦争などでインドシナ難民が大量に発生したときにも、そうした「特別措置」が取られたと聞きました。


 UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の要請を受ける形で閣議了解が行われ、最終的には1万人あまりのインドシナ難民を受け入れました。それを考えれば、今回のシリア難民についても、ある程度の受け入れは決して不可能ではないはずだと思うのです。

編集部
 政府がそう決断しさえすれば、十分に可能なはずですね。


 ただ、とはいえ今の世論を見ていると、将来的には別として、今すぐ大量の難民を受け入れる素地があるとは、残念ながら言い切れない気がしているんですね。個人個人の考え方は別として、社会全体で見たときにはそのための準備ができていないというか。
 なので、私が提案しているのは、まずは人道的な配慮という形で、障害のある方、病気やけがで治療の必要な方を受け入れるというやり方です。これは個人的な経験ですが、私がトルコで出会ったシリア難民には、「難民認定を受けて日本に定住したい」という人はほとんどおらず、歴史的、文化的に親しみのあるヨーロッパ行きを希望する人たちが圧倒的でした。その一方で、子どもが病気だとかけがをしてリハビリが必要だとかいうことで、必死に「日本で治療が受けられないだろうか」と言ってくる人たちはたくさんいました。日本だからこそできる、重要な支援といえるのではないでしょうか。
 また、日本語を学んでいる学生を中心に受け入れて、将来の国づくりに参加できる人材の育成に貢献してはどうか、という案もあります。こうした教育支援も、日本が担いやすい貢献の形かもしれません。日本をよく知る人材が増えるという意味で、今後の中東との関係をつくっていく上でも有効な策といえるのではないでしょうか。

「外国のことだから関係ない」
それで通用する時代ではない

編集部
 そうしたことが実現すれば、まずは大きな一歩ですよね。ただ、先ほど「将来的には別として」とおっしゃったように、ずっとそうした「限定的な受け入れ」だけでいいのか、とも思います。


 そうですね。将来的には、もっと広く受け入れができるような社会に変わっていく必要があると思います。

編集部
 たしかに現状では、難民の受け入れに批判的な言説もかなり多いと感じます。よく言われるのは、「イスラム圏と日本では文化が違いすぎて摩擦が起こる、来た難民の人たちも嫌な思いをするだけだからやめたほうがいい」といったことでしょうか。あるいは「そもそも中東があんなふうになっているのはヨーロッパの責任なんだから、ヨーロッパが責任をもって対処すべきだ」とか…。


 「文化が違う」というのは、平時にどこに住みたいかという話なのであれば、「苦労するからやめたほうがいい」というアドバイスもあるかもしれませんが、難民の人たちにとっては生きるか死ぬかの選択ですよね。もし自分たちがその立場だったらと考えたら、文化が違って大変であろうとなんであろうと「助けてほしい」と思うんじゃないでしょうか。そう考えると、「文化が違う」というのは、断るときの言い訳でしかないんじゃないだろうか、と思います。
 「ヨーロッパの責任だ」というのも…シリアの今の状況には、確実に遠因としてイラクでの戦争があります。そこに私たちはまったくかかわっていないといえるでしょうか。個人の感情としてはかかわったつもりはなくても、日本政府があの戦争を支持したのはたしかで、その政府を選んだのは私たち国民で…その意味では、シリアの問題に私たちは無関係だとは、やっぱり言い切れないと思うんですよね。
 それ以前に、「外国の問題だから関係ない」といって関わろうとしないという選択肢は、今の社会ではもはやないのではないか、とも思います。日本が完全に自給自足で、国内で何もかも生産して暮らしているというならまだしも、実際には食べるもの一つとっても、多くが海外から来ているわけですよね。私たちの生活は、完全に海外に依存しているんです。

編集部
 ふだんそうした生活をしているのに、いざ何かが起こったら「知らない」というのは…


 ありえないと思います。
 それに、日本人は難民には絶対にならないと思っている人もいるかもしれませんが、例えばある日富士山が噴火したら? あるいは、また原発が爆発したら? 日本の国土に住めなくなるとか、一度国外に出ないと安全な場所に逃げられないとかいった状況は、いつ起こるかもしれない。そのときに他の国の人たちから「日本の人はこれまでいい生活を享受してきたんだから、自業自得でしょ」と言われたくはないですよね。
 決して、難しいことではないと思うんです。だって、東日本大震災のときもそうでしたけど、何か大きな自然災害があるたびに、全国からボランティアが集まって活動しますよね。それは、例えば難民の受け入れに積極的といわれるドイツの人々が難民に対して行っている行為と、何も違いません。困っている人がいれば助けようという思いは多くの人がもっていて、行動もちゃんと伴っている。あとは、その対象を「日本人かどうか」だけで線を引いてしまうんですか? というだけのことだと思います。

編集部
 困っている人がいるから助けませんかという、シンプルな話ですね。そしてそれは、単なる「人のため」ではなく、私たち自身のためでもある。


 そう思います。私たちだっていつ「助ける側」から「助けられる側」になるかもしれないのですから。

 

  

※コメントは承認制です。
長有紀枝さんに聞いた
「難民になる」可能性は、
日本の私たちにだってある
」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    「あの国が、こんなふうになるなんて想像もできなかった」─内戦前のシリアを訪れた人の多くがそう口を揃えます。誰がいつ、どんな理由で住み慣れた土地を追われることになるかなんて、誰にも分からない。だからこそ、「文化が違う」「お金がない」「もっと責任を負うべき人たちがいる」と、「助けない理由」を数え上げるよりも、「できることは何なのか」「どうすれば少しでも助けになれるのか」をまず考えたいと思います。
    テロ事件の影響などで難民受け入れへの不安の声が高まる国があるいっぽう、先月にはカナダが2万5000人のシリア難民を受け入れると表明して注目を集めました。そんな中、私たちの国は、この問題にどう対応していくのか。それはそのまま、私たちが「どんな国でありたいか」ということなのかもしれません。

  2. 中矢 理枝 より:

    私たちだって難民化するかもしれないという可能性を想像するために、是非読んでみてほしいのが「亡国記」(北野慶著、現代書館)です。斎藤美奈子氏、小出裕章氏もお勧めの近未来リアルノベルです。小説とはいえ、フクシマの悲劇に学んで原発さえ止めていれば、国が滅んで私たちが難民になるほどの危機は迎えずに済む、と難民化による、さらには環境汚染による日本の世界に与える影響への責任を考えずにはいられません。

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