三上智恵の沖縄〈辺野古・高江〉撮影日記

沖縄・普天間基地へのオスプレイ配備をめぐる抵抗運動の様子や、新たな米軍基地建設計画が進む沖縄本島北部・東村高江の住民たちの闘いを描いたドキュメンタリー映画『標的の村』を撮影した三上智恵さん。辺野古や高江の 現状を引き続き記録するべく、今も現場でカメラを回し続けています。その三上さんが、本土メディアが伝えない「今、何が沖縄で起こっているのか」をレポートしてくれる連載コラムです。毎週連載でお届けします。

第12回

還らぬ人となったS船長へ~悲しみに包まれる辺野古の現場から~

 この撮影日記、第0回から数えるとこれまで12の文と動画を、毎週沖縄の現場から届けてきた。
 名前は知っていても内実は一向に伝わらない「辺野古の基地建設問題」について、毎日現場にいるからこそ見えてくる人間の姿を、その魅力を、不条理や怒りや誇らしさを、皆さんと共有したいという思いだった。しかし今回は、私自身がとても混乱している。これから書くことは、伝えるべきなのか、新たな誤解を生まないか、自分でもよくわからない。ただ、こんな大事件があったのに別の話の報告をすることは、事実から逃げているようで耐え難い。従って予定した内容に代えて、今現場を揺るがしている出来事をまず書いてみようと思う。

 毎朝のように一緒に海に出ていたSさんが、還らぬ人になった。しかもいつも出港する汀間漁港での事故だった。Sさんは72才。反対運動の船5、6艇の中では大きい方の、「きずな」をもじった「なずき丸」の船長であり、7、8月は主に「メディア船」として多くのカメラマンや記者達を乗せて、海の工事や住民と海保との衝突を見張るために操船して下さった。船長グループの中心メンバーだった。敬意を込めてS船長と呼ばせて欲しい。

 19日の日曜日、私は母親大会の講演会を依頼されて博多にいた。会場に向かう途中、辺野古の漁師から電話が入った。「あんた、内地にいる場合じゃないよ。反対運動の船長が浜に打ち上げられてる。息をしていない」。私は気が動転した。電車の中から他の船長や友人にメールを打つ。どうやら悪い知らせは本当で、出港準備をしていたS船長が、漂流し始めた船を助けようとした末の、不慮の事故であったことがわかった。

 混乱したままなだれ込んだ講演の冒頭、私は「今、辺野古からとんでもないニュースが入って頭がいっぱいいっぱいなので、まずそのことから報告させて下さい」と切り出した。
 「70代とはいえ体格も良く、泳ぎも操船も自信のあったS船長でした。それがなぜ・・・。いや正直言って、反対運動の船長たちは海人や海保と違って操船のプロではない。免許取り立てで経験の浅い人もいれば、機械の整備が不得手な人だっている。補い合ってなんとか海上行動を維持してきた。問題はなぜ、そんな彼らが、ローテーションで毎日毎日海にでなければならないのか・・・」
 聴衆にぶつけるべき怒りではないとわかっていながら、もう止められなかった。700人を超すお母さんたちは黙って聞いていてくれた。
 「海上行動にはたくさんの70代の先輩達がいる。80を超えた方もいる。本来は家でゆっくり過ごしてもらいたい皆さんにまで、いったいいつまでこんなことを――」と言おうとして、号泣。先に進めなくなってしまった。

 動力もないまま流された船に乗っていた男性は、岩場に激突しないよう海に入って船体の向きを必死に変えようと1人で奮闘、しかし折からの強風でどんどん港から離れていった。そこに海保の船がやってきて、助かったと思ったのも束の間。海保は彼を引き上げもせず、海に入ったままの状態で事情聴取を続けたという。その間、船を追いかけて飛び込んだS船長の消息が不明だとわかるまでに無為な時間が過ぎてしまった。やがて堤防に置かれた携帯電話と靴とフックから「飛び込んだらしい」と、仲間も大浦湾の捜索を始める。漂流から1時間半、水面に浮いているS船長を見つけたのは海保だった。

 海保は駆けつけた船長仲間から事情を聞きながら「だから言わんこっちゃない。あなたたちがこういう危ないことをするから大事故が起きるんですよ」と追い打ちをかけたそうだ。別に制止を振り切って建設予定区域に入ったわけでも、阻止行動をしていたわけでもない、準備中の港内での不慮の事故だ。それを、仲間を失った船長たちに対し、これ見よがしに投げつけるその台詞はあまりにも残酷だ。

 運動だろうが素人だろうが、船をもつからには人の命を預かる重責が伴う。常時7、8人のローテーションで舵をもつ船長たちは当然、肝に銘じているし、何重にも声を掛け合っている彼らの緊張感も毎日目の前で見ている。しかし今回の衝撃で、恐怖感や全体に迷惑をかけるのではという不安から、海に出られなくなる人も居るかもしれない。毎日率先して船を出してくれたS船長の固い意志を受け継ぎたい。そう決意しながらも、船長たちはそれぞれに、苦しい思いを胸に抱えてしまったと思う。

 起るべくして起きた。
 高齢者まで海に出すのは行き過ぎだ。
 海を甘く見ている。
 命あってのことだ。

 誰でも批判はできるだろう。しかし、どこまでが許容範囲でどこからが無理なのか。素人が海に出ること自体、無理だというのか。安易に批判する人に私は問いたい。
 「あなたの言う無理をせずに、この状況を止められますか?」

 上のような台詞を言っていいのは、私は地元の漁師達だけだと思っている。辺野古や汀間支部、宜野座も含めて、周辺の漁師達は海上の反対運動を批判もしながらも、その数倍心配をしてくれている。船の係留が甘くて流されれば追いかけていってくれる。繋ぎ直しをしてくれた後に大目玉もくらう。でもそれは、彼らがロープの結び目一つで生死を分ける経験をしてきているからだ。台風対策だって、一つ間違って反対運動の船が転がれば、港は大損害だ。運動体の船など係留させるなという意見も当然ある。あんな年寄りに操船させて大丈夫か、誰が責任を取るんだという海人の意見を、私もよく聞かされた。
 大迷惑だといいながらも、視界のどこかで反対運動の船を気にかけ、徹底排除しないで居てくれるのは、この海を埋められたくない必死の思い、危険を知らずに海に出て行く無謀さと呆れるほどの情熱も含めて、同じ海を大切に思う漁師達の心に通じるなにかがあるからだと私は思う。

 S船長は頭脳派で、長年、米軍がらみの事件や事故で泣き寝入りする沖縄の被害者たちを支え、助ける活動をしていた。日米地位協定の話になると、条文を諳記しているほどの彼の持論はエンドレスで展開された。周りから反対された結婚だったそうだが、県民に大人気だった瀬長亀次郎元那覇市長を仲人に立てて見事妻を迎えられたという自慢話を、3日前、汀間の港で聞かされ大笑いしたばかりだった。台風あけで船を降ろす作業に奔走していたのが、私が見たSさんの最後だった。事故の当日も、反対運動を支援に来る方々を乗せて辺野古の海を案内するために、準備をしている最中だった。

 翌20日、早朝のミーティングにはいつも海に出るメンバー達40人が集まった。いつものウエットスーツやライフジャケットではなく、服を着て沈痛な面持ちで円陣を組んだ。事故の報告があった。船長の中には号泣する方もいた。県民の運動自体に迷惑をかけて申し訳ないとの謝罪もあり、みんな唇を嚙み締めていた。その日の海上行動は見送られた。
 しかし、運動の停滞を一番望まないのは故人であろうと、ゲート前の座りこみはつらくてもやろうと決まり、ノボリ旗や歌などは慎もうと決めた。私はカメラを持って行かなかったのだが、テントでの様子を少しだけ携帯電話に記録した。今回はその映像だけでお許し頂きたい。

 S船長、最後の瞬間まで船長として行動したあなたに敬意を表します。後生(グソー=あの世)で待つ大西さんに「こっちに来るの、早すぎたよ」と叱られて下さい。祐治さん、当山さんと酒盛りをし、久坊さんの船に乗って遊んで下さい。そして辺野古の海の神さまとともに、私達にこの海を、島を、守らせて下さい。遺志は必ず引き継ぎます。

合掌

三上智恵監督新作製作のための
製作協力金カンパのお願い

沖縄の基地問題を描く、三上智恵監督新作の製作を来年の2015 年完成を目標に開始します。製作費確保のため、皆様のお力を貸してください。

◎製作協力金10,000円以上、ご協力いただいた方(もしくは団体)は、映画HPにお名前を掲載させていただきます。
◎製作協力金30,000円以上、ご協力いただいた方(もしくは団体)は、映画エンドロール及び、映画HPにお名前を掲載させていただきます。
※掲載を希望されない方はお申し込みの際にお知らせ下さい。

■振込先
郵便振替口座 00190-8-513577
名義:三上智恵監督・沖縄記録映画を応援する会

 

  

※コメントは承認制です。
第12回 還らぬ人となったS船長へ~悲しみに包まれる辺野古の現場から~」 に2件のコメント

  1. magazine9 より:

    三上さんが、最後に挙げている金城祐治さん、大西照雄さん、当山栄さん、久坊さんこと島袋利久さんは、辺野古の基地建設反対運動に中心となって関わり、この10年の間に病気などで亡くなられた方々のお名前です。S船長のような悲しい出来事がもう二度と繰り返されないように、高齢の方々が体を張らずに安心して暮らせるように――ただ、そう願うだけでなく、その思いを行動へと結びつけないといけないと改めて思います。

  2. yasu makoto より:

    ともに悼みます 

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三上智恵

三上智恵(みかみ・ちえ): ジャーナリスト、映画監督/東京生まれ。大学卒業後の1987年、毎日放送にアナウンサーとして入社。95年、琉球朝日放送(QAB)の開局と共に沖縄に移り住む。夕方のローカルワイドニュース「ステーションQ」のメインキャスターを務めながら、「海にすわる〜沖縄・辺野古 反基地600日の闘い」「1945〜島は戦場だった オキナワ365日」「英霊か犬死か〜沖縄から問う靖国裁判」など多数の番組を制作。2010年には、女性放送者懇談会 放送ウーマン賞を受賞。初監督映画『標的の村~国に訴えられた沖縄・高江の住民たち~』は、ギャラクシー賞テレビ部門優秀賞、キネマ旬報文化映画部門1位、山形国際ドキュメンタリー映画祭監督協会賞・市民賞ダブル受賞など17の賞を獲得。現在も全国での自主上映会が続く。15年には辺野古新基地建設に反対する人々の闘いを追った映画『戦場ぬ止み』を公開。ジャーナリスト、映画監督として活動するほか、沖縄国際大学で非常勤講師として沖縄民俗学を講じる。『戦場ぬ止み 辺野古・高江からの祈り』(大月書店)を上梓。
(プロフィール写真/吉崎貴幸)

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