時々お散歩日記

 毎朝、新聞を開くのが少し怖い。今朝は、どんなイヤなニュースが載っているだろうか…、そんな感じで身構えてしまう。
 ヘイトスピーチやヘイトデモのひどさは言うまでもないが、このところ、妙な「中止」「自粛」「拒否」などが目立って不気味だ。
 大声を張り上げて批判する人が数人でもいれば、役所も会社も、すぐに催し物を中止してしまう。そういう風潮が、じわじわと広がっている。中には、何の批判も受けていないのに「もしかしたら批判があるかもしれない」と自粛、拒否してしまう自治体さえ出てきた。
 すでに「民主主義」や「言論表現の自由」なんて言葉は、地方自治体では死語になりつつあるのかもしれない。
 例えば、神戸市と同教育委員会は、憲法記念日の「憲法集会」の内田樹・神戸女学院大名誉教授の講演会の後援を「憲法については多様な意見があるので」という理由で拒否してしまった。内田さんが護憲の立場を明確にしているかららしい。
 山梨市では3月に、市が上野千鶴子・東大名誉教授の講演会を予定していたにもかかわらず「過去の発言に問題がある」という外部からの指摘があったとして、上野さんの了解も得ず、中止を発表。これに対し、上野さんは猛反発。そして「中止はおかしい」という多くの批判が寄せられると、今度は一転、講演会を開催、というドタバタ劇。市長は、上野さんについてはまったく知らずに、開催や中止の判断を下したらしい。
 栃木県那須塩原市では、原発建設計画をめぐる映画『渡されたバトン さよなら原発』の上映会の後援を「公共性がない」という理由で断っていた。原発問題に公共性はないのだろうか?
 さらに、千葉県白井市では、2014年度から「行事の共催」などの規程を変更し、後援をしない基準として、これまでの「政治的目的を有するもの」を「政治的色彩を有するもの」に改めたという。これによって、憲法や原発問題についての講演会などは、市の後援を受けられなくなる可能性が強いという。この件に関しては、保守系の古沢由紀子市会議員が、地元の「しろい・九条の会」の講演会を市が後援したことについて「政治性を持った講演を市が後援していいのか」と批判。市の総務課長が「この質問が規程改正につながった」と認めているという。
 ほんのわずかな批判をされても、役所は縮こまってしまう。これが悲しいかな、最近の風潮である。
 また、役所ではないが、高知市の土佐電鉄が、護憲のメッセージを掲げた路面電車の運行を中止した。これは市民団体の企画で2006年から毎年ずっと運行され続けてきたのだが、今年は土佐電鉄が運行を拒否、ついに中止に追い込まれたという。
 そのほかにも「政治的主張が込められている」という理由で、東京都美術館がある造形作品の展示を拒否した、という事件も起きている。
 各地では『はだしのゲン』を図書館や学校から撤去するよう求める電話や請願がかなり出されているとも聞く。
 少しでも反対する者がいれば、中身をきちんと吟味することもなく「揉めるのはまずい。とりあえず中止に」という対応だ。そして、何もなくても「もしかしたら揉めるかもしれない。とりあえず中止に」という対応にまでエスカレートしつつある(以上、東京新聞など各紙による)。
 まさに、息苦しい世の中がそこまで来ている。

 こんなふうに、役所も会社も「触らぬ神に祟りなし」の態度。何よりも、公務員たちが「憲法」を「政治問題」ととらえているのがおかしい、ということに気づいていないことに愕然とする。
 もっとも、安倍を筆頭に国会議員たちが率先して憲法を足蹴にしようとしているのだから、地方の役人たちが委縮してしまうのも、無理はないのかもしれない。
 日本国憲法は、きちんと公務員の憲法遵守義務を謳っているが、これらの人たちは、日本国憲法など読んだこともないのだろうか。

第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

 日本国憲法には、国民への「義務規定」はほとんどない。国民に義務として課されているのは「保護する子女に教育を受けさせる義務」(第26条②)と「勤労の義務」(第27条)「納税の義務」(第30条)くらいのものだ。あとは、徹底的に為政者の義務を規定する内容となっている。権力を縛る。これがいわゆる「立憲主義」なのだ。
 安倍首相はそこをまったく理解していない。彼は2月3日の衆院予算委の答弁で、次のように述べた(議事録)。

考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方がある。しかし、それは王権が絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、いま憲法というのは日本という国の形、理想と未来を、そして目標を語るものではないかと思う。

 何だ、これは? こんな珍説、聞いたこともない。
 さらに安倍、同じころ、集団的自衛権問題について問われて、こんな答弁をしている(東京新聞2月14日付)。

(略)今までの積み上げで行くなら、そもそも有識者会議をつくる必要はないんだから。(略)
 先程来、法制局長官の答弁を(質問者が)求めているが、最高の責任者は私だ。私は責任者であって、政府の答弁にも私が責任を持って、その上において、私たちは国民から審判を受けるんですよ。審判を受けるのは法制局長官ではない、私だ。(略)

 この答弁は有名になったから、憶えておいでの方も多いだろうが、さすがに自民党内からも批判の声が上がった。連立を組む公明党も、さすがにこの安倍発言を認めるわけにはいかず「首相判断で憲法解釈を変更するのはおかしい」と、かなり強い批判を繰り返した。
 あまり深く考えずに口走ってしまう安倍としても、やはりこれはまずかったと思ったらしい。その後は、少しだけ発言のトーンを下げたようだ。しかし、持論を取り下げたわけではない。
 そこへ妙な助け舟が現れた。高村正彦自民党副総裁の「砂川事件最高裁判決」を根拠にした「集団的自衛権の限定容認論」だ。
 どうも、いろいろと姑息なリクツを思いつく側近がいるらしい。

 では、「砂川事件」と、その「最高裁判決」とはどういうものだったのか。簡単に説明する。
 現在、東京都立川市には広大な「昭和記念公園」があるが、ここはかつて米軍立川基地だった。1957年、米軍はこの基地を拡張しようと計画、基地の北側の砂川町(現・立川市)の用地接収を図った。これに対し住民や学生たちが抗議行動、一部が基地内に侵入し、そのうち7人が日米安保条約に基づく刑事特別法違反で逮捕・起訴された。これが砂川事件である。
 1959年3月、東京地裁の伊達秋雄裁判長は「米軍の駐留は憲法9条に違反する」として、全員に無罪を言い渡した(伊達判決)。
 驚愕した日本政府は検察に命じて高裁を外し、直接、最高裁へ飛躍上告。そして1959年12月、最高裁は「わが国が、存立を全うするために必要な自衛のための措置を取り得ることは、国家固有の権能の行使として当然」として「伊達判決」を破棄した。これが、高村副総裁が唐突に持ち出した「砂川事件最高裁判決」のいきさつである。
 だが、この最高裁判決の裏には、そうとう胡散臭い事情が隠されていた。時の田中耕太郎最高裁長官が、判決の直前、アメリカのマッカーサー駐日大使と面談。この席で田中長官が「伊達裁判長が憲法上の争点に判断を下したのは、まったくの誤り」と述べたことを根拠に、米大使がアメリカ本国へ「裁判長は一審判決が覆ると思っている印象」と伝えた公電が、日本の研究者によって発見されたのだ。
 最高裁長官とあろう者が、事前に評議内容を外部(それも重要な当事国)へ漏らしていたことが明らかであり、この最高裁判決には重大な疑義があると言われている。つまり、政治的圧力の臭いがするのだ。
 このような疑義のある判決を基に、高村副総裁は「この判決を読む限り、必要最小限の集団的自衛権を排除していない」という珍妙な「集団的自衛権の限定的行使容認論」を唱え始めた。これに安倍が食いついた。
 朝日新聞(4月20日付)が説明している。

(略)高村氏が公開の場で砂川判決に触れたのは3月31日。経緯をたどると、「限定容認」で行使を急ぐ安倍晋三首相の思惑が浮かび上がる。3月6日、安倍氏と高村氏は互いに「相談がある」と持ちかけ、首相官邸で30分ほど会談した。高村氏が「集団的自衛権を十把一絡げで全部認めるとか、だめだと言う議論は間違い」と話すと、安倍氏も「そうですね」と応じたという。(略)

 つまり、安倍が急に「集団的自衛権の限定的容認」を言い始めたのは、決して持論ではなく、高村氏の入れ知恵だったようなのだ。まさに、利用できるものには、恥も外聞もなく乗っかるのだ。
 だが、砂川事件判決には、どこにも「集団的自衛権」などという言葉は出てこない。それを高村氏のように「判決では集団的自衛権を排除していない」から必要最小限の集団的自衛権行使は許される、などと言うのは、あまりに常軌を逸したレトリック、暴論だろう。それに「必要最小限」という言葉がいつの間にか外されてしまうのは、自民党のお家芸の「言葉の自由な解釈」を考えれば、いずれ起きることが確実だ。 
 「書いていないから許される」のだとすれば、どんなことでも可能になる。弁護士資格も持っているという高村氏が、こんなリクツを正しいと思っているのなら、弁護士資格剥奪ものだ。

 安倍という人に、この国の政治を任せておいてはひどいことになる。本気で、安倍内閣退陣の声を上げなければならない時期に来ていると思う。
 東京新聞の半田滋記者が、「私説 論説室から」というコラムで、辛辣に安倍のデタラメさを指摘している(4月21日付)。

 集団的自衛権の行使容認に踏み切ろうとする安倍首相は「わが国を取り巻く安全保障環境は一層厳しさを増している」と繰り返す。この言葉は「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」(安保法制懇を再招集した昨年二月の冒頭発言で示された。
 おや…、第一次政権で最初に安保法制懇を招集した際の安倍首相の冒頭発言を見つけた。「わが国を取り巻く安全保障環境はむしろ格段に厳しさを増しており」(二〇〇七年五月十八日)とある。今の言葉と変わりない。
 すると「わが国を取り巻く安全保障環境」は七年前から危機的だったことになる。この状況認識は奇妙というほかない。(略)
 七年前から危機が迫っていたのなら、なぜ後任の福田康夫首相は憲法解釈の変更を勧めた安保法制懇の報告書を無視したのか。福田氏を含め自民党で二人、民主党で三人いた後任の首相はなぜ、憲法解釈の変更や憲法改正を目指さなかったのか。
 安全保障環境をめぐる、安倍首相の奇妙な認識は、集団的自衛権の行使容認に踏み切る理由はどうでもよいという証しなのだろう。

 半田記者の言う通りだと思う。安倍にとっては、理由なんか必要ない。ただただ「勇ましい戦争のできる国」に、岸信介じいちゃんの遺志を継いで、日本を捻じ曲げたいだけなのだ。
 繰り返すが、「安倍内閣退陣」という声を上げなければならない時期に来ている…。

 

  

※コメントは承認制です。
177 息苦しい社会と、
「集団的自衛権限定行使論」のひどい理屈
」 に5件のコメント

  1. ピースメーカー より:

    >こんなふうに、役所も会社も「触らぬ神に祟りなし」の態度。
    >何よりも、公務員たちが「憲法」を「政治問題」ととらえているのがおかしい、
    >ということに気づいていないことに愕然とする。

    でも、鈴木耕さんはTwitterで、”出版社の友人より知らせ。神保町三省堂が巨大な垂れ幕広告。それが『日本が戦ってくれて感謝します アジアが称賛する日本とあの戦争』という凄まじいタイトルの本。しばらく三省堂へ行っていないので知らなかったが、写真を見るとひどい。私はもう三省堂で本を買わない! 好きな書店だったのに。”とツイートされ、池田香代子さんが、”苦情を受けて、撤去したようですよ”とリツイートされたら、”さすがに… ”といって撤去を当然視するツイートされていました。
    https://twitter.com/kou_1970/status/458185351358464000
    でも、この(撤去されたという)問題も、まさしく今回の記事で批判をされていた「憲法」の問題ではないでしょうか?
    もちろん鈴木さんの「大義」としては許せないのは分かりますが、一分の躊躇いもなく「大義」の為に「筋」を平気で棚上げにしてしまう態度には、私としては愕然なってしまいます。
    「憲法」というモノを他者(主に権力者や保守派)を抑圧するための道具として利用しようとする人は、憲法(だけでなく「先進国の法」そのもの)が「公正を基本とする筋論」であるという単純な原則を失念していると思います。
    最近、伊勢崎賢治さんが、”護憲派なんかに護憲を任せられない。”という刺激的なツイートをされていましたが、その意味は任せられないほど力不足になったということであり、その原因のひとつが筋論を乖離した言葉遊びを長年続けたせいで、「言葉の力」というものを失ったからではないでしょうか?
    「政治的中立」という言葉が力を増し、「言論表現の自由」という言葉が退潮していったのは、「言論表現の自由」という言葉を掲げる人々が時と場合によっては平然と自分が掲げた言葉を棚上げしてあれこれ「筋」を曲げたことを正当化する講釈を述べるということを続けてきたから、「言論表現の自由」という言葉への信頼が失われていったからではないでしょうか?
    この構造は「平和主義」という言葉もまた同様だと思われます。
    もちろん今の安倍政権が筋論を曲げているという批判は間違っていないと思いますが、とはいえ、そのような批判をする人々が「公平でない」と思わされるような態度を躊躇いもなくしているのでは、「安倍内閣退陣」という声はかすんで消えてしまうでしょう。

  2. 鳴井勝敏 より:

    「揉めるのはまずい。とりあえず中止に」。なにもなくても「揉めるかもしれない。とりあえず中止に」。これは、議論、討論の活発化を「揉める」と評価、波風を立てないことを美徳とする国民性の表れである。また、国民へ法令遵守を呼びかける公務員だが、憲法を読んだことがない。99条など見たことも聞いたこともない、というのが私の実感だ。業務遂行に何ら支障を来さないからだ。           「民主主義」や「言論表現の自由」なんて言葉は、地方自治体では死語になりつつあるのかもしれない、という指摘だが、以下は私の体験である。               私は、市の公共施設管理者に講演の「チラシ備え置き」を拒否された。平成24年4月のことだ。理由は営利性の有無の判断ができないからという。講演のタイトルは、「孤独な子どもに気づかない親たち~「聴く力」は子どもの自立心を育む~」。定員7名・資料代300円。そのとき既に同タイトルの講演は58回を数えていた。同管理者から、営利性の有無の判断をしたいので「資料代300円」の内訳を窓口にきて説明してほしいというのだ。私はその要請を断った。「定員7名、資料代300円」の記載から営利性の有無は社会通念上明白であるからだ。しかし、憲法が保障する「表現の自由」を武器に闘ったが裁判官へは伝わらなかった。   一審、二審とも「行政裁量」という箒で一掃きされたのだ。民主主義の生命線である「表現の自由」を「行政裁量」という箒で一掃きする裁判官の姿に驚いた。この国は二権分立ないし一権のみだという印象を強くした。最高裁決定は「上告を棄却する」「上告を受理しない」であった。   今、民主主義の前提が音を立てて崩れている。つまり国民が権力を監視し、批判し、改善を要求する、という構造が崩れているのだ。マスコミは表現の自由を強調するが保身のため。一般市民は「沈黙する善良な市民」と化し、思考停止に陥ってしまった。利便性が「孤独」に耐える力を奪ってしまったのだ。憲法を法律で改正するなど中学生でも分かるようなことを平然と議論し、議論させているのだ。時間の無駄、費用の無駄である。
    国民一人一人が「考える力」を復元しないと大型客船日本丸は沈没するだろう。逃げ遅れるのは船員ではない。乗客(国民)なのだ。
    「表現の自由」の危機は全体主義の予兆を感じる。そして、「中止」「自粛」「拒否」は改憲派の焦りと危機感の表れでもあろう。

  3. kamo より:

     この国は戦後68年が過ぎました。それは二つの世代が既に交代したことになります。その二つの世代には特徴的違いがあります。
     一つは、その先の世代は、戦前の教育を受けた大人達によって育てられた世代だと言う点です。彼らは、戦前の厳しい道徳教育によって、厳格に自律することを知っていた世代です。
     で同時に、敗戦によってその価値観を否定された世代でもあるのです。
     彼らは、自分たちの道徳的価値観に疑いを持ち、米国式民主主義の精神を学び取ろうとしました。
     そして、心の底から反戦でした。戦争は懲り懲り。戦争は絶対しないと言うことを、言わずもがなのこととして、心の底にしっかりと持っていました。
     でもその事が、次の世代に引き継ぐべき、民主主義の時代に於ける、倫理道徳、反戦平和主義の教育を伝えることに失敗してしまいました。
     彼らは戦前の道徳教育に変わるべき、倫理理念の教育の手段を見つけ出すことができなかったのです。
     反戦教育についても失敗しました。反戦平和が彼らにとって余りにも強い当然の問題であったために、教育としての反戦を社会通念として構築することができなかったのです。
     不幸はもう一つありました。其れは、自民党政権の独裁が続いたことです。この政権が抱える根本的捻れが有りました。改憲です。
     自民党政権の中に、反戦平和と、戦後民主主義の理想を実現しようとする中道左派と、戦後レジュームの転覆を狙う右派が、同時に存在してきたことです。
     第二の世代は、戦後に生まれた親によって育てられた世代です。
     この世代は、一言で言ってしまえば、教育としての反戦平和教育や、倫理道徳を全く教えられずに育てられた世代です。
     この国の戦後世代は、民主主義の原理はおろか、倫理教育すらまともに教えられることもなく育てられてしまったのです。
     この国の野蛮化が進んでいます。安倍晋三という総理大臣は、凝り固まった戦前体制礼賛主義者です。
     その変骨漢が、積極平和を叫びます。平和を守るために戦えと若者に呼びかけます。
     若者は無邪気に、敵を殺さなくて国が守れるかと応接します。
     アメリカに守って貰うような意気地のない国で良いのかと煽ります。
     最早その流れを止める術はありません。
     絶望的時代が流れ始めました。

  4. えいみい より:

    公務員は憲法を守るのが仕事。時の首相の顔色を見るのは異常です。でも、職場でアベの悪口を言うとなんだか険悪なムードになるのも事実。おかしいことはおかしいという勇気がひとりひとりに必要ですね。それが空気を作るということだと信じて。

  5. 国際法 より:

    戦時国際法では、第三国の中立義務が定められていますから、戦争当事国でない第三国は、戦争当事国の飛行機や艦船を勝手に援護することはできません。援護するには宣戦布告を行い、第三国の地位を捨てなければなりません。「集団的自衛権の限定行使」などは国際法上ありえないことで、宣戦布告を行えば全面戦争に突入するしかありません。政府の新解釈は、戦時国際法に無知なのか、知ってて騙そうとしているのか、どちらにしてもリスクを正しく反映していません。無知なのであれば、宣戦布告なしの真珠湾攻撃に続いて、歴史的な国際法違反を起こすことになりかねません。

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すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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