時々お散歩日記

 使用中のパソコンが、とうとうストライキを起こし始めた。思い起こせばもう7年以上も黙って僕の酷使に耐えてきてくれたんだ。そろそろ「引退させてくれぇ」と言っているのかもしれない。時々、まったく返事をしてくれなくなる。
 でもねえ、使いなれたものを手放すのは、なんだか淋しい。それに、僕の癖もいっぱい覚えてくれている。もう少し働いてくれよ、とお願いしているんだけれど、やっぱ、無理かなあ…。
 原稿を書き(この原稿もおそるおそる書いているけれど)、その原稿を依頼先に送る。
 さまざまな調べものをし、そこで得られたデータや、新聞や雑誌・書籍で知った事実、さらにはさまざまな友人知人から得た情報などを整理し、溜め込んであるこのパソコンが動かなくなってしまえば、僕はある意味でお手上げだ。
 新聞や雑誌の切り抜きはファイルしてある。それはもう「原発」は25冊、「沖縄・憲法」は10冊になっている。でも、パソコンにはその目次(?)を入れてあるから、開けなくなったら、いちいち直接ファイルをあたって確かめるしかない。これは、困る。
 仕方ない。今日(15日)、新しいパソコンを買いに出かけよう。というわけで、我が長年の友、この愛器からは、最後の原稿。

 古いものを、どんどん捨てていかなくては時代に対応できない、そんな世の中って、なんだか哀しいんだけれど、そう言う僕自身も、新しいものに頼らざるを得ない状態になっている…ということに、改めて気づかされる。
 お払い箱になる、ということに気づいたのか、このPC、どうもあまり機嫌がよくない。時々、沈黙の抵抗をする。すまん。
 そんなわけで、たくさんは書けない。10月13日の大きなデモの感想でも書き残しておこう。

 時代は、そんなに足早に走らなければいけないものだろうか…。
 原発再稼働の流れがかなり目立ち始めた。どうも、最近の原子力規制委員会の足許も覚束ない。原発バンザイの安倍政権になってから、「再稼働」へ傾いているような気配が濃厚だ。
 多くの人たちも、そんな流れを感じ取っているのだろう。この日の「反原発・日比谷大集会デモ&国会包囲抗議集会」には、近来では最大の人数が参加した。
 僕が日比谷へ到着したのは、午後1時を少し回った時刻だったが、会場の日比谷公会堂の周りは人であふれていた。むろん、超満員の会場へなんかとても入れない。会場前の道端に座って、スピーカーから流れてくる挨拶に耳を傾ける。
 96歳の老医師・肥田舜太郎さんの言葉が胸を打った。「もう10年しか生きられない人も、30年50年生きるつもりの人も、放射能をこの世界に残したままで終えてはいけない」と、声をふりしぼっての切々たる訴えだった。僕の周りでザワザワと話していた人たちも、肥田さんの声にシーンと静まり返った…。
 大江健三郎さんは、デモで疲れてベンチで眠り込み、警官に「おじいさん、どこから来たの?」と起こされた、というエピソードを「私の滑稽な話」として紹介してくれた。ノーベル賞作家が警官に「おじいさん、もうおうちへ帰りなさい」と説教されている図、おかしいけれどちょっと哀しい。
 (閑話休題。どなたかが、「村上春樹さんがノーベル賞を逃したと、テレビは大騒ぎしていたのに、反原発集会にノーベル賞作家の大江さんが参加していたことはほとんど取り上げない…」というようなことをツイッターで呟いていた)。

 ほんとうに、近来では最大級の参加者数だったろう。天気も幸いした。直射日光はまだまだきついけれど、日陰に入れば、秋だ。挨拶が続く間にも、続々と人数が増えていく。
 公園のいたるところに座り込んでいるから、どれだけの人数になっているのかまったくつかめない。ざっと2万人くらいかな、と、けっこうデモ慣れしている僕は推察。だが、まだまだ人は増え続けている…。
 最終的な主催者発表では、この後の国会前抗議集会と合わせて約4万人の参加者だったという。

 午後2時過ぎ、デモ隊が出発し始めた。
 僕は、ファミリーエリアのデモ隊に参加しようと思った。だが、ものすごい人波で、なかなかそこへ辿りつけない。僕が出発できたのは、もう2時半を過ぎていた。
 細かく細かく、デモ隊は分断される。300~500人ほどに分けられたデモ隊は、5~10分ほどずつ時間をずらされて、ようやく路上へ出て行く。これでは、最終デモ隊がいつになったら公園を出られるか分からないなあ…、とちょっと心配になった。
 東京電力本店前から新橋、そして官庁街を(経産省前も)抜けて、原発ハンタイ、再稼働ハンターイ!のシュプレヒコールを挙げながら、僕がいた隊列が日比谷公園に戻ってきたのがほぼ4時半。「けっこうくたびれたなあ…」と友人やカミさんと言い合いながら、座る場所を探した。たくさんの人たちが公園にいた。最初は僕らと同じように、デモを終えて帰り着いた人たちだろうと思った。だが、妙にきちんと整列して隊列を組んでいる。あれ? もしかしたら、まだデモに出発していないのかな?
 並んでいる方に聞いてみると、苦笑しながら「ああ、まだなんだよ。待ちくたびれちゃったなあ…」という。
 それだけ多くの参加者があったということは嬉しいのだけれど、数時間も待たされるというのは、やっぱり辛い。これはなんか対応を考えなくては…。
 
 その後で、今度は5時から始まる「国会前抗議集会」へ。カミさんはここでリタイア。僕は友人とふたりで、だらだら坂を登って国会前へ向かった。
 すでに夕暮れ。暮れなずむ空に、きれいな上弦の三日月と、黒々とそびえる石棺のような国会議事堂。
 いつもの金曜日には「国会前スピーチエリア」と呼ばれている場所に、すでに入りきれないほどの人数が集まっていた。
 そこへ、ここでは見慣れぬ黒い服の男たちの集団が近づいてくる。なんだこれは? と目を凝らすと、菅直人元首相と志位和夫共産党委員長が一緒に歩いてくる。それを取り囲むSPと秘書さんたちが黒服の正体だった。かなり不思議な光景だけれど、考えてみれば、「脱原発」にイデオロギーは必要ない。
 彼らがもっと早い段階で“一緒に”動いていたなら事態は少しばかり変わっていたかもしれない。最近では、小泉純一郎元首相が脱原発を叫び、それを菅元首相や小沢一郎生活の党党首が評価する…、というちょっと前までは考えられもしなかったような状況が生まれている。
 これを、どう評価していいのか。
 だが少なくとも、機を見るに敏な老練政治家たちが、そろって脱原発に舵を切ったということは、それだけ国民の意識を無視できない状況に来ているという証左だろう。
 そんな民意をまったく掴めていない(いや、知っていながら知らんぷりをしている)のが、安倍政権という構図だろう。いずれ、手痛いしっぺ返しを食らうに違いない。
 この日の巨大なデモと集会は、安倍へのしっぺ返しの最初の一撃になるのかもしれない。
 ファミリーエリアにも、人がこぼれそうなほど押しかけていた。
 広瀬隆さんも、ここでマイクを握った。
 「伊方原発がいま、いちばん危ないんです。再稼働の最先頭にいるんです。伊方が動けば、続々とほかの原発も再稼働を始めます。どうしても伊方を止めなければなりません。みなさん、12月1日に伊方原発再稼働阻止大集会が松山市で開かれます。ぜひ、みなさんの力を貸してください。この国の未来のために…」
 広瀬さんのこの訴えに、大きな拍手が湧いていた。
 日はとっぷりと暮れていた。

 以上が、僕の長年の友だったパソコンからの、最後の原稿です。
 さようなら、僕の愛しきパソコンよ…。

 

  

←「マガジン9」トップページへ   このページのアタマへ↑

マガジン9

すずき こう

すずき こう: 1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

最新10title : 時々お散歩日記

Featuring Top 10/64 of 時々お散歩日記

マガ9のコンテンツ

カテゴリー