被災地とつながる

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前回このコーナーに掲載した「O君との再会@釜石」(北川裕二)の記事に登場したO君(小笠原拓生)より寄稿いただきました。ここに紹介します。

 釜石の小笠原(以下O)です。北川さん(以下Kさん)の記事を読ませてもらいました。震災に対する気持ち、私そして私たちの町に対しての関わり方や思いなど伝わってきました。
 震災直後、気持ちのどこかで、「混乱の外側と連絡をとりたい…」と思っていました。
 ようやくネットへ繋げる状態になり、ツイッターやケータイメールで、Kさんを含め、安否を気遣ってくれる知人との短いメッセージのやり取りから外側と繋がったという実感が持てたように記憶しています。 
 被災地にいるにもかかわらず、というか、被災地にいるということで、情報は混沌としていて焦る中、外の地域からの言葉やメッセージは、自分の現状を客観的に見させてくれ、気持ちの整理を促してくれたように思われます。

 仕事・私生活のどちらでも「物事への対処」に追われた日々でした。やるべきことが次々と出てきて、それらに対応するのが精一杯。それもインフラの途絶えた世界の中で…。
 普通に考える“やるべきこと”の優先順位。いままでは何も考えなくても無意識にできたことが、インフラのない状況では、あっけない感じで「できないこと」に気づかされました。電話が繋がらないので、互いの安否の確認ができない。人と計画的に会うことができない。偶然会った後の約束をするが、かなり不安定で曖昧な約束しかできない。ガソリンが無く、車での移動が制限され、自転車が中距離・長距離のメインの道具となる。

 「人」の物理的な移動、通信機器を使った「言葉」の電子的な移動の方法が制限されるということで、かえって自分たちの地域が広く感じられ、目的地が遠くに思われたのと同時に、他から孤立して閉じ込められているという矛盾した気持ちになりました。
 市内の西側では食料を求め大きなザックや荷物を持ち歩く人や、自転車に乗る人であふれていたようです。うちの奥さんは「これ、いつの時代の風景…?」と言ってました。

 その混乱から3ヶ月が過ぎました。
 瓦礫の撤去はそれなりに進んでいるものの、他の地域を見ている人から言わせると、釜石はまだまだ撤去作業は遅れているとのことです。
 理由としては、河川部分の瓦礫撤去を優先しているとも言われています。後述しますが、沿岸部一帯の地盤沈下と排水効率の確保とも関係があるのでしょう。
 ほかの理由としては、被災形態の違いからとも考えられます。釜石の津波の被害を受けた市街地に限っては、ほぼすべての商店や家屋が破壊を伴う被害を受けています。津波の到達した最終地点の周辺でも押し流されてきた車や瓦礫が多く、その周辺で亡くなられた方も少なくありません。
 建物はあるものの、1階の重要な店舗部分や、生活の中心となる部分が破壊されています。言いにくい表現となりますが、中途半端に建物が残っている…という状況が、今後の生活の建て直しにはかなり困難な選択を要求されるように思われます。

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O君の自宅と事務所の窓には、「がんばれ釜石」の文字。被災地で被災者自らが書く「がんばれ!!」には特別の意味があるように思う。

 釜石の市街地は沿岸部にありますが、町は遠野そして盛岡へ続く283号線沿いにも西へ向かい伸びています。Kさんが5月に釜石入りしたとき夜行バスで通ってきたあの道です。
 沿岸部の市街地で被災した事務所や商店が再開する場合、この西側の町での再起をはかる形が多いのです。とりあえず、仕事を始めて、被災した建物は復興計画を気にしつつ、そのまま…。といっても、ホテル、コンビニ、飲食店などは、被災地区の中心であっても再開に向けて整備しているところも出てきました。

 先日、Kさんにも入ってもらった自宅兼事務所も未だほとんど震災直後の状態です。自分は釜石市で清掃業を営んでいるのですが、その自宅兼事務所はもともと港から300メートルほど離れた地盤が低い場所にあり、雨が降り続き、洪水の状態になると、1階の低い部分=作業場は浸水します。この地域へ移転してきて30年ちょっとの間に、大きな洪水には5、6回見舞われていると思います。
 釜石の沿岸部は、あの地震で60センチほど地盤沈下してしまったようです。大潮の満潮時には、海岸沿いの道路や埠頭など、冠水するところも少なくありません。
 単純に考えて、この状態ではこれまでのような洪水が起こった場合、地盤が沈下した分、水位が上がるということです。1階にあった自分たちの事務所では机と同じくらいの高さまで水がくることになります。
 そして実際に、現在でも下水・雨水の排水能力が低下していることで、5月30日の大雨の時も、建物の海側の部分はかなり水がたまりました。そういう状況で、今後果たしてどういう選択をしなければならないのか、現時点で決定することは難しいところです。
 自治体の復興プロジェクトが提示され、区画整理の方向性などがある程度具体的に分かるまでは、大規模な修繕などには着手できないのが現状です。

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釜石港からほど近い場所にある商店街。

 そして、気温が上がってきているこの時期、海水に浸かった瓦礫の腐敗の進行と、ハエの大量発生という新しい問題も出てきています。
 旧自宅へ瓦礫撤去や荷物の整理へ向かう際、だんだんと津波に被災した地域独特の臭いの中へ入っていくことになります。塩の臭いと腐敗臭、そして消毒剤のようなケミカルな臭い。「大規模半壊」の自宅であっても、空気の篭った室内の中では屋外以上にこういった臭いを強く感じます。
 3階にあった冷蔵庫も震災後はずっとそのまま、もちろん電源も切れっぱなしです。先日奥さんが開けてみたところ、食料がドロドロに溶けていて、やはりかなりの腐臭だったとのことです。
 この現象自体、想像はできていたし理解できないものではなかったのですが、なんというか「腐敗」という現象は、身体的にかなりの拒否反応があります。「意欲」という観点からも、ボディブローのようなダメージを受けます。

 瓦礫の周辺に限らず、被災地の周辺にまで大量のハエが押し寄せている状況です。白いボディカラーの車などは、まるで全体にハエがとまっているようにみえるとのことです。
 ハエの大量発生ということからも、被災地全域で進行している事態が、どういうものか感じられます。同じように瓦礫や塩を含んだ土や砂などの中でも、微生物レベルでなんらかの変化が起きているのかなと想像してしまいます。

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ここにも×印が。ここで亡くなった人がいることを知らせている。

 3ヶ月が過ぎても自分の中で、地震、特に津波に対する恐怖感はなかなか変わりません。
 津波当日の夜、3階で感じた臭いは、海水と灯油・ガソリンの臭いでした。それとは異なってきてはいるものの、「臭い」はやはり津波を強く思い出させ、恐怖感を引き戻すトリガーになるようです。呼吸が乱れてくる感じがして、今この瞬間に津波が再来してくるのでは? という焦りがせりあがってきます。
 まだまだ余震は日常的に発生しています。同じレベルの余震に対し、津波の心配のないと思われる内陸で感じる感覚と、津波の被害地区での感覚は驚くほど違うものがあります。作業中では、わずかな余震でも強い恐怖感を感じます。そして、臭いとともに建物内にいるという圧迫感がその恐怖感を増幅させます。津波のなだれ込んでくるイメージに思考が移っていくのです。

 全盲の自分にとって、津波からの避難はとても難しい。建物から飛び出し、高台へ逃げるといっても、一人ではできない。もちろん旧自宅での作業に単独で行くことはありませんが、同行している人と逃げる際も基本的には変わりません。すばやい対応と行動ができない。同行者は私との避難行動を考えなければならず、避難の遅れにつながるリスクがある…。
 そういった緊急時の対処の行動をイメージしてしまうと、自分自身に対する無力感も、心を圧迫する原因になってしまいます。この気持ちは運動能力の衰えた高齢者や、ほかの身体的な障害を持つ方々も同じように感じることではないかと思われます。自分自身、単独でいる時に、その瞬間が訪れたら、「あきらめ」の思考に到達するまでさほど時間はかからないかも…と感じます。

 今回、津波の直前に自分が上階へ避難できたのは、そこが自分の家であり、自分には自由に行動できる場であったことが幸いしたのだと思います。もしもこれが出先であった場合、的確な行動ができたとは限りません。
 しかし、それも今回の津波の規模に対して逃げることができたということであって、やはり根本的には、自宅3階での避難というのも安心できるものではないとも自覚はしています。

 津波の瞬間に感じた恐怖や、今後に起こるかもしれない同様な災害に対しての恐怖。それらが時間をかけて薄れていく過程を現段階ではうまく想像できません。繰り返しになりますが、余震がおき続けている今、どうしても、この「揺れ」の先にくるかもしれない「津波」をイメージしてしまうのです。
 あれだけの自然の現象、力を体験すると、いままでのような「起こりうる災害を想定して設定し、必要があればそれを引き上げ、それらに対する物理的に膨大なディフェンス」を積み上げていく…という対処、「立ち向かう」というスタンスだけでは限界があるのではと感じています。

 後世のことを考えると、今後の復興計画、特に津波被害を受けている地域のこれからという部分に対して、思い切った考えも必要なのでは? とも感じます。いわゆる「高台移転」というものです。この方向性が、「復興の力強さ」とか「市街地の再生」というイメージと相反しない形で取り入れられていけばよいと思います。

 3週間ほど前に、釜石の内陸部の野田というところへ引っ越しました。震災後は避難所、親戚の家を転々としていましたが、ようやく家族の生活の場を確保することができました。
 落ち着かない日々ですが、「津波が及ばない地域での生活」ということが、この恐怖感を若干和らげています。少しずつであっても、自分たち家族の生活ペースと、気持ちの安らぎを引き戻していければと思っています。

 先日、6月23日の朝にも震度5弱の地震があり、津波注意報が出ました。このところ、岩手県沖での地震が増えています。そして、地震は東北地方だけでなく、日本のいたるところで起きているようです。
 自分たちの足元で何が起こっているのでしょう?

 文章を書くことは嫌いではなく、どっちかといえば好きなほうですが、震災後はなかなかうまく集中できません。まとまりのない文章になってしまったのではないかと心配しています。またお便りしますね。

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O君と奥さん。背景は奥さんの実家があった大槌町。

 

  

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