被災地とつながる

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前回このコーナーに掲載した記事に登場したK(北川裕二)さんより寄稿いただきました。ここに紹介します。

北川裕二(きたがわゆうじ)●1963年生まれ。近畿大学国際人文科学研究所非常勤講師。

 O君、ご無沙汰しています。前回に引き続き、僕が東京での近況を報告することになりました。

●渋谷を流れるもうひとつの川

 今回は、半年前に書いた渋谷について、その続きを書きたいとおもいます。憶えているでしょうか。渋谷駅を出ると山手線と並行する一角に、通称”のんべい横丁”と呼ばれる小さな呑み屋街があったことを。目まぐるしく変わる渋谷ですが、おそらくここだけは20年前と変わっていない。少なくともそのように見える区域が駅のすぐ側にあります。

 新宿御苑の溜池を源流とし、渋谷の中心地を流れる渋谷川は、この横丁の脇を流れています。駅の地下を抜けて目黒方面へと流れていく前に、「渋谷渓谷」を別の方角から縫うように流れてくる宇田川という支川と合流します。合流地点は、”のんべい横丁”の先にある宮下公園の入口付近。この二つの河川がここで合流するということはもちろん、渋谷の中心地に、川が、実は2本も流れているということも人々にはあまり知られていない。それというのも、これらの河川は随分昔に「蓋」が被せられ、暗渠にされてしまったし、この場所が合流地点であると認識できるものは、今は何も残されてはいないからです(※注1)。

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宮下公園入口付近から”のんべい横丁”を見る。折り重なる柵がこの場所の個性を示す。

 宮下公園入口付近に立ち入った者が陥る感覚というものがあります。表通りから一区画裏に入っただけで激変する都市環境。確かにこの一区画に入ると、表通りにはない渋谷の別の相貌を垣間見ることになります。表通りの時計の針とは違う時刻を示すように時の流れが淀む。賑わいから排除され、吹き溜まりとなったエアポケット。この取り残された雰囲気を、ただ社会的条件からのみそうなったと判断すべきでしょうか。この区域が、歴史上何度も水害に見舞われた元河川敷であることと、例えば公園脇の僅かな隙間にブルーテントが整然と並び、ホームレスの人々が集っていることとは、なんの関係もない。偶然の所産に過ぎないと。

 渋谷川に合流する宇田川は、いったい渋谷のどこを流れてここまで来るのでしょう。宮下公園入口付近には、山手線を潜って西武デパート方面へ抜ける短いトンネルもあります。そこから先を覗き見ると、この場所が、西武デパートのA館とB館に挟まれた井の頭通りに通じていることが直ちに了解されます。そう、宇田川は、この井の頭通りの下を流れているのでした。

 消費活動で溢れた人だかりの井の頭通りを西武デパートから東急ハンズ方面に向かって歩いて行くと、すぐに交番を挟んで分岐する三叉路に出くわします。右に行くと東急ハンズのある井の頭通り。左に行くと繁華街もやがて終わり、舗装された遊歩道に差し掛かります。この遊歩道が現在の宇田川の姿です。

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「蓋」をされ暗渠になった宇田川の上の歩道を歩く。 

 遊歩道は、一区画隔てて井の頭通りと並行して続いていて、丘陵のような右手にはNHK、代々木公園、明治神宮のある台地が、左手には元首相麻生太郎などが住む富裕層の豪邸が建ち並ぶ神山町の高台が聳えています。宇田川は、この二つの洪積台地に挟まれた細い谷筋を流れているということになります。川の上に蓋をして、遊歩道ととして「有効利用」する光景は、東京では頻繁に見かける代表的な景観のひとつと言ってもいいでしょう。もっとも、東京の河川・用水路の多くは「景観」から隠されるように暗渠にされたのだから、語義矛盾といわれればその通りですが。

 さらに渋谷方面から見て、一区画隔てて東急文化村(Bunkamura)から代々木八幡に続く道が宇田川遊歩道の左側を走っています。その道を歩いていたときのことでした。少し行った先に一風変わった奇妙な六叉路の交差点がありました。六叉路だけでも珍しいですが、この交差点は他にない特徴を兼ね備えていました。どのように奇妙かというと、神山町方面から勾配を違えたふたつの坂道とひとつの道が、同じ方角から交差点を目指して、折り重なるようにカーブしながら降りてくるように見えるのです。ふたつの坂道の勾配は、崖の傾斜に合わせて交差点という”点”を目指してくるので、もっとも勾配のある坂道が、手前で急なカーブとなる。ふたつ目の坂は、手前の坂の後方で曲がり、いちばん低いのはほんの僅かな勾配で、崖線に沿って通された道のようでした。このような六叉路を見かけることは、実はひじょうに稀なことです。

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宇田川方面から神山町の高級住宅街へ上がる六叉路を見る。道に挟まれた建物が交差点にさらに強い印象を与える。

●神山町の台地

 僕はふたつ目の坂道を行く事にしました。ふたつ目の坂道とはいっても、かなりの勾配があるうえに、途中で大きく左折してもいて、曲がるまで先の光景が見通せるというものではありませんでした。狭い崖の斜面に沿うように並んだ低地の商店街を見下ろしながら、坂道を上がります。錆びて崩れんばかりのベランダに洗濯物が干してある。

 そんな庶民の日常を記録しながらコーナーに差し掛かったときのことです。目の前の風景が一変しました。曲がった瞬間、見たこともないような豪邸、高級マンションが何軒も建ち並んでいたのです。坂道ですから、視点は下方から舐めるように見上げる形になるので、なおさら偉容を誇って映ります。わずか数十秒歩いただけ、20メートルほどの高低差があるというだけで、生活環境が劇的に変わった。天地ほどとはいわないまでも、それに近い感覚です。注意すべきは、違いが住居のみにあったのではないということです。道路の舗装・整備からして明らかに差別化されている。

 都心としては、何百坪もある敷地を囲む高級素材をふんだんに使った高く厚い塀や石垣、門。よく手入れされた生垣。おそらく数台は大きな高級車を止められるだろうガレージのシャッター。その向こうに、洗練されたデザインの豪邸が建つ。そんな一見静謐な高級住宅街をぶらついていると、他の界隈にはない感覚におそわれます。家という家に、風習のように貼られたSECOMのシールと防犯カメラが、ただ宅地の道を歩いていただけなのに、誰かに監視されているような、釈然としない気分になってきたのです。先程まで豪華に見えた塀も、まるで世界をふたつに分断する「壁」を連想してしまう。歩行者に対して発せられるその暗黙の圧迫感は、日中なのに、住居者以外は足早に通過しなければならない、そんな雰囲気を漂わせている。

 全国の犯罪件数は減り続けているにもかかわらず、過剰ともいえるセキュリティに依存する昨今の住宅の個性は、コミュニティの崩壊を象徴するというよりは、それが成り立つことを困難にしているように感じられる。居を構える隣人同士も交流などほとんどなく、互いに防犯カメラを向け合っているのではないか。こうした事情は、なにも神山町に限ったことではない。そんなことを勘ぐっていた時のことでした。コンクリートに反響した天衣無縫な子供たちの遊び声が聞こえてきたのです。姿は見えません。おそらく広い庭か、ガレージで戯れている。白昼の「静謐」な住宅街の壁の向こうから、嬉々とした子供たちの谺(こだま)が幻聴のように共鳴していったのです。

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土嚢が敷いてあることで水害の多い低地であることがわかる。

●神山町の邸宅

 神山町がそのような表情を持ちはじめたのは、おそらく20年ほど前からだと思います。実は、僕には神山町に住む古くからの友人がおります。彼の邸宅は、ニュージーランド大使館のある通りを山手通り方面へ向かった少し先にありました。住まいは、彼と祖母の二人暮らしで、一階と二階を二世帯住宅のように暮らし分けていた。昭和40年代頃の室内デザインや、職人による丁寧な建具は、そこに育ったわけでもないのに、懐かしさを感じさせるものでした。

 半年に一度は足を運び、止宿して、明け方までレコードを回す。灯火のように照らす間接光の陰影のなかで、籠もるようにして聴いたサウンドは、時間にある実在感を伴った重みを与え、記憶の隅に落とされた。そんなふたりだけの儀式のような親交を何度となく繰り返したものです。思い起こせば、彼との交流が始まったのは、君が故郷へかえった時期に重なります。

 そのようなわけで、渋谷から神山町までの変化を、住民ではない僕も垣間見てきました。けれど、当時、都市の地形にまで眼差しを向けるなどということはなかった。行き帰りの経路はほとんどいつも同じで、低地と台地の違いなどは気にも留めなかった。そんなふうですから、少し先へ行くと、そのときもあったに違いない六叉路のことなど知る由もありません。都市にせよ、人にせよ、あるいは芸術にせよ、若者のときには、誰でも人工的な「記号」の明快さに熱中するものです。「記号」を支える地盤に関心を持つに至るには、経験による認識に厚みが加わるのを俟つほかにないということなのかもしれません。

 ただ、当時、気づいたこともありました。半年前にはあった住宅が、次に訪れた時には空き地になっていたといったことです。建設現場や仮設的なパーキングも年々増加していったように記憶しています。ある時など、この住宅街の中でもとりわけ広大な敷地に、とても大きな豪邸が新築されたのですが、それから5年ほどで取り壊されたのを覚えています。あの懐かしい友人宅も、今はもうありません。

 ひとつの崖、河川、坂道が、他の空間と切断され、異なる世界に出入りするための”心理的な敷居”のように機能する。そんなことがある。それを、人々が、無意識となった癖のように受け入れていく。地形の条件を利用して、富裕層と貧困層が「棲み分け」している姿が、そこから観察されたのです。あの子供たちは、この「分離壁」をどのように内面化していくのだろう。そんなことを思いながら神山町の台地を後にしました。

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放擲された自転車と車輪。スポークの間から生える雑草。プラスチック製の固定型。電柱と矢印。コンクリートの擁壁と暗渠の排管口。下水の蓋と道の緩い傾斜。都市空間の細部から環境を読み取る。

●再び合流地点へ

 どうやら僕らは、神山町の台地から、再び宮下公園のある低地へと戻らねばならないようです。その深い谷間、低地には何があったのか。渋谷川と宇田川の合流地点、そして、ブルーテント村でした。資本の、国家の、民衆の中心にあって、にもかかわらず、それらのどれからも見捨てられたかにみえる「仮設住宅」は、僕らにどのようなメッセージを発しているのか。今、このことを改めて見つめてみなければならないと感じています。かつてあった災害とこれから起こるであろう災害の間で、引き延ばされた日常としての。

 散策を何度も積み重ねてくると、畢竟(ひっきょう)、外界に対する身体感覚、観察眼が冴えてくるようです。出くわした場の変化やパターンを読み取ることで、他の区域にはみられない特徴を、比較的容易に認識できるようになってくる。その特徴は、見慣れてしまっているがゆえに、かえって見過ごしてしまうものの細部に、ひっそりと存在していることもしばしばです。細部は、地形や地質、気候の影響をより強く受けている場合があります。それゆえ、その場の生態を兆候的に示してもいて、細部の観察から環境全体を理解する端緒が掴める可能性があります。

 けれども、都市空間は公的なものであろうと、そこに佇む人の心理的な動機によっても、異なったものとして立ち現れます。関心や目的が異なると、同じ場所にいても、まるで違う様相を帯びてくる。例えば、渋谷に買い物にやってくる女性や若者と、河川を辿る僕とでは、環境から受け取るものがもとより異なる。ゆえに、認識される都市の全体像、そのイメージはまったく違うものになるというわけです。同じ道を辿っていたのに、違う目的に着くというようなものです。おそらく人の認識には常にその裏側があり、見ることのできない領域が存在する。自分の背中を見ることができないように。

 あの頃、何度も上った友人宅へ向かう坂も、時代の背中だったのかもしれません。夜通し聴いたサウンドの波は、淀みながら細い伏流となって、濃灰色の路地の下を、今も静かに流れています。

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劣化した古い歩道橋の解体と新設される歩道橋工事の同時進行。完成するまで、解体が進んでいない箇所と新設された箇所が一時的にジョイントされ、文字通り歩行者を橋渡ししている。3・11以後、こうした改修工事はいたる所で行われている。

(※注1)田原光泰著『「春の小川」はなぜ消えたか-渋谷川にみる都市河川の歴史』(之潮(コレジオ)フィールド・スタディ文庫/2011)によると、この区域は大雨のたびに氾濫する水害の名所でした。今でこそ水害被害はなくなりましたが、近年まで駅前が水浸しになることは珍しいことではなかった。現在では、地下に幹線や雨水貯留管が設けられ、氾濫することはなくなりました。渋谷川・宇田川の水も普段はそちらを流れており、増水時のみ従来の河川に水が流れてくる仕組みになっています。

 

  

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