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筑紫哲也さんを悼む

ジャーナリスト 柴田鉄治(元朝日新聞論説委員)

しばた・てつじ元朝日新聞記者。東京本社社会部長、科学部長、論説委員を経て現在は科学ジャーナリスト。著書に『新聞記者という仕事』、『科学事件』(岩波新書)、『世界中を「南極」にしよう!』(集英社新書)ほか多数。

 筑紫哲也さんと私は、1959年(昭和34年)に一緒に朝日新聞に入社した同期生です。ちょうど地方選挙の年に当たり、本社での研修はわずか3日間で、それぞれの任地に赴任しました。筑紫さんは宇都宮支局、私は水戸支局と隣り合わせの栃木県、茨城県で新聞記者生活のスタートを切ったわけです。

 私たちが入社した34年組は、入社試験にいわゆる「常識試験」がありませんでした。なぜそうなったのかは知りませんが、これは珍しいことで、このため私たちは「常識がない」とよくいわれました。それを逆手にとって、私たち同期生の会は「非常識の会」と称して、いつも気炎を上げていました。

 私たちの同期生には、本多勝一さん、ワシントン総局長を務めた田中豊さん、ヨーロッパ総局長を務めた和田俊さん、浅井泰範さん、中国総局長を務めた田所竹彦さん、ジャカルタ特派員を務めた荒垣敬さんといった錚々たるジャーナリストがそろっています。みんなユニークな視点を持った個性豊かな記者たちばかりで、私たち同期生が集まると「新聞記者の入社試験に常識試験はいらないのではないか」とよく話し合ったものです。

 筑紫さんは、宇都宮支局のあと盛岡支局を経て東京本社の政治部へ、私は北海道支社をへて社会部へ、それぞれ別の道を歩みましたが、ふたりとも10歳のときに終戦を迎えた「戦中派」で、子ども心に「二度と戦争はごめんだ」と刻んだ戦争体験と平和への思いが新聞記者の原点だったと思います。

 政治部時代の筑紫さんは、もちろん政治記者として日本の政界の仕組みをすみずみまで学んだことがその後のジャーナリスト活動の骨格をつくるうえで大きかったことでしょう。しかし、それ以上にもっと大きかったのは、沖縄との出会いだったのではないかと私は考えています。

 日本復帰前の米国統治下の沖縄は、取材体制としては外国並みで、政治部から記者が特派されていましたが、筑紫さんはその沖縄特派員に選ばれ、沖縄で記者活動を展開しました。このときの沖縄での暮らしが、その後の筑紫さんのジャーナリストとしての活動のすべてに大きな影響をもたらしたことは間違いありません。

 日米関係や安保問題だけでなく、国際政治を読み解く大きな視点を磨いたのも、また、音楽や舞踊など芸能や文化に幅広い関心を抱いたのも、沖縄生活が深く関わっていると私は感じています。そうでなければ、筑紫さんがその後、折に触れて沖縄を取り上げ、沖縄を語りつづけたあの情熱の説明がつかないと思うからです。筑紫さんがいかに沖縄を愛していたか、沖縄の人たちの置かれた状況にいかに強く心を寄せ、そのような状況に追い込んだものに対していかに怒っていたか、その深さには計り知れないものがあります。

 ジャーナリストの仕事は、突き詰めれば「平和と人権を守ること」です。筑紫さんのそのジャーナリスト精神の原点は、戦争体験と沖縄体験でしっかりと築かれたものだと私はみています。その原点は、その後どんな仕事についても、まったく揺らぐことはありませんでした。

 筑紫さんと私が一緒に仕事をしたのは、1971年に130回にわたって朝日新聞に連載された長期大型企画「日本とアメリカ」取材班のときでした。日本とアメリカの関係をそもそもの歴史から説き起こし、日本のあらゆる分野にわたって染み通っているアメリカの影響を根底から掘り起こしたもので、当時、大きな反響を呼んだ連載記事でした。

 一緒に仕事をして、筑紫さんの取材力、構成力、筆力のすごさに舌を巻きましたが、なかでも驚嘆したのは、その筆力です。取材班キャップの松山幸雄さんは、それを見抜いて、各章が終わるごとにおいた「各章のまとめと次章へのつなぎ」をすべて筑紫さんに書かせました。それは、連載記事に深みと彩を与える実に見事なものでした。

 それをそばで見ていて、筑紫さんは将来、「天声人語」の筆者になるのかな、いや、なったらいいな、と私はひそかに思っていました。 筑紫さんのテレビでの活躍が目立ったため、話し上手なテレビ人間のように評する人が少なくありませんが、彼の本質はあくまで新聞記者であり、彼の筆力は、おしゃべりより数段上のものです。彼がテレビに持ち込んだ「多事争論」は、新聞のコラム記事を意識したものであることは間違いなく、テレビ界の「天声人語」だったといえましょう。

 「日本とアメリカ」の長期連載のあと、それを現地に活かしたアメリカ特派員としての活躍も見事でしたが、帰国後、雑誌「朝日ジャーナル」の編集長としての活躍も、なかなかのものでした。新聞は組織の力でつくるものですが、「雑誌は編集長のものだ」とは、よく言われる言葉です。

 それをまさに実証したのが、筑紫ジャーナルでした。「新人類」という流行語をはやらせたり、硬派雑誌にどんどん「文化」を注入したり、と朝日ジャーナルをすっかり衣替えしました。また、朝日ジャーナルの廃刊後は、本多勝一さんが立ち上げた雑誌、週刊「金曜日」の編集委員に最後まで名を連ねたことも特筆していいでしょう。

 最後のテレビ界での活躍とともに、筑紫さんを「新聞・雑誌・テレビの3メディアを制覇した人」という評価がありましたが、それも決して大げさではなく、あたっているように思います。

 筑紫さんの特質をひと言でいえば、その幅の広さと無類のバランス感覚だといえましょう。あれだけ言いたいことをズバズバ言いながら、人から恨みを買わないだけでなく、多くの人から信頼され、また驚くほど多くの友人をもっていたのもその表われだと思います。

 その点でも、筑紫さんは優れたジャーナリストでした。筑紫さんはこれまでにもさまざまな賞を受けていますが、最後にもらった「2008年度日本記者クラブ賞」をとても喜んでいました。それは「テレビ界にジャーナリズムを持ち込み、確立した」という受賞理由がとても嬉しかったようです。

 「真のジャーナリスト、筑紫哲也」を失ったテレビ界は、これからどうなるのでしょうか。筑紫さんが天国でゆっくり休めるよう、テレビ界は、筑紫さんの持ち込んだジャーナリスト精神をしっかり継承していってほしいとあらためて思います。いや、テレビだけでなく、新聞も雑誌も同様です。

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