デスク日誌(1)

070418up

それぞれの墓碑銘

旅の風に吹かれて

 先日、伊豆半島に2泊3日の小さな旅をしました。西伊豆のとある漁村、断崖を縫うように、遊歩道がありました。晴れてはいたけれど、風がとても強い日でした。

 だから、観光客など誰もいない午後でした。

 飛ばされないように帽子を押さえながら、かなり険しい遊歩道を登っていくと、朽ち果てたような墓地が目の前に現れました。崖っぷちにしがみつくように、急な斜面を切り開いた狭い墓地でした。

 もうほとんどお参りする人もなさそうで、雑草が墓石の間に生い茂り、それが風に吹かれてびょうびょうと音をたてています。まるで廃墟のような、寂しくも切ない光景。墓石に彫られた文字も消えかけて、時の流れを感じさせます。それでも懸命に目を凝らせば、なんとか判読できる文字もありました。

 多くは「兵士の墓」でした。

 「陸軍一等卒 山田○○君之墓」とか、「海軍二等兵 安川××墓」などと読み取れました。高さがほんの50センチほどの小さな墓が、ここにはたくさんありました。その数、ざっと10基あまり。そして、そのすべては「兵卒」。将校の墓など、ひとつも見当たりませんでした。

 こんな海辺の田舎からも、あの戦争にたくさんの若者が駆り出されたのです。貧しいけれど逞しい若者たちが、この寒村から、振られる小旗に送られて戦地へ出向いていったのでしょう。

 この小さな村で10人もの、いや多分、もっと多くの若者たちが戦死した。その当時、ここにどれほどの数の人たちが暮らしていたのかは知りません。しかし、10人以上の若者が戦死したということは、ここから出征した兵卒たちが最前線で戦わされたという証しではないでしょうか。

 貧乏な村は、使い捨てにされるような、最も危険な最前線の兵士たちの供給源だったわけです。

農業に夢をかけた若者たちの碑

 東京都多摩市に都立桜ヶ丘公園という、桜がとても美しい公園があります。その桜ヶ丘公園の入り口のすぐそばに、小さな広場のような一角があります。広場の中央には、「拓魂」と刻まれた大きな石碑が建っています。

 これは何でしょうか。碑のそばの「由来書き」を読むと、それが何かが分かります。

 ここは、満州開拓団として戦前に旧満州に渡り、その地で命を落とした人々の鎮魂の場所だったのです。広場と「拓魂の碑」を囲むように、小さな慰霊碑がまるで塀のように170基ほど立ち並んでいます。

 ひとつひとつ、読んでいきます。

 ほとんどが、東北や北陸、九州などの田舎からの開拓団です。「青森○○中隊慰霊碑」とか「長野○○村青年開拓団」などと読めます。東京や大阪などの都会の名前は見当たりませんでした。

 「拓友よ、安らかに眠れ」とか「永遠に、魂よ安かれ」などと彫られた石碑の列。その数の多さに圧倒されます。

 開拓団員たちは、若かったのでしょう。そして、貧しかったのでしょう。彼らのほとんどが小作農家の次男三男たちだったと聞きます。

 彼らは、政府の言葉を信じて疑うことなく、知らぬ間に他国への侵略の尖兵にされて、旧満州へ渡って行ったのです。

 そこでなら自分の土地がもらえる。小作農として地主に年貢米を納めることなく、自らの土地で自分のものとして米を作ることができる。そう希望に燃えて、他国へ出かけて行ったのです。国家が力で奪い取った他人の国へ。

 その結果が、ここに立ち並ぶ慰霊碑の列です。

巨大な墓の住人たち

 私が住んでいる街に、都立霊園があります。巨大な墓地です。静かで、桜が競うように咲いています。染井吉野や枝垂桜、牡丹桜などで、霊園の中の大きな通りは、まるで花のトンネルです。野鳥がたくさん飛び交います。天気のいい日には、野良猫のお昼寝にも出会えます。だからここは、私のお気に入りの散歩コースです。

 その霊園の一等地、入り口からほど近く、最も広い通りの片側に、まるで何かのモニュメントのような、巨大な墓碑が立ち並んでいる場所があります。4~5メートルはあろうかという巨大な碑には、陸軍大将だの海軍大将、それに元帥など、軍事や歴史に疎い人間でも知っているような高名な軍人たちの名前が刻まれています。

 桜の花びらが舞い散る中で、軍人たちの巨大な墓は、誇らしげに春の陽を浴びて、辺りを睥睨しているようです。

 散歩を終えて家に帰ってから調べてみましたが、そこで私が見かけた7名の元帥や大将の中で、実際に戦場に散った人はたったひとりだけでした。あとは、少なくとも戦死ではありません。どのようにして亡くなったのかは分かりませんが、実際の遺骨は戦場にうち捨てられることなく、この墓の下にともかくも安らかに眠っているのでしょう。

 海辺の寒村から出征した兵士たちの骨は、どこに埋もれているか。 旧満州で死んだ開拓青年たちの遺骨は、生まれ故郷に帰れたか。

美しい言葉と本当のこと

 これが、戦争というものの現実だと思うのです。

 貧しい若者たちは、駆り出された戦場や派遣された他国で死ぬ。それを指揮指導した軍や政府の最高幹部たちは、故国で寿命をまっとうする。

 人間の命に軽重などない、というのはごまかしです。戦争という極限状況においては、指揮するものとされるものの命の重さには、鉄亜鈴と綿毛ほどの違いがあるのです。

 「戦後レジームからの脱却」が、安倍首相の最大の政治目標だそうです。彼は美しい言葉を並べますが、要するにそれは、「戦争をもためらわない強い意志を持った国家」を作るということです。

 安倍首相にしろ彼のお友達内閣の閣僚たちにしろ、そして庁から省に昇格した防衛省の幹部たちでさえ、銃をもって戦場に赴くことなどないでしょう。彼ら自身、戦場に立つ自分の姿など想像したこともないはずです。彼らは指揮し命令を下せば、それで役目は終わります。

 たとえ失敗したとしても「遺憾に思」えば、それでおしまい。イラク戦争で、開戦の理由とされた「イラクの大量破壊兵器」は結局、見つかりませんでした。ブッシュ米大統領でさえ「間違っていた」と認めたのに、日本政府は自衛隊派遣の理由付けにした大量破壊兵器を発見できなかったという失敗を、いまだに認めようとしません。

 こういう人に「戦後レジームからの脱却」なんか、してほしくない。

 「現代戦はハイテク技術の戦いである。コンピュータ制御されたハイテク武器で戦われるから、実際の遭遇接近戦などはほとんどありえない」などと、軍事通を自認する政治家や評論家などが、訳知り顔に言います。

 しかし、そんなことは、ない。

 いかにハイテク化された現代戦とはいえ、実際の戦場には、やはり血なまぐさい爆風が吹き荒れているのです。

 ハイテク化軍隊の見本のような世界最強のアメリカ軍が、イラクの地でどれほど血まみれになって戦っているか。そして、イギリス軍を含めイラク侵攻の「多国籍軍」がすでに4千名を超える戦死者を出し、1万名を遥かに超す再起不能の負傷者被害を出してしまっていることを考えてみれば、多くの言葉は必要ないでしょう。

 戦争を煽るのは、みずからは先頭に立たない人間です。 前線で斃れるのは、かつてと同じように、やはり貧しい若者たちです。

(小和田志郎)

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