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デスク日誌(6)

070523up

犯罪と空気

 またしても、17歳の少年の犯罪。母親の頭部を切断、これを持参して自首したというから、背筋が寒くなる。

 マスメディアはまたしても、一斉に「少年の心の闇」報道。分からぬことは、すべて「闇の中」なのだ。それにしても、なぜこんな不気味な事件が起こるのだろうか。それは、個人の「心の闇」で片付く問題なのだろうか。

 気になることがある。

 少年が語ったとされるフレーズの中に、しきりと「戦争」ということばが出てくることだ。

 「戦争が起きないから、人を殺した」とか「戦争なら人を殺してもかまわない」などと発言した、と報道されている。情報が錯綜しているので、本当のところは良く分からないが、しかし「戦争」という言葉をこの少年がしきりに口にしていることだけは確かなようだ。

 それは、何を意味するのか。

遠い昔の少年

 自分のことを思い出す。

 ずいぶん昔のことになってしまうが、私が高校生だったころのことだ。

 登校前にチラリと目にした新聞に、大きな見出しが躍っていた。

 「ソ連、核実験再開、最大級の核爆発」というような見出しだったと記憶している。なんだか、心に穴があいたような気持ちだった。

 私が通っていた高校は市の郊外の高台にあった。教室の窓から、遠く東北の山並みが見渡せた。とても天気のいい日だった。薄く雪の残った山が、陽にきらめいていた。

 私は、まったく授業を受ける気がしなかった。

「どうせ、もうすぐ世界は放射能汚染で滅びるんだ。こんな授業を受けていて、なんになる。意味なんかない」

 地学の授業時間だったという記憶が、なぜか鮮明に残っている。教室の窓から、私は呆然と真っ青な東北の空とはるかに霞む山脈を眺めていた。何も、一切何もする気になれなかった。

 それからしばらく、私はほとんど物言わぬ少年になった。

 惰性で学校には通っていたけれど、薄っぺらなカバンを抱えて、ただ弁当を食べるためにだけ登校する陰気な少年だった。当然、親も担任も心配をしてくれた。理由も聞かれた。だけど、少年だった私に何が言えただろう。

 「ソ連の核実験が恐ろしくて、何も手につかないんです」などと言えるはずもない。それこそ、心に「暗い闇」を抱えて、陰気に黙り込むしかなかったのだ。

 いまなら、なんとなく分かる。

 それは、「自分ではどうにもできない死」に対する恐れと、どうあがいてもそこから逃れられないことからくる、とてつもなく大きな虚無感だったのだ。

 放射能が降ってくる。いま自分が吸っている空気が、やがて自分を殺す。それを防ぐ方法はない。どうあがいても避けられない。少年に根づいてしまったコントロール不能の感情。

 福島の少年に、そんな感情はなかっただろうか。

 同世代の女性の友人と、話をした。

 すると彼女も、私とほとんど同じ経験を持っていたという。

 「もう死んでもいいと思ってた。というより、否応なく死ぬしかない、と思い込んでいたの」

 彼女の場合、それは「キューバ危機」だったという。

 キューバに配置されたソ連の核兵器をめぐって、当時のアメリカとソ連が一触即発の危機をむかえていたのだ。それはまさに核戦争の瀬戸際、どちらかの指がポンッとボタンを押してしまえば、それで世界は終わり。核の冬が地球を覆う。

 勝者などいない。発射した側も対抗して撃ち返した側も、そしてその両国に無関係な地球上のすべての人間が、いや、人間を含むあらゆる生物が、一瞬にして消える。

 彼女はそれから、私と同じように、陰気な少女になったのだという。ひたすら、川の岸辺を一人で歩くだけの、表情を失くした少女。

不条理な死

 あのころ、同じような経験をした少年少女がずいぶんいたはずだ。今で言う「ひきこもり」に近いような状態に陥った私だから、当時、友人とそんな話をした記憶はまるでない。でも、あのころ、青白い顔をして本にばかりすがっているような若者たちが多かったという記憶だけはある。

 今の時代にだって、そんな少年や少女は存在するはずだ。

何か分からない穴底に落ち込んでしまった自分を、なんとか元の場所へ押し上げようとする努力。しかし、「自分にはどうにも解決できない恐怖」が、もっと深い穴へ引きずり込もうとする。

 少し感受性の強い少年や少女なら、「自分ではどうにもできない不条理な死」に怯えるのは、当然のような気がする。その最も代表的な「不条理な死」こそ、戦争なのだと思う。

 個人では避けようもない死。

 少し前までなら、戦争という言葉にリアリティはなかった。少なくとも、この日本では、戦争などは海を隔てた別世界での出来事としか受け取られていなかった。

 しかし、今はどうか?

 この国を、きな臭い言論が覆ってはいないか。

 憲法を変えて正式に軍隊を持つ。防衛庁が防衛省になりやがて国防省と名を変えようとする。集団的自衛権の行使を認めようとする。さらには核武装論までもが大手を振って跋扈する。高校ではボランティア活動が正式導入される。いずれそれが、軍事訓練にならないという保証はない。

戦争の影

 少年は17歳だった。

 戦争の臭いがする。それは、少年である自分に圧倒的リアリティを持って迫ってくる。もしこのまま世の中が進めば、いずれ自分は戦争に駆り出されるだろう。選挙権も何もなく、政治に参加する術を持たない自分は、自らの意志とは無関係に、一方的に戦場へ送られる。

 少年が、もしこのように考えたとしたらどうだろう。このどうしようもない思考の連鎖から逃れる術など、少年にはない。

 だとすれば、何をしてもいい。殺されるより先に殺したとて、何の罪があるだろうか。戦争が起きれば、自分が戦争に行かされれば、殺すことが正義ではないか。

 そのように少年の中で論理が組み立てられたとしても、不思議ではない。

 私には心理学の知識などない。ここに書いたことがあたっている、と言うつもりはない。犯罪をすべて、社会のせいにするつもりもない。けれど、世を覆い始めた不穏な空気に、この少年がまったく無縁だったとは、誰にも言えないのではないか。

 少なくとも、この数年の政治の進み行きや、社会に広がりつつある「ある種の気配」が、この少年のまだ柔らかかった神経を、そうとうに毛羽立たせてしまったような気がしてならないのだ。

 私たちには理解不能な少年犯罪が、これからも頻発するのかもしれない。

(小和田志郎)

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