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デスク日誌(15)

070801up

小田実さんのこと

 安倍自民党、歴史的惨敗。どのメディアも、参院選報道一色です。

 小田実さんが、癌のため亡くなりました。75歳でした。安倍惨敗の翌日、7月30日のことでした。

 小田さんは、その参院選安倍惨敗のニュースを知っていたでしょうか。

 あれほど9条のために頑張っていた方です。その9条をぶち壊そうとする安倍晋三氏とは、むろん対極に位置していました。

 9条破壊を目論む者の無残な敗北と、それによって憲法改定への道がやや遠ざかったことを、せめて知っていてほしかった、せめて。

 その知らせを聞いて、ほんの少しでも安心して、ゆっくりと旅立ってほしかった。強く強くそう思うのです。

 私は、仕事上で、小田さんに何度かお目にかかったことがありました。お会いする場所は、神田の学士会館が多かった記憶があります。

 大きな体と、野太くとおる声を持った方でした。少し三白眼の鋭い目でギロリと見つめられると、こちらの胸の底まで見透かされるような気になったものです。嘘やおべんちゃらは、到底通じそうもない。

 しかし、厳しく冷たいかといえば、まったくそんなことはない。がはははは、と腹の底に響くような声で笑い、かなり柔らかな関西弁でジョークも連発しました。

 市民運動などに対しては、痛烈な批判もするけれど、いつも温かな視線を持っていました。

 あるとき小田さんは、私の後輩の編集者に、こんなことを言いました。 「あんたなあ、ええ年してまだ独身なんやろ。ええのがおるんや。どや、会うてみんかね?」

 「えっ? ぼくが、ですか?」

 突然そんなことを言われた独身後輩、目をシロクロ。

 で、もう時効だからバラしてもいいでしょうが、この「ええの」とは、当時まだ国会議員にはなっていなかった、辻元清美さんのことだったようです。

 この「お見合い」は、結局、実現しませんでした。小田さん一流のジョークだったのでしょうか。それとも、可愛がっていた若い編集者への、愛のあるからかいだったのでしょうか。

 辻元さんは、このころ「ピースボート」を立ち上げ、船で世界の戦争や紛争の跡地を回ってほんとうの姿に接し、その上で平和について考えよう、というまことにユニークな運動を展開していた、ジャリン子チエのような元気な女性でした。

 むろん、こんな話がされていたということを、辻元さんは知らないはずですし、小田さんもどこまで本気だったのかは分かりません。でも、そんな元気でユニークな市民活動をしている女性を温かく見守っていたことだけは、確かです。優しい人だったのです。

 いまから、もう20年以上も前のエピソードです。

 一方で、権力に対しては、凄まじいほどの闘いを挑む人でした。

 『何でも見てやろう』を書いてベストセラーになり、ベ平連を立ち上げてアメリカと日本の政策に真っ向から歯向かった、というようなことは、もう多くの報道でみなさんもご存知でしょう。

 そして、まるで最後の闘い、真っ向勝負をしかけるように、「九条の会」を大江健三郎さんや井上ひさしさんたちと立ち上げて、改憲権力の小泉首相や安倍政権にNO!を突きつけたのです。

 ほんとうの市民運動のあり方を私たちに示すことで、自らの最後の闘いを、遺言として残してくれたような気がして仕方ありません。

 私たちの「マガジン9条」は、小田さんたちの起こした壮大なムーブメント「九条の会」とは、直接のかかわりはありませんし、連絡もありません。

 でも、私たちも、勝手に連帯することで、なんとか9条改憲を阻止したいと願っています。

 それが、一足先に旅立った小田実さんへの、私たちなりの追悼の意志表示です。

 そして、冒頭に書いたように、せめて小田さんが、安倍惨敗によって憲法改定が少しではあるけれど遠のいたことを知って旅立たれたのだと、私は思いたい。

 むろん、それが少しの期間だけであってはいけません。ずうーっとずうーっと、憲法9条が生き続けるように、私たちもできる闘いを続けていかなければならないのです。

 小田さんのご葬儀は、8月4日、東京都港区南青山の青山葬儀所で行われるとのことです。

 私も、時間を作って、片隅から手を合わせたいと思っています。

(小和田志郎)

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