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この人に聞きたい
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天野祐吉さんに聞いた その2

日本国憲法は国を表現する「広告」だ
雑誌『広告批評』で、去年から2度にわたって掲載された、日本国憲法に関する特集記事。
一見あまりつながりのなさそうに思える「広告」と「憲法」が、
どんなふうに関わり合ってくるのか。
元『広告批評』の発行人でもある天野さんにお聞きしました。
天野祐吉さん
あまの・ゆうきち
コラムニスト・編集者。東京都出身。
出版社や広告代理店勤務を経て、マドラ出版を設立し、1979年に雑誌『広告批評』を創刊。
朝日新聞連載の「CM天気図」など、広告・マスコミなどを題材としたコラムで活躍。
『私説 広告五千年史』(新潮選書)『天野祐吉のことばの原っぱ』(まどか出版)など
多数の著書があるほか、絵本なども執筆。
憲法のことを、井戸端会議のように話そう
編集部 天野さんが創刊された雑誌『広告批評』では、昨年、今年と、2度にわたって「日本国憲法」をテーマとした特集を組まれていましたね。2005年の2・3月号では、憲法改定などに関する68人アンケート。そして2006年1月号では、「憲法前文」をテーマに、65人の方が文章や写真、イラストなどを寄せられていました。

 いずれもほぼ1冊丸々を使って、しかも大勢のクリエイターが参加されての特集ということで、とても新鮮な驚きだったのですが、あれはどういう経緯で立ち上がった特集だったのですか?
天野 企画を出したのは現編集長の島森路子で、僕はその相談に乗っただけなのですが、まず僕らが考えたのは「憲法というのはその国の広告だ」ということなんです。
編集部 憲法が広告?
天野 そう。9条なんて最大の広告ですよ。だって、日本ってどういう国ですか、と外国の人に聞かれたときに、昔は「フジヤマ・ゲイシャの国」だったのかもしれないけど、富士山はともかく、もう「ゲイシャ」を売りにする時代でもないでしょう。「戦争を放棄した憲法を持つ国です」というのが一番わかりやすいんですよ。そんな国、日本のほかにはもう一国しかないわけだから。

 特に前文は、日本という国はこういう国ですということを端的に広告する、見事なコピーになっている。
編集部 現在出されている憲法改定案では、その「コピー」も変えられようとしているわけですが…。
天野 そう。そこで、どっちのコピーがいい? という発想ですよ。自民党案のコピーはあまりにもぽきぽきしていて、これじゃ世界の人に日本人って文学的センスに欠けると思われるんじゃないかとか、あるいは中曽根さんが考えた前文=コピーはやや情緒的すぎるから、もうちょっと即物的に行ったほうがいいんじゃないかとか、そういうふうに見ていくと、どうでしょうか。

 そんなふうに、憲法のことを広告みたいに考えて、みんなで気楽にいい悪いと言い合おうじゃないかというのが、あの特集のスタンスなんですね。あまり専門的な論議はしたくないし、僕らにはできない。それよりも、憲法という広告はどこがいいのか、悪いのか、9条という「売り」があったほうがいいんじゃないか、なくしたほうがいいんじゃないか。そんなふうにみんなでわいわいと語り合いたいと。憲法学者とか一部の人だけが寄り集まって、難しい言葉を使ってやってるような議論じゃ、一般の人たちはわからないし、ついて来ない。もっと井戸端会議みたいに、気楽に話そうということです。

 特集として9条を取り上げてはいても、徹底的に「反対」を掲げたりしているわけではないのは、だからなんです。
たくさんの人に「届く」言葉を見つけていこう
天野 でも、こういう特集をやると、本はやっぱり売れないですね。ここまである意味下世話な、わかりやすい形にしても、憲法とか戦争がテーマだというだけで売り上げは落ちるんです。  そうなると、やっぱり日本人はこういう問題に対する意識が低いんだとも思う反面、そうじゃないんだとも思う。興味を持っていない人たちに届く言葉を、我々はまだ見つけていないんだと反省もしているんです。

 「日本人の意識が低いんだ」「読者のレベルが低いんだ」と人に責任を押しつけちゃうのは簡単。でも本当は、レベルが低いのは僕らなのかもしれないんですよね。たくさんの人たちに届く言葉でこういう問題を話せない、話す力がないということなんだから。
編集部 たしかに『マガジン9条』も、だんだん専門化してくると、ある意味ちょっとマニア向けのような(笑)サイトになっているのでは、と心配な部分もあります。そこを打破して、本当に井戸端会議のように憲法のことを話していく、広げていくためにはどうしたらいいんだろうかと思いますね。
天野 それは本当に難しいよね。とにかく、それぞれがそれぞれの場で「届く」言葉を見つけていくために、めげずにいろいろやってみるしかないんだろうけれど。
編集部 そう思います。ただ、今の日本の状況を見ていると、たとえば「北朝鮮の脅威があるから、軍備を持たないと危ない」という言葉のほうが、「憲法9条を守って平和を築こう」という言葉よりも、「届いて」いるんじゃないかと思うことがあるんです。それについてはどう思われますか?
天野 それはそうですよ。まず、「北朝鮮からミサイルがいつ飛んでくるかわからない」はセンセーショナルだし怖いからニュースになるし「届く」けど、「そんなものはまず飛んでこない」というのはニュースにはならない。

 それから、広告にはどんなものでも、「こういう商品を買うとこういう極楽が手に入りますよ」というのと、「買わないとこんな地獄が来ますよ」というのを見せるのと、二通りのやり方があるんです。どちらが効果的かというと、圧倒的に後者。保険のCMだって、「保険に入っていればこんなに安心」というより、「入っていないとこんなひどい目に遭います」のほうが絶対に効く。憲法の問題でいえば、「改正しないとこんなひどいことになるよ」というほうが、「憲法を守ればこんな平和な日々が続きます」というより、ずっと効果的なんです。

 もちろん、「憲法を変えると徴兵制の復活につながる」とか、そういう表現を使う手もあるけど、「憲法を変えないと北朝鮮の脅威があって大変だ」というのに比べると、どこか遠い感じがしてしまいますよね。
編集部 そうなると、「憲法を守ろう」というのは、伝えようとする内容の時点でかなり不利だということに…。
天野 なりますね。
編集部 それを踏まえた上で、どう「届く」言葉を見つけていくかということでしょうか。
天野 そう。どうやったら「届く」言葉を自分が持てるか。話している中身は同じでも、それがちゃんとみんなに届く言葉になっているかどうか。そうして、絶えず自分の言葉を検証していく必要があるんじゃないでしょうか。
この憲法を失ってしまったら、死んでいった人たちに顔向けできない
編集部 『広告批評』の特集のほかにも、天野さんは折にふれて、憲法9条をなくしたくないという主旨のご発言をされています。ご自身の9条への思い、考え方を、最後に改めて聞かせていただけますか。
天野 まず、よく「憲法が時代に合わなくなったから変えるべきだ」という人がいるけれど、僕は憲法9条の考え方というのは時代に関係ない、時代を超越していると思っているんですよ。それを時代に合わないというのは、非常な言語矛盾だと思う。

 たしかに、戦後に憲法ができたばかりのときは時代のほうが追いついてなかったから、物語だ、理想論だと誰もが思いましたよ。だけどその後は、むしろ世の中が憲法にどんどん追いついてきているという実感を僕は持っているんです。
編集部 それはなぜでしょうか?
天野 良くも悪くもテレビの影響だと思います。テレビというのはある意味、ナショナリズムとか愛国心とかをぶち壊す働きを持っているんです。

 テレビ時代になってわかったのは、国境というものの無意味さですよ。宇宙から地球を見てみたら、地図上にある国境なんていう赤い線はどこにもない。それがいかに虚構、人間の手でつくられたものだったかということが、それによってバレバレになってしまった。

 あるいは、ベルリンの壁。まだ壁があった時代、新聞は壁を越えられなかったけど、テレビの電波はどんどん壁を越えていって、東ベルリンの人たちは西ベルリンの放送をちゃんと見ていた。そうしたら、みんな派手な格好をして、甘いものを食べたりして騒いでる。当然、あっちの自由な空気のほうがいいと思うでしょう。そういった思いが、ベルリンの壁を壊したんですよ。ある意味で、壁を壊したのはゴルバチョフでもベルリンの市民でもなく、テレビだとも言えるかもしれない。

 そういう動きに追い打ちをかけているのがインターネットですよね。ネットを通じての人のつながりは、人種や国籍を超えていっている。僕は戦争中、本当に「鬼畜米英」を信じていて、アメリカ人やイギリス人は人間じゃないと信じていたけど、これだけ地球が一つの情報の海になると、そんなことを信じるやつは今時いるはずがない。

 ヨーロッパをはじめとして、国境はどんどん低くなっている。もちろん、さまざまな問題がないわけではないけれども、全体的な動きとしてはそうです。そういう時代になったからこそ、憲法9条の言っていることは本当に現実味を帯びてきていると思う。そのどこが時代に合わないんだという気がするわけです。
編集部 むしろ、今の時代にこそ合っているというべきなのかもしれませんね。
天野 それからもう一つ。僕は終戦のとき、小学校6年生だったんです。僕の家も戦争でむちゃくちゃになりました。近所の人も空襲で何人も亡くなって、隅田川に死体が浮かんでいたりした。

 戦争が終わって今の憲法ができたとき、僕の頭にあったのはそういうことなんです。広島で何十万人が死んだとか、そういう象徴的なことではなくて、うちの隣の石川のおばさんが焼夷弾をくらって死んだとか、自分が実際に目の当たりにしたこと。石川のおばさんは何も悪いことをしていないのに、ある日突然殺されてしまった。あるいは、近所の人もいっぱい兵隊にとられて、「お骨です」といって返ってきた箱を開けてみたら石ころが一つ入っていた。そういう死んでいったたくさんの人たちへの償いとして、もしくはその人たちが身体で、血で代償を払ってくれたものとしてこの平和憲法があるんだなと、素直に感じたんですよ。だから、憲法9条を変えるなんてことになってしまったら、あの人たちに――石川のおばさんに顔向けできない。

 僕にとっては、9条はある意味で自分の、日本人としてのアイデンティティみたいなもの。これが失われてしまったら、どこで日本人としての心の居場所を見つければいいんだろうと思う。9条を変えようとする動きに反対するのは、だからなんです。
私たちの憲法のことを、もっと気軽に誰もが語れる存在に。
そのためには、もっともっとたくさんの人たちに「届く」言葉を、
私たち一人ひとりが見つけていきたいと思います。
天野さん、ありがとうございました。
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