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この人に聞きたい
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雨宮処凛さんに聞いた その2

際限なき軍拡競争にストップを!
HIVウイルスに汚染された輸入血液製剤によって、
2000人ともいわれる人々がHIVに感染することとなった「薬害エイズ」事件。
10代のとき、国と製薬会社の責任を問う「東京HIV訴訟」の原告団に加わり、
実名公表にも踏み切った川田龍平さん。
その経緯を振り返りながら、「憲法」についての考えをお聞きしました。
川田龍平さん
かわだ りゅうへい 東京都出身。
生後6カ月のときに血友病の診断を受け、
治療のための輸入血液製剤投与によりHIVに感染。
10歳で母親から感染を告知される。 高校3年生だった1993年、
東京HIV訴訟の原告団に加わり、95年実名公表。
現在は松本大学非常勤講師、「人権アクティビストの会」代表を務める。
主な著書に『龍平の現在(いま)』(三省堂)
『薬害エイズ原告からの手紙』(共著、三省堂)など。
日本国憲法がなければ、HIV訴訟の裁判は起こせなかった
編集部 いわゆる「薬害エイズ事件(注1)」において、川田さんも原告の一員として闘われた「東京HIV訴訟」では、HIV感染の危険を知りながら輸入血液製剤の使用を認めていた国、そして製薬企業の責任が追及されました。この裁判について、川田さんは「日本国憲法があったからこそ、自分たちのような弱者でも国や大企業を相手に闘えた」と発言されていますね。
川田 そうです。この裁判自体が基本的に、憲法13条(注2)の幸福追求権、それから25条(注3)の生存権のような、憲法で保障された権利というものを根拠にしていたわけですから。そもそも今の憲法のもとでなければ、裁判を起こすことはできなかったんじゃないかと思います。
編集部 川田さんが東京HIV訴訟の原告団に加わられたのは高校生のときですが、その経緯について教えていただけますか。
川田 薬害エイズ事件に関する裁判自体は、僕が中学生のときから始まっていました。でも、当時は自分にとってはあまり関係ないものだ、と考えていて。10歳のときに母親からHIV感染の告知を受けていましたから、そんな裁判をやったところで、自分はどうせ長く生きられないんだし意味がない、と思っていたんです。

それから、未成年者が裁判をする場合には、親権者の同意が必要になります。親が同意しなければ、裁判の原告になれなかった。僕の場合、母親は裁判で責任を追及して争うべきだという立場でしたが、父親は「そんな裁判をやっても勝てないからやらないほうがいい」という意見だったんです。「日本は三権分立だと学校では教えられるけれど、実際にはそうじゃない。国を相手に裁判をして、地方裁判所や高等裁判所で勝ったとしても、最高裁まで行ったら必ず負ける」と言っていました。実際、水俣病や薬害スモン病など、それまでの公害・薬害裁判は、最高裁まで行っても負けるということが繰り返されていたんです。父親はそれを知っていたこともあって、裁判に乗り気ではなかったんですね。

父親と母親の意見がそうして分かれたまま、結局僕は中学時代は原告に参加しませんでした。両親がそれについて家で議論をしていても、「自分は関係ない」という立場をとり続けていたんです。

けれど、高校生になったとき、僕が家で何気なく「何をやったって無駄なんだ」という言葉を吐いたことがあったんですね。母親はそれを聞いて、親が裁判をやらずにあきらめた姿勢を見せていることが、僕にそんな言葉を言わせているんじゃないかと思ったらしいんです。そして、これは反対する父親と別れてでも裁判をしなければならないと考えたようで、離婚を決意した上で「裁判をやるか」と僕本人に聞いてきた。僕も「やりたい」と言って、それで高校3年生で裁判に加わることになったんです。
編集部 「自分には関係ない」と思っていた裁判を「やりたい」という気持ちになったのには、何か関心を持ち始めるきっかけのようなものがあったのでしょうか?
川田 一つは、高校生になってから、ジャーナリストの広河隆一さんが薬害エイズや裁判について取材した『日本のエイズ』(注4)という本を読んだことです。その中で、自分がなぜHIVに感染したのかということを具体的に知っていくと、やっぱり悔しい、許せないという気持ちになってきた。

それから、高校の公民の授業の中で、「朝日訴訟
(注5)」について習ったんですね。生活保護をめぐり、人間として生きるための最低限の権利を求めて争った裁判で、結局原告敗訴のまま、朝日さんが亡くなったことで裁判は終わってしまうんだけれども、その裁判がきっかけになって、日本の生活保護制度は見直されて良くなったんだ、と教わった。それで、自分の裁判も、単に自分のためだけではなくて、社会にとってすごく大きな影響を与える裁判なんじゃないかと思うようになったんです。


注1 薬害エイズ事件…1970年代後半から1980年代にかけて、HIVウイルスに汚染された非加熱処理の輸入血液製剤が血友病患者の治療などの際に使用され、多くのHIV感染者を生み出した事件。海外で多数の感染例が報告され、安全な加熱処理の血液製剤が開発された後も、医療関係者や製薬会社は危険性を認識しながら非加熱製剤を輸入・使用。国も輸入禁止などの措置をとらなかったため、被害は拡大し続けた。
1989年には東京と大阪で、国と製薬会社の責任を問う民事訴訟が始まり、1996年に和解が成立。また、1996年からは医師や厚生省役人、製薬会社役員などを被告とする刑事裁判も行われ、一部に有罪判決が出た。

注2 日本国憲法第13条「すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする」

注3 日本国憲法第25条「すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」

注4 『日本のエイズ――薬害の犠牲者たち』(広河隆一著、徳間書店)

注5 朝日訴訟…1957年、重度の結核で岡山の療養所に長期入院中であった朝日茂さんが、当時の生活保護法による保護水準はあまりにも低く、憲法25条の「健康で文化的な生活を営む権利」を侵害しているとして提訴した事件。東京地裁では勝訴判決が出たものの、高裁で逆転敗訴。上告後、朝日さんの死去により訴訟終結とされたが、生活保護基準を見直す契機となるなど、日本の社会保障制度に大きな影響を与えた。
薬害エイズの問題は、今も終わっていない
編集部 東京HIV訴訟は1995年に結審し、翌年に和解が成立しましたね。国や製薬会社の責任が全面的に認められるなど、「実質原告勝訴」とされていますが、この結果に対してどう感じられましたか? 裁判の根拠となった憲法の理念は、十分に果たされたといえるものであったのでしょうか。
川田 日本国憲法の理念がなければ、弱者である僕たちが国を相手どり、7年という長期に渡って裁判を闘うことはできなかったでしょう。しかし十分に果たされたかというと、それはいえないと思います。僕たちが裁判を通じて求めてきたのは、まず、何が悪くてどこに責任があるのかを明らかにすること、つまり真相の解明と責任の明確化。それから、責任をとるべき人に、心からの謝罪をしてほしいということ。この2点でした。しかし、和解の結果は、この二つの目標が本当に果たされたとはいえないものだったんです。
編集部 どういうことでしょうか。
川田 一つめの真相の解明については、裁判の結審までの間、国はほとんど資料を出してきませんでした。結審の後に菅直人厚生大臣(当時)が内部調査を命じたことで何冊かのファイルが出てきたりもしたのですが、とても全部とはいえません。さらに、刑事裁判が始まったあとは、「検察が押収していったから資料は出せない」と言われました。和解確認書には「国や製薬企業は真相解明に努力する」という一文があるんですが、それはいまだに実現していないんですよ。

二つめの「謝罪」という言葉を和解確認書の中に組み込みたいという希望も通らず、結局「お詫び」という言葉で終わってしまった。僕はまったく納得できなくて、確認書を取り交わす前の日の晩にも裁判長のところまで行って直接訴えたんですが、そのとき言われたのは「謝罪もお詫びも同じ意味なんだからいいじゃないですか」という言葉でした。同じ意味だというんなら謝罪でいいじゃないかとも思ったけれど、そうはならなかった。

弁護士からも、「今までは“遺憾の意”という言葉が使われていた。それに比べれば“お詫び”という言葉になって一歩前進したんだから、いいじゃないか」と言われました。確かにそうなんだけれども、僕たちが求めてきたのは、心からの謝罪。ただのお詫び、ただ頭を下げられることではなくて、誰に責任があるのかを明らかにした上で、本当にその罪を、自分のしたことが間違いだったということを認めて謝罪してもらうということだったはずなんです。それを単に頭を下げて終わりというような「お詫び」という言葉で終わらせてしまったことについては、いまだに納得ができていない。
その意味でも、今でも薬害エイズの問題は終わっていない、憲法の理念が十分に活かされたとはいえないと思っています。
編集部 最後まで、責任の所在は完全に明らかにはならなかったわけですね。
責任があいまいにされ、事実そのものもあいまいにされていく
編集部 川田さんはその後ドイツに留学されていますが、それはひとつには過去の戦争に対しての「責任」のあり方について研究したかったからだとお聞きしました。実際にドイツに行かれて、その点について日本との違いをどう感じられましたか。
川田 やはり、戦争責任における日本とドイツの違いというのは、ドイツは戦争の最高責任者であったヒトラー、そしてナチスについて徹底的に責任追及を行ったけれども、日本の場合は「一億総ざんげ」で、天皇制は占領機構によって残されたし、責任をとるべき人たちがとらないままに終わってしまったということ。731部隊をはじめさまざまなところで免責された人たちがいて、しかも戦犯であるはずの彼らがその後の政治を担い、中には首相にまでなった人がいた。そういう違いがあると思います。

戦争にしても薬害エイズにしても、日本社会においては、責任の問題がずっとあいまいにされて、責任をとるべき人がとっていないという図式がずっと続いてきていると思います。責任があいまいにされ、結果として事実そのものもあいまいにされていく。その繰り返しではないでしょうか。
編集部 例えば、最近のマンションの耐震強度偽装問題を見ても、それと同じ図式があるように思います。どうしてそういうことが続いてきてしまったのだと思われますか?
川田 薬害エイズの問題においても、僕がずっと指摘してきたのは社会構造全体の問題なんです。国と製薬企業が天下りという関係でつながっていて、製薬企業と医者はリベートを通じてつながっている。さらに、官僚の中には政治家に転身する人がたくさんいて、彼らはいわゆる族議員になって、企業からのお金を受け取ることになる。一方、医者は審議会の委員になったりして行政の中にも入っていくし、医師会などから政治家への献金も行われる。官僚と業界、そして政治家の癒着のそういった構造は、薬害エイズ事件が起こった当時も今も、まったく変わっていないと思います。その中で、常に責任の所在はなすりつけ合いになったり、あいまいにされたりしてきているんです。
あともう一つ、耐震偽装の問題でも、それからJR西日本の列車事故の問題でも、共通しているのは人の命よりもお金や利益が優先されているということ。そういう考え方の社会が薬害エイズをつくり出し、マンションの耐震偽装や列車事故を引き起こしたんだと思うのです。

戦争の問題についても、まったく同じ構造があると思います。人の命よりも利益、お金が優先されているということも、防衛施設庁と業界と政治家、三者の癒着構造が成り立っているということも。そういった構造自体にこれまでメスが入れられてこなかったから、問題が本当に解決されることはないまま、同じことばかりが繰り返されてきたのではないでしょうか。
つづく・・・
 身をもって憲法の理念を体感した川田さんが考える憲法9条のこと、
そして9条を守るだけではなく、活かす未来について、引き続きお聞きします。
ご意見募集!

ぜひ、ご意見、ご感想をお寄せください。

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