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この人に聞きたい

080611up

小室等さんに聞いた(その1)

フォークソングと反戦運動の間で

日本に、フォークソングをいち早く紹介し、
フォークブームの礎をつくった小室等さん。
アメリカ音楽との出会いや、当時の心情などを語っていただきました。

こむろ・ひとし
1943年東京生まれ、フォークグループ「PPMフォロワーズ」「六文銭」を経てソロに。1975年泉谷しげる、井上陽水、吉田拓郎と「フォーライフレコード」を設立する。これまで、谷川俊太郎ら多くの詩人、アーティストと組んだ音楽活動を続けると共に、ドラマ、映画、演劇へ音楽を提供する。著書に『人生を肯定するもの、それが音楽』(岩波新書)がある。「マガジン9条」発起人の一人。

リスクのないところから、
「戦争反対」を言うことに、自己嫌悪していた

編集部

 今日はお久しぶりです。実は私、小室さんが30歳の時に開いた誕生日のパーティライブに行ってるんですよ。私は、小室さんより2歳年下なだけなのに失礼にも「小室等が30だなんて、もうおじさんの域に入ったなあ」と思ったことを覚えています。今から考えると、30なんて全然若いんですけれど・・・。

小室

 まさか60過ぎても、自分が歌っているなんて、当時はまったく想像していないことでした。

編集部

 でも小室さんは、髪の毛が白くなったというぐらいで、印象は変わっていませんね。

小室

 あらかじめ老けてましたからね(笑)

編集部

 いえいえ、小室さんは、この世界では代え難い存在の人です。若い読者のために、小室さんの経歴について、少しお伺いします。最初の音楽活動は・・・?

小室

 高校生の時、同級生たちと“キングストン・トリオ”(*)のコピーバンドをやっていました。フォークソングには、いち早く取り組んでいましたね。あの当時、まだあまり他の人たちはやっていなかったと思います。で、高校卒業するからこれでバンドは終わり、じゃあね、って感じで、一応そこで解散。
 卒業後僕は、多摩美(多摩美術大学)に入りますが、米軍向けのラジオ放送、FENをいつも聞いていて、そこで“ピーター・ポール&マリー”(*)の「レモンツゥリー」が聞こえてきたわけですよ。なんだこれ、っと思ってね。レモンツゥリーは、よく知っていた曲でしたが、とっても新鮮でして、すぐに銀座の「ハンター」にレコードを探しにいったらあった。聞いたら、「おおっ、こりゃ学校に行っている場合じゃない」と、すぐに高校時代のバンド仲間に声をかけて集まってもらった。それが“PPMフォロワーズ”の結成になるわけです。

*キングストン・トリオ…1958年にデビューしたアメリカのフォークグループ。シングル「Tom Dooley」は100万枚以上の売上げを記録し、フォークソングとして初めて全米1位となった。

*ピーター・ポール&マリー…ピーター・ヤーロウ、ノエル・ポール・ストゥーキー、メアリー・トラヴァースの3人によって結成されたアメリカのフォークグループ。「天使のハンマー」「風に吹かれて」などのメッセージソングをヒットさせ、1960年代の公民権運動、ベトナム反戦運動の象徴的な存在になった。1970年に解散したがのちに再結成され、現在も活動を続けている。

編集部

 61年頃ですね。僕なんかも世代的に聞いていた方ですが、ピーター・ポール&マリー(PP&M)は、いわゆるベトナム反戦のグループ、シンガーとして日本に紹介されましたね。

小室

  ええ、そうです。

編集部

 小室さんたちがやってきたのは、その流れだとみているのですが、いわゆる反戦運動からは、小室さんは若干距離を置いていたように見えたのですが、それは、どうしてだったんでしょうか?

小室

 もともとがPP&Mの音楽やスタイルに “かっこいい”というだけで飛びついたので、そのかっこいいものと同化することがよろこびだったのです。ところが歌っているうちに、PP&Mの「風に吹かれて」が、大ヒットする。この歌の大ヒットによって、ボブ・ディランが紹介されたといってもいいほどね。ジョーン・バエズもそうでしたよね。PP&Mの歌には、「時代は変わるよ」とか、たくさんのディランの歌がある。それがことごとく、かっこいい。どうやら歌詞もそれまでのラブソングではない。メッセージ性がある。で刺激を受けるわけです。あの人たちは、ただかっこいいだけでなく、歌を通じて世の中と関わり合っていこうとしている。そして、それがまたかっこいいじゃないですか。
 そうやって、真似しながらも自分に問うていく。こういった歌を歌うステージに自分が立っているのか、どうなのかと。そこで、リスクのないところで上から物をいっているような自分に、自己嫌悪するわけです。だから当時は、歌のメッセージについては、ちょっと自分の中にしまい込んだというか、そういう感じになっていた。短絡した形で、「戦争反対」と言葉だけ言うようなことからは、ちょっと距離を置きたかった。

ゲバ棒振り回す学生運動には、
シンパシーが持てなかった

編集部

 60年代も後半になると、日本もベトナム戦争反対の運動で、世の中が騒然とし始め、そういうメッセージを掲げた岡林信康や高石ともやとか、関西フォークの人たちが出てきましたが、彼らがよく出演していたような集会に呼ばれたりはしなかったんでしょうか?

小室

 その前に言っておくと・・・いわゆるフォークソングのブームがくる前、みんなまだフォークソングのこと、日本では誰も知らないころ、自分の音楽の聞き手を求めて、小さな15人ぐらいのお客さんの前で、歌っていました。その時に、反戦とか差別というものをテーマにして、やってはいたんですが・・・やっているうちに、「なんか違うんじゃないの、もっと勉強しなおしておいで」と、自分にまた問うわけです。

編集部

 ふむ。

小室

 できるだけ音楽のクオリティを上げて、かつ社会的なテーマのものをやっていました。だから、関西でそういう反戦フォークのブームがきた時のタイミングに合えば、何らかの形で参加していたかもしれません。

編集部

 小室さんたちは、ちょっと早かったわけですね。

小室

 まあそうですね。関西の方でそういうブームがきたときに、「あのやり方じゃ、自分たちが傷つくんじゃないの?」と心配して見てました。そして、「あんなにえらそうに言わなくていいんじゃないのかなぁ」と醒めて見てたところもありました。

 その一方で、べ平連(*)がやっていたことには、外からですが、あるシンパシーを持って見ていました。小田実さんの書いた『何でも見てやろう』は読みましたし、それは僕にとって、とても大きなことでした。べ平連に開高健さんが関わっていたり、ということにも、なぜだろうと思って、興味はありました。しかし、学生運動については、無関心に近かったと思いますね。関心を寄せなかった理由が何かといえば、あの“形”がいやだったわけです。ゲバ棒もったり、石を投げたりという形が。そんなものは、ニュースとか街中で出会うだけのことですが、とにかくいやだった。

*ベ平連…1965年、作家の小田実らが中心となって結成された市民団体「ベトナムに平和を!市民連合」のこと。アメリカによるベトナム戦争への介入に抗議し、各地でデモ行進などを行った。

編集部

 心情的シンパシーと形に対しての嫌悪感が同居していたということですね。

小室

 学生運動については、心情的シンパシーを持ったのは、だいぶ後になってからです。少なくともあのときよりは、世の中の仕組みみたいなものが見えてきたので。

編集部

 渦中ではみえてこなかった。

小室

 66年ぐらいの時、「六文銭」というグループをやっていました。それをやってた期間は、5〜6年間あるんですけれどね、その時、京大のバリケードの中で歌うという企画もあったんだけれど、僕は、確たるものがあったわけではないから、むしろ臆するところがありましたね。まあ、ノンポリ以前、主義以前でしたからね。ただフォークソングから伝わってくる、反戦運動や公民権運動、アメリカのそういったものの受け売りをやっていただけでした。

選挙を利用して、
みんなでおもしろく騒いだ

編集部

 でも、のめりこんでいった人は、わりと簡単にやめちゃうというか、そんな印象もあるのですが、ところが、小室さんの場合は、その逆で、ある程度年齢を重ねてから、政治に接していくようになったじゃないですか? 革自連(*)に参加されたのは、72、3年でしょうか?

*革自連…1977年に結成された市民参加型の政治団体「革新自由連合」のこと。永六輔、田原総一郎ら著名人が多数参加し、女優・歌手として活躍していた中山千夏が代表を務めた。

小室

 僕の内面的な変化というものは、いつ、何がきっかけだったのか、というとよくわからないのですが、物理的には、ある日突然、中山千夏さんから電話がかかってきたのです。中山さんから、これこれこうで、こういうのを始めるのですが、と参加の要請がきたわけですよ。僕も無責任だと思うのですが、わかりましたと答えるわけです。
 承諾したひとつの理由には、僕の興味のあるもの全てが載っていた雑誌、「話の特集」の編集長だった矢崎泰久さんが関わっていたからです。そして永六輔さんもいましたね。永さんも「夢で会いましょう」など、名曲をたくさん生み出していました。僕が、日本で自分が歌ってみたい歌探しをしている時に、すごくいい歌をつくっていて、刺激的だった。そういう人たちが、いわゆる政治的でない人が、やろうとしているところに、興味があったのです。
 またその頃、自分の演奏以外の仕事、ドキュメンタリーの仕事をする機会が増えました。大阪の被差別部落の取材などしていくと、いかに自分が知らなかったか、ということを一つ一つ突きつけられるわけです。そして少しずつ自分の中に具体的な事例が入ってくるわけです。まあ、相当に遅い目覚めですね。

編集部

 9条とか憲法とかについても、考えはじめたわけですか?

小室

 まだその頃、憲法のことなんて改めて考えたことはなかったですよ。そこは結びついていなかったというか。しかし、選挙をお手伝いする中で、ああ、政治っていいなあ、政治の世界はおもしろいなぁと思ったことは、ないですね。自分も含めて、そういう政治に足突っ込んでる人間って、なんかいやだなあと思うことばかりで。
 ただ一つだけおもしろいことがありました。83年に杉並区議会選挙で、福士敬子さん(*)が選出されるのですが、その選挙応援に引っ張り込まれて・・・。手作り市民選挙ということで、1回目の選挙は、生活クラブを母体とした運動でしたが、その後、福士さんは都議会に出ることになります。特に区議選の時に、僕は選対で中心的に関わるようになったんです。で、選挙運動をいいことに、何かみんなでおもしろいことをやろうよ、というので、選挙事務所として荻窪の駅前にちょっと小屋みたいなものを作って、そこに集まって、みんながやりたいことを好きにやろう、ということになった。芸能評論家の加東康一さんを呼んで話をしてもらったり、毎夜毎夜、そこで酒をのんだり、騒いだり、歌ったりしてね。あの選挙は非常におもしろかったですね。

*福士敬子…1983年に杉並区議会議員に当選。1999年に都議会議員補欠選挙に当選し、現在まで3選を果たしている。

編集部

 選挙制度を利用して、駅前で騒ぐなんて、昨年杉並区議選に出て落選した「素人の乱」の松本哉さんみたいですが、これもまた小室さんがいち早くやっていたのですね。

「政治や憲法については、遅い目覚めでした」と語る小室さん。
次回は、意識的に考えるようになった9条のことや
改憲の論議についてお聞きしていきます。
お楽しみに!

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