戻る<<

この人に聞きたい:バックナンバーへ

この人に聞きたい

080528up

森達也さんに聞いた(その2)

9条は「正義の戦争」への強力なアンチテーゼだ

昨年、『日本国憲法』というタイトルの著書を出版された森達也さん。
「決して護憲論者ではない」という森さんの目を、
「9条」に向けさせたきっかけは何だったのでしょうか?

もり・たつや
映画監督/ドキュメンタリー作家。1998年、オウム真理教の荒木浩を主人公とするドキュメンタリー映画「A」を公開、各国映画祭に出品し、海外でも高い評価を受ける。2001年、続編「A2」が、山形国際ドキュメンタリー映画祭で特別賞・市民賞を受賞。近著に『死刑』(朝日出版社)、『ぼくの歌・みんなの歌』(講談社)、『視点をずらす思考術』(講談社現代新書)などがある。

改憲論議が沈静化した、
今の状況こそが怖い

編集部

 森さんは昨年1月、『日本国憲法』(太田出版)というタイトルの著書を出版されていますね。本の帯には「僕は記したい。こんな憲法があった時代に、自分が生きていたことを。相当に気が早い現行憲法への鎮魂。」とありまして、レトリックだとは思いながらも、本を手にした際、どきっとした覚えがあります。出版された時はちょうど、安倍政権が成立して半年、改憲論議が非常に盛んになっていたときでした。そうした危機感のようなものも、この本の執筆・出版を後押ししたのでしょうか?

 日本国憲法

※アマゾンにリンクしてます

 最初に断っておかねばならないけれど、僕自身は決して護憲論者ではありません。憲法における基本原理は主権在民、つまり主体は僕たちです。戦後半世紀以上が過ぎて、その主体である僕たちが世代交代しているわけだから、憲法というルールが変わったっておかしくはないと思っています。だから、決して護憲にこだわるわけではない。ただ、当時のあの状況では変えたくないと思っていた、それが執筆に至った動機の一つです。

編集部

 本のタイトルは『日本国憲法』ですが、中身を読むと、前文、1条、そして特に9条がページの多くを占められています。

 「9条ってなんだろう」ということを考えてみたかったのです。改憲派の眼目にあるのは当然9条なわけで、それをめぐる攻防戦こそが改憲論議の本質だと思ったので、それについてやっぱりちゃんと考えたいと。当時、僕はテレビのほうでも「天皇」をテーマにした番組の企画を出していましたし、9条と1条はとても密接な、裏表のような関係にあると思っていたので、天皇制を取り上げながら9条というものにアプローチできないかな、ということで、雑誌での連載を進めていきました。

 当初はそれだけじゃなくて、96条とか21条とか全部網羅してやりたいと思っていたんですけど、1条のことを書くだけでも延々と連載が何回分にもなってしまって。改憲論議がかまびすしかった当時の状況に対して「早く出さなくては」という焦りもありましたし、今回は9条のことだけを書こう、ということになったんです。

編集部

 しかし、そのさらに約半年後、安倍内閣は崩壊。「改憲」が叫ばれることも、以前ほどはなくなりました。

 でも、逆に言えばこの状況が怖いんですよね。多分、改憲論者は改憲を叫び護憲論者はそれに反対を叫び、という時期のほうがまだよかった。国民投票法はもう既成事実としてあるわけですし、硬直したまま止まってしまっているように見えても、実は内部では動いていて、みんなが忘れたころに突然ある日改憲案を出してきて、国民投票にかける、という可能性は十分にあるでしょう。

 「改憲」は自民党の遺伝子みたいなものですし、安倍政権は瓦解したからいいやじゃなくて、自民党政権がある限りは護憲の立場の人も、常に緊張感を持っていないといけない。「のど元過ぎれば熱さを忘れる」みたいな姿勢でいたら、足下をすくわれますよということは言いたいですね。

編集部

 安倍内閣崩壊をもたらしたのは、2007年夏の参院選の自民党大敗だったわけですが、でも、そこでは憲法は全然焦点になりませんでしたからね。

 特に最近は、そのとき焦点になっていた年金問題もそうだし、今話題になっているガソリン税の話もそうですが、とても刹那的な、日常生活の中で1円得した損したみたいなレベルの話が非常に重大事になっていますよね。以前もそうではあったんだろうけど、このところますますその傾向がすごく強まっているなという気がします。

オウムの取材がきっかけで、
9条を考えるようになった

編集部

 そもそも、森さんが憲法について関心を持たれて、いろんなところで発言をされるようになったのは、どういうきっかけからなんですか?

 憲法の中でも、特に9条のことが意識にあったのですが・・・じゃあなぜ9条だったのかというと・・・僕は、かつては本当に何も考えていない、テレビディレクターでした。視聴率をとれる番組がつくれればそれでいいや、みたいに思っていた。それが、オウム真理教の信者たちを撮った『A』という映画をつくったあたりから、どんどん見方が変わっていくんです。39歳のときですけど、僕にとってはひとつの原点になっていますね。

編集部

 具体的には、どういうことでしょうか?

 あの映画で、オウム側に身を置いて「こちら側」の社会を見たときに、「何なんだろう、これは」という思いがすごくあったんです。

 『A』は最初はテレビドキュメンタリーとして放送する予定でつくっていた作品なんですが、それがテレビでは放映できないと言われ――つまり、テレビメディアから排除されて、映画という形になったんですね。ただ、実はなぜ排除されたのかということも、そのときの僕はよくわかっていなかった。テレビ局の人たちも、「こんなものオンエアしたら危ない」とか「危険だ」とか、そんな抽象的なレベルのことしか言わなかったですから。

 でも、今はよくわかります。なぜオウムを撮ったあの作品が、撮り始めて早々にテレビから排除されたのか。見た人の感想を聞けばすぐにわかるんですね。ほとんどの人の感想は「オウムの信者があんなに普通だとは知りませんでした」というものだったんです。

編集部

 私も『A』を見てそういう感想というか、正直、驚きを覚えました。

 つまり、オウム信者があんなにも善良で純真だとは思わなかった、と。言い換えれば、それまで信者たちのことをとても凶暴な連中だと思っていたということでもありますよね。

 でもオウムの信者が「普通」だということを、マスメディアは言えないんです。当時はもちろん、多分今もそうだと思いますが、オウムについてマスメディア、特にテレビが使うレトリックは二つしかない。「凶暴凶悪な殺人集団」、そうでなければ「麻原彰晃に洗脳されて自分の感情を失ったロボットのような不気味な集団」です。  実際には、彼らは僕らと同じように普通に笑ったり泣いたりするし、もしかしたら僕ら以上に純粋で善良な人間かもしれない。でも、そんなことを報道したら大変なことになります。抗議も来るでしょうし、スポンサーも離れてしまうかもしれない。だから、それは絶対やっちゃいけないということを、マスメディアの人間はみんなどこかで感知しているんだと思います。

編集部

 それは、報道する側だけではなく、視聴者、読者もそうした、「凶暴凶悪」もしくは「不気味」といった報道を求めているところもありますよね。

 前回、死刑の話のところでも少し言った、善と悪の二元論だと思います。あれほどに凶悪な事件を起こした彼らが「普通」であるはずがない。あくまでも「凶暴なやつら」「不気味なやつら」であってほしいとの願望です。だってオウムの人たちが「普通」だとすると、善と悪との境界線が融解して、「普通」であるつもりの自分たちと彼らとは、何が違うんだっていうことになってしまうからです。

 テレビでも雑誌でも新聞でも、オウム信者の周りで取材していた記者やディレクターたちは、彼らが「普通」だってことはわかっていたはずです。ただそれが書けない、撮れない、撮ってもカットしてしまう。それが当たり前になっていたんですね。僕はそこを踏み越えてしまった。何も考えずに、でも結果としてはそうなってしまったんです。

善意や正義こそが、
人を殺す燃料になる

編集部

 だから、『A』はテレビというメディアからは排除されてしまった…。

 そのときに思ったのが、多分虐殺も戦争も、こういう「善と悪との二分化」という形で起きるんだろうなということでした。本来は、ある意味ではどちらも善といえるしどちらも悪ともいえる、そんな簡単に二分化できるものではないはずなんだけど。

 さらに、もう一つ思ったのが「守る意識」ということです。自分の身を守りたい、自分の同胞や家族を守りたい、そういった意識が、ときに人が人を殺す燃料になる場合があるんだと。さらに言えば、そんな純真純朴なオウムの人々がなぜああいう事件を起こしたのかというと、これも悪意ではなくて善意なんですよね。殺された人たちは本当に幸せになると、彼らは思い込んでいたわけだから。

 もちろん、怨恨やお金目当て、あるいは快楽のための殺人もあるけれど、多分それはせいぜい数人が限界です。人は、そのために大量の人を殺せるほど強くない。善意とか正義とか大義とか、そういった気持ちこそが、大量の人を殺すんだと思うんですね。

編集部

 近代史を振り返ってみてもそうですね。ナチスドイツ、旧ユーゴ紛争やルワンダの大虐殺、第二次世界大戦での日本軍…どれも、「善」である自分たちと「悪」である相手、という構図と、「正しい行為」だという大義名分のもとで、戦いや虐殺が起こっている。

 善悪の二分化というのは多分、人が持っている本能でもあるんだと思います。人間というのは群れる動物です。群れをつくるのは敵が怖いからで、逆に言えば、群れの結束を高めるためには敵が必要なんです。ところが、人間は進化の過程で天敵を失ってしまって、「怖い」対象は同じ人間しかいなくなくなってしまった。だから、「違う」共同体に帰属する人――違う神をあがめているとか、言語や皮膚や目の色が違うとか――が怖いということになるんですね。

 でも、警戒心を常に全開にしていては、交易や交流もいつまでたってもできない。だからやせ我慢して話をしてみたら、意外に話が通じた、自分たちと同じようなところもあったというので、なんとか人間は文化圏を広げてここまで進歩してきたわけです。ところがそれが、国内的にはオウムの事件、世界的には9・11のテロ事件によって、一気に昔に戻ってしまったという気がするんですね。もちろん人間はそんなことを繰り返してきたわけだけど、メディアがこれほどに進化しているから、その規模や副作用がとても強くなっている。

9条2項を実現した国は、他国にとっての
仮想敵になりえない

編集部

 再び、自分たちと何かが「違う」相手を「怖い」対象として、絶対的な「悪」として見るようになってしまった、と。それが人間の持っている本能なら、かろうじて進歩することはあるにしても、根本的にはどうしようもない、ということになってしまうのでしょうか?

 その考えにたどりついたときに、はっと気づいたのが憲法9条の持つ意味だったんですね。特に9条の2項は、そうした争いの原因に対する強力なアンチテーゼだと思うんです。

編集部

 それはどういうことですか?

 今言ったように、共同体に帰属せねば生きていけないからこそ人間はこれまで、不安や恐怖の内圧が高まったときに仮想敵を設定し、それが怖いから武装して攻撃して、ということをずっと繰り返してきたわけですね。だから、これだけ文明が進化しても、戦争はなくならなかった。つまり人の闘争本能ではなくて、不安や恐怖が戦争の根源なのです。

 ところが、9条2項を実現すれば、その国はどこの国の仮想敵にもなりえない。だって、武器を持ってないんですから。攻撃されるされない以前に、敵だと思われることが不可能になるんです。

編集部

 いっさい武器を持っていない相手を、「怖い」とは思えない。仮想敵としては想定できない、と。

 そのことに気づいて、9条というのはすごいなと思った。もちろん、9条の源流はパリ不戦条約ですし、その時代にそこまで考えた人がいたかどうかはわからない。でもかつてのような国家間の戦争だけではなく、交渉相手の顔が見えないテロがこれだけ蔓延して永久に終わりそうにない戦争状態が続いているからこそ、9条は、この状況に対しての強力なアンチテーゼとして機能できる。

 人類はおそらく、殺人や虐殺を簡単にはなくせない。だけど、戦争は違う。戦争は国家間の外交におけるシステムのひとつです。ならば必ずなくせます。決して絵空事や青臭い理想論ではなくて、9条はそんな世界を実現するための、とてもプラグマティックで実践的な選択です。

悪意ではなく善意や正義こそが、
ときに「人を殺す燃料」になるという指摘には、頷かざるを得ません。
だからこそ、「アンチテーゼ」としての9条の意味は大きいのではないでしょうか。
森さん、ありがとうございました。

ご意見フォームへ

ご意見募集

マガジン9条