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この人に聞きたい
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いとうせいこうさんに聞いた

9条はこわれやすいものだからみんなで考えて守っていくもの
硬軟取り混ぜた、幅広い活躍をされているいとうさん。
憲法9条とのかかわりでは、湾岸戦争のときに反戦をアピールし
積極的に発言をしていたことが、いまも強烈な印象として残ります。
その後からイラク戦争の現在に至る間に、
どのようなことを考えていたのかを伺ってみました。
いとう尚中さん

いとうせいこう 1961年東京生まれ、東京都出身。
早稲田大学方法学部卒業後、講談社に勤務。雑誌『ホットドッグプレス』編集部に在籍、
2年あまりで退社し、現在は作家・クリエーターとして、
活字/映像/舞台/ 音楽/ニューメディアなどジャンルを越えた
幅広い表現活動を行っている。 著作に『ノーライフキング』
『ボタニカル・ライフ』(以上新潮文庫)、『難解な絵本』(角川文庫)、
『見仏記』シリーズ(みうらじゅんとの共著、角川文庫)など多数。

9条の理念をベースにした、東アジアの集団安全機構を考える
編集部   いとうさんは1990年に始まった湾岸戦争のときに、「自分自身に無力感を感じて失語症になった」「俺は平和憲法右翼になる」などとおっしゃっていましたね。最近では、アメリカのイラク攻撃に反対するクラブイベントも開催していますが、そのような活動の中で、今どんなことを感じていらっしゃいますか?
いとう

 この10年間で、ことばの力がだいぶなくなってしまったと感じています。理屈に力がなくなってしまった。「理屈上、それはおかしいでしょ?」ということが、ほとんど“異議申し立て”にならないような時代になってしまいました。 たとえば、今の中国と日本の関係です。中国人が日本の大使館に対して、あるいは民間人が経営するレストランなどに対して暴力を振るったのは、不愉快な出来事でした。しかし、不愉快な行動をした相手を“憎悪”という感情に直結させてしまうことが、今の世論の完全な流れになっています。
 昔は、まだそれほどではなかった。確かに中国の一部の人たちの行動は不愉快であるけれども、しかしそのことと中国という国とどのようにやっていくかということは別々に考える。そういう区分けみたいなものが、いつの間にかなくなってしまったんですね。
 僕は、湾岸戦争ぐらいからそうなったような気がするのですが、もう日本はほとんど“動物的”。憎悪という感情と論理とを、分けることができない。 そのように分けることができなくなったからこそ、憲法9条でも改定派のほうが強いのは当たり前です。「やられるくらいなら軍備したほうがいいじゃないか」という考え方は、単に反射神経的であり、“動物的”には正しいからです。

         * * * * *

《アメリカのイラク攻撃に反対する大阪「マカオ」でのクラブイベント(2003年3月20日開催)で、いとうさんが読み上げた声明から》

「もしもテロリズムを否定するならば、同時に戦争も否定されなければならない。
 反対に、もしも戦争を肯定するならば、テロリズムも肯定されなければならない。
 それらは一挙に否定されるか、肯定されるかのいずれかである。
 卑劣なテロに対して国家としての宣戦布告を行い、テロリズムを格上げしてしまったのは他でもないアメリカなのだ。

 もしもテロリズムを否定するならば、同時に戦争も否定されなければならない。 もしも戦争を肯定するならば、テロリズムも肯定されなければならない。
 それらは一挙に否定されるか、肯定されるかのいずれかである。

 どちらを選ぶのか?
 アメリカよ。

  否定せよ。
 

                  いとうせいこう」

         * * * * *

編集部  なぜ、ことばの力がなくなってしまったという現状が生まれたのでしょうか。
いとう  たくさんのことが絡んでいるとは思うのですが、ひとつはマスコミの立場が弱くなったことが挙げられると思います。ある政治的な勢力によって、マスコミは非常にうまく抑えつけられてしまった。“力を持ちすぎているから”という理由で、特に異議申し立てをするタイプのメディアが潰されてしまったのです。 もうひとつは、インターネットで感情的なことばが表に出てくるようになったからだと思います。
 インターネットは、ストレートに人の感情を表すタイプのメディアです。そして感情のことばのほうが、理屈のことばよりも強い。日本だけではなく、中国、韓国にも同じ現象が起こっていますが、感情の言論が世論を形成するようになってしまったのです。
 公のメディアにものを書くということは、しっかり話の裏をとっていなければなりませんし、ましてや署名原稿なら、なおさら注意して、議論の場に出してよいようなことばを使います。ところがインターネットが出てきて、そうではないことばのほうが強くなってしまった。その結果、理屈のほうが弱くなってしまうのは、当然の理です。
 また、メディアも売れ行き優先になってしまった。昔は何か意見があったら必ず反対派の意見も載せたものですが、今は最初から編集部の意向に沿った発言をしてくれる人のところにしか行きません。それは売り上げという営業の側面が、独立したものであるべき編集の側面と最初から一致してしまっている面があるからだと思います。

現実に合わせて憲法を変えろという考え方こそ平和ボケからくる理論
編集部  『マガジン9条』では、単に「9条をまもろう」という意見だけでなく、議論に値する改憲派の意見も掲載しようと努めています。憲法9条改定派の中でも多い意見は、「泥棒から財産を守るために、家にカギをかける(=軍備)のは当然なんじゃないの?」というタイプのものですが……。
いとう  今の改憲論の基本は、“現実に合わないから変える”ということだと思います。でも、理想というものは現実の向こう側にある。ただ現状を認め続けていくのなら、理想にたどり着くのが遅れるだけです。
 インターネットというメディアに慣れると、今すぐにものごとが変わらないことにイライラしてきます。今日北朝鮮がああ言ったから、今日中国がこう言ったから、といって9条を変えていいかというと、憲法はそんなものではない。そうであったとしたら、無秩序です。特に憲法は国の背骨なので、そんなに変わっていいものではないんです。
 また、軍備をすることが現実的かというと、それも幼稚な理論だと思います。軍隊があっても、侵略されるんです。あたかも“これが現実的だ”というようなことを改憲派は言いますが、これも平和ボケ。なぜなら、こんな海に囲まれた細長い国を、侵略が全くないように防衛するのなら、その軍事力は異常に大きなものになるはずです。そんなことをしたら、税金の90%は防衛費になる。 改憲派のいう現実に対しては、違う現実を言ってあげればいいと思います。軍備については、「9条は意外にエコノミーになっていますよ」。こういう言い方しかないでしょう。
 僕が一番いやだなと思う問いは、「自分が愛している人たちが犯されたり殺されたりしているときに、武器をとらないのか」というもの。 これは、取ることができる武器があり、もうすでに自分たちが軍備をしているという前提だから、実は詐欺みたいな質問です。取るのか取らないのかという前に「なぜそこに武器があるのか?」という問いがない。そういう矛盾が、改憲派の意見には実に多いんです。
 こんなふうに、一つひとつきちんと現実に理論を重ねていくしかない。 たしかに、感情的な人への説明は大変なものです。9条をまもろうとする側は、不利なことは不利ですが、それは仕方がないのです。

感情論だけで改憲を唱えるのはばかばかしい
いとう  9条は、もともと弱い立場を引き受けて成り立つものだと考えたほうがいいと思います。
 武器を持たないと言っているのだから、弱い立場に決まっている。弱いから、9条への反論に対して跳ね返せるパワーを持ちません。逆に言うと、弱いものであるからこそ、みんなで考えて守っていかなければならないという“フラジャイル”(壊れやすい、取扱注意)なものだと思います。
 僕は、“何が何でも9条を変えちゃいけない”と思っているかというと、実はそうでもありません。たとえると憲法は聖典みたいなものですが、どんな聖典でも矛盾は必ずありますから。ただ憲法を今みたいな感情論で変えるのは、非常にばかばかしい。また、自分たちに利益があるから戦争をしたい、という人たちのために9条を変えるのは、実に愚かだと思っているわけです。

取材を通して、理想を実現する難しさに孤高に立ち向っている
いとうさんの横顔を見せていただいた気がします。
弱い立場を引き受け、一つひとつ現実的に理論を重ねていく。
そんな冷静さが大切だとわかりました。
どうもありがとうございました!

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