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この人に聞きたい

080910up

寺脇研さんに聞いた(その2)

子どもが有しているのは、
教育を受ける「義務」ではなく「権利」

役人として、常に憲法に照らし合わせながら、
教育行政を行ってきた寺脇さん。
教育に関する26条については、改憲すべきだと主張しています。
その理由は、何でしょうか?

てらわき・けん
1952年福岡県生まれ。1975年文部省入省、初等中等教育局職業教育課長・広島県教育長・高等教育局医学教育課長・生涯学習局生涯学習振興課長、大臣官房政策課課長を経て、大臣官房審議官。2002年より文化庁文化部長。退官後、映画評論家、京都造形芸術大学芸術学部教授、NPO法人教育支援など多方面で活躍中。著書に『なぜ学校に行かせるの?』(日本経済新聞社)、『中学生を救う30の方法』(講談社)、『どうする学力低下』(PHP研究所 共著)、『21世紀の学校はこうなる』(新潮OH!文庫)、『格差時代を生きぬく教育』(ユビキタ・スタジオ)、『それでも、ゆとり教育は間違っていない』(扶桑社)、『さらばゆとり教育』(光文社ペーパーバックス)、『韓国映画ベスト100』(朝日新書)など。

財政を真っ先に振り分けるべき先は、
25条の生存権が脅かされている人たち

編集部

 前回は9条を中心にお考えを伺いました。9条以外ではどのような条文が姜尚中さんとの対談で論議になったのでしょうか?

寺脇

 姜さんからは25条、私からは12条と15条を中心に突っ込んだ話がなされました。

編集部

 12条は「自由・権利の保持義務、乱用の禁止、利用の責任」、15条は「公務員の選定罷免権、公務員の性質、普通選挙と秘密投票の保持」、25条は「生存権、国の生存権保障義務」に関する規定です。

寺脇

 日本国憲法で定められている国民の権利はみな大切なものばかりだけど、中でも25条が定める生存権はもっとも重要なものです。ところが、いまの日本はワーキングプアの問題だとか、年金や医療、福祉などの制度が脅かされて大変なことになっている。そう考えると、たとえば科学技術や教育に予算を使っている場合かな? と思うんですね。国の財政が潤っていれば別ですけど、個人の生存権が侵されているいまの社会状況を考えると、そんなもののプライオリティはずっと低い。

編集部

 文科省の官僚時代だったら、そんなこと口が裂けても言えませんね(笑)。

寺脇

 いやいや。私はむしろ、役人時代からそう主張していました。官僚はたいがい、省益というか、自分の省の予算を増やそうと躍起になるもんだけど、私はずっと「それはおかしい」と言い続けてきた。だって、15条には「すべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない」と明記されている。この条文に照らし合わせれば、文科省の役人といえども、教育だけでなく全体の奉仕者であるべきでしょう? 当然、いま国民にとって大切なのは何かを最優先に考えなくてはいけません。であれば、教育予算の増額を叫ぶのでなく、いまは年金や医療、福祉などを守るために予算を回すことをまず考えるべきです。 

公務員は、全体の奉仕者であって、
一部の人々の奉仕者であってはならない

編集部

 全体の奉仕者ということばは共感できます。でも、実際にそれを実践するのは難しい?

寺脇

 そうです。公務員である以上、だれかに偏らず、みんなのために仕事をしなきゃいけない。たとえば、薬害C型肝炎の患者さんたちが起こした訴訟に当初、国は冷淡でした。それで役人たちは血も涙もない冷血漢と怒られたものですが、15条を守ろうとすれば、全体の奉仕者であって一部の人々の奉仕者にはなれない、なってはいけない。だから、患者さんたちの訴えを聞いて「気の毒だな」と同情はしても、限られた予算をC型肝炎の患者さんだけに使ってもいいのかなと悩んでしまうんです。

編集部

 なるほど。教育の現場で問題になっている日の丸・君が世代についてはどうでしょう?

寺脇

 個人には内心の自由が認められているわけですから、国旗や国歌に反対したって、全然かまわない。ただ、公務員である教師は15条が定める「全体の奉仕者」という立場から考えると、国民と議会が法的に定めた以上、それに従うべきで、外に向かって内心の自由は発動できないんじゃないですかね? それがいやだったら、公務員を辞めるほかはない。実際に私学や私塾では国旗や国歌を持ち込まないでやっているところも少なくないわけですから。

教育に関する条文、26条は改憲すべき

編集部

 教育に関する条文はどうでしょうか?

寺脇

 「学問の自由」を定めた23条は学説の自由を認めているわけで、このままでかまわない。私が問題視しているのは26条です。

編集部

 26条は「教育を受ける権利、教育の義務、義務教育の無償」を定める条項ですね。

寺脇

 教育行政に携わってきて痛感したことがあります。それは90年代の後半あたりまで、多くの人々が子どもに教育の義務があると勘違いしていたということです。子どもは小中学校に通わなくてはいけないと。
 それは恐ろしいことに、日教組や左派の教育学者ですら、そう主張した。教育権は教師にあるのか、国にあるのかみたいな論争をさんざんしてね。そんなもの、どっちにもありませんよ。あるのは教育を受ける権利です。なのに、それを捻じ曲げてずっと運用されてきたような実態がある。だから、不登校の子どもたちがとても辛い思いをしました。学問の自由と教育の自由を混同するようなことも行われてきました。

 本来なら、1987年に臨時教育審議会答申が出て、それを受けた閣議決定で生涯学習という考え方が国の教育方針として打ち出された以上、26条はすみやかに改憲して「学習権」という規定にしなければなりませんでした。学習権というのは学習する、しないの判断、さらには学習をどのタイミングでどういう形で受けるかということを、限りなく学習者に委ねるという概念です。だから、いまは学習したくない、不登校になるという権利だって含まれる。残念なことに、日本の教育現場ではその真逆のことが長い間、まかり通ってきたんです。

編集部

 ゆとり教育という考え方は基本的に学習権という立場から構想された概念ですね。

寺脇

 ええ。教育の主役はあくまで学習者なんです。ところが、日本の教育現場は子どもの学習権より、どうしても教師の側が主役という考え方が抜けきれていません。だから、学習の機会均等ではなく、教育の機会均等が重視されることになる。その結果、みんなにきちんと同じ内容を教えるべきという声が大きくなり、画一化された詰め込み教育につながってしまうんです。そうした愚を犯さないためにも、26条には「学習権」という語句を盛り込むべきです。

編集部

 なるほど。「学習権」という文言により、学習を受ける学習者が主体だということが、はっきりしますね。「不登校になるという権利だって含まれる」学習権という概念がもっと一般的になれば、「教育」のあり方が多面的で深化するのではと思います。まもなく発刊される姜尚中さんとの憲法についての対談集を楽しみに待ちたいと思います。

昨今の教育関係の問題は、
その学習者(子どもたち)が、
ますます置き去りにされていることが一番の問題です。
私たちは、教育を受ける権利を有している、
ということに、もっと意識的でありたいと思います。
寺脇さん、ありがとうございました。

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