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この人に聞きたい

070523up

山内徳信さんに聞いた(その2) 

「命どぅ宝」の心を取り戻そう

「憲法力」を武器に、読谷村長として米軍基地の撤退を進めさせた山内さん。
その原点にある、憲法への思いをお聞きしました。

やまうち とくしん 1935年、沖縄・読谷村に生まれる。17年間の高校教師生活後、1974年、読谷村長に当選(6期)、その後沖縄県出納長を務める。1999年に山内平和憲法・地方自治問題研究所を開設。現在、基地の県内移設に反対する県民会議共同代表。著書に『憲法を実践する村 〜沖縄・読谷村長奮闘記』(明石書店)、『叫び訴え続ける基地沖縄 〜読谷24年—村民ぐるみの闘い』(那覇出版社)、『沖縄・読谷村の挑戦 〜米軍基地内に役場をつくった』(水島朝穂氏との共著・岩波ブックレット)、『沖縄は基地を拒絶する』(高文研)など多数。

憲法の条文が、
「百万の味方」になった

編集部

 前回は、「憲法力」を持って、基地の村、読谷村で自治を務めてこられたというお話でした。それは、山内さんが、憲法と特別な出会い方をされたからだとおっしゃってましたが、具体的にどのようなことだったのでしょうか?

山内

 読谷村は沖縄戦での米軍の上陸地点です。私たちの集落には2つの大きな鍾乳洞がありました。住民はそこに逃げ込んだんですが、爆弾を打ち込まれて天井の岩がドドドーンッと落ちてきた。多くの人がおし潰された。そこで24名の人が死んだ。その中には私の同級生もおれば、私がとても慕っていた宗一という友人もいた。彼の遺骨を拾えたのは、やっと復帰後のことでした。12トンの起重機を借りてきて、彼の上の4トンの岩をとりのぞき、ようやく見つけた彼の頭蓋骨を、私は何度も、さすってやった。

編集部

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山内

 私は51年に現在の憲法に出会いました。読谷高校の1年生でした。そのとき配られた社会科の教科書は「民主主義」というタイトルの本でした。これには震えました。それが原点です。そこから、あの戦争体験をどう生かすか、私の教師への道が決まるんです。それから村長になったんです。
 憲法を実践し平和な社会を創ることが私の使命です。例えば、米軍が嘉手納基地にイーグルの弾薬庫を作りたいといって、防衛施設庁が建築確認書を持ってきたときのことです。私はどんな書類にも目を通します。平和憲法を守る立場の村長が、弾薬庫を作らせるわけにはいかん。政府から来た職員に言うたわけです。「憲法99条を読んでごらん」と。これが百万の味方というものです。
 99条はこうです。<天皇、摂政、国務大臣、国会議員、裁判官、その他の公務員はこの憲法を尊重し擁護する義務を負う>。山内徳信は村長として特別公務員、弾薬庫を作らせてと来た職員たちは国家公務員です、憲法をまじめに解釈する村長として、この書類を認めるわけにはいかない。局長にも、六本木におる長官にもそうお伝えしなさい、と。そして、それに不服ならば私を裁判にかけて罷免しなさいと言うたんです。そしたら面白くなる。読谷村民は私が罷免されても、再度立候補したら必ず当選させてくれます。そうなれば、ますます沖縄の基地問題がクローズアップされていくから、どうぞおやりなさい。そう言うたんです。結果として提訴することは出来なかった。

編集部

 まさに、憲法を武器に、ですね。

山内

 私はよく職員に言っていました。「国の言うことで良いこと、村民のためになることだったら聞きなさい。望ましくないようだったら聞く必要はありません」「戦前の市町村役場の職員たちは、国家に食われてしまっていた。国家の政策を押し付けられるということは、即ち国家に食われること。村長が食われたら、村長は職員を食う。職員は目の前の村民町民を食うことになる。こうして戦争へ戦争へと向かった。それではいけない。ちゃんと勉強して、理論武装して国や県の職員と対等に話し合いをしなさい」と。

編集部

 国家に食われないための理論武装ですね。

山内

 そして、素朴な感情です。日本にある米軍基地の実に75%を沖縄に押しつけておいて、新たに辺野古に基地を作るなんてことを許してはならない。私は辺野古のおじいさんやおばあさんと話をしたことがあります。「山内さんねえ、あの戦争のとき、那覇や中南部から避難してきた人たちが、いっぱい北部の山の中に逃げ込んできた。食べ物がまったくなかったよ。そのとき、なんとか命を救ったのは目の前の海の魚介類だった。この海がなかったら、私らみんな死んどった。そんな恩のある海を日本政府に埋めさせるわけにはいかんよ」と、おばあが言うんです。本当に。民衆の素朴な感情は何より強い。風の如く、水の如くです。

憲法9条は、「命どぅ宝」の思いと
つながっている

編集部

 素朴な感情と憲法。これが重なったら、ほんとうにいいですよね。

山内

 そうなんです。みんな酸素を吸うて生きておるのに、酸素ありがとう、とは言わない。あれほど温暖化がすすんで自然の異変が起きているのに、政治家たちはまさかそれほどのことが、ぐらいにしか考えておらんでしょ。憲法というものは酸素みたいなもので、酸欠になって初めてその大事さが分かる。蛇口をひねればいつでも水が出るから、水よありがとうとは誰も言わない。
 私の感覚はいま「憲法よありがとう」ですよ。日本国民にとって平和憲法は、命そのものなんです。沖縄の人は「命(ぬち)どぅ宝」と言います。いのちこそ宝、命こそ大事。憲法9条を踏みにじって、ふたたび政府の行為によって戦争を起こしてはいけない。この「命どぅ宝」の沖縄の心を消してはいけない。私たちはどうしたって、そんなことを許すわけにはいかない。

編集部

 沖縄の「命どぅ宝」は、憲法9条とつながっている、というわけですね。

山内

 そうです。『戦争になれば軍隊は国民を守らない、守れない』というのが沖縄戦の教訓です。尊い命が犠牲になった。もう一度、私たちは「命どぅ宝」の心を取り戻さなくてはならない。平和憲法のおかげで、戦後62年間、戦争で日本人の命を落とすことはなかったということを、忘れてはいけない。
 それなのに、憲法を改悪して集団的自衛権を持ちたいだなんて言う人たちがいる。持たなければ、北朝鮮にバカにされる、中国の人々に嘲られる、そういうことを言う連中が、政治家の中にもいるでしょう。これは大変危険です。
 憲法9条を守り抜くことは、日本国民の命を守ること。武力による国家の安全保障論は19〜20世紀の発想であり、弱肉強食の過去の発想です。私たちは、平和、共生、共存、の21世紀の平和外交に徹すべきなんです。

編集部

 私たちの「マガジン9条」はネット上のマガジンです。そういう性格上、若い人が多く読んでくれているようです。いまの山内さんのお話が、そういう若い人たちにストレートに伝わると嬉しいですね。

山内

 本当にそう思います。これからこの国を作っていく若い人たちに、我々年長者が伝えなければならないことを、私はこれからも精一杯発信していきますよ。

編集部

 ぜひ、これからも貴重なお話を聞かせてください。どうもありがとうございました。

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「失って初めて、そのありがたみがわかった」。
9条を、そんな存在にはしてしまいたくありません。
そのためにも、「憲法力」はもっといろんなところで
発揮されていくべきなのではないでしょうか。
山内さん、ありがとうございました。

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