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伊勢崎賢治の15歳からの国際平和学

戦争とは? 紛争とは? 国際貢献とは? そして平和とは・・・?
世界各地で「武装解除」などの紛争処理に関わり、
現場を誰よりも知る伊勢崎賢治さん。
15歳のキミたちに是非読んでもらいたい! ということでスタートです。
先月成立をみた国民投票法。法律の施行には3年の凍結を経るそうです。
つまり、憲法改定の是非を問われるその投票権は、
現在15歳の国民から持つことになります。
ま、わかりやすくてオモシロイ「平和学講座」。
もちろん年齢制限なし。隔週連載の予定です。

武装解除 いせざき・けんじ●1957年東京生まれ。大学卒業後、インド留学中にスラム住民の居住権獲得運動に携わる。国際NGOスタッフとしてアフリカ各地で活動後、東ティモール、シェラレオネ、 アフガニスタンで紛争処理を指揮。現在、東京外国語大学教授。紛争予防・平和構築講座を担当。著書に『東チモール県知事日記』(藤原書店)『武装解除 紛争屋が見た世界』(講談社現代新書)などがある。
←アマゾンにリンクしてます。

第2回:「ブラッド・ダイヤモンド」が語らなかったこと
〜革命から大量虐殺へ〜

マケニ市議会の面々。1990年頃

僕らの任務はシエラレオネを救うこと

僕らの任務は人々を救うこと

僕らの任務は祖国を救うこと

僕らの任務はシエラレオネを救うこと

カラシニコフという自動小銃を肩にかけた少年兵たちが、一列に整列し、胸に拳をあてて歌います。これは、革命統一戦線(RUF:Revolutionary United Front)が、ゲリラ兵、特に少年兵の士気を高めるため、ジャングルの中の訓練基地で唱歌を義務づけた“革命”ソングの一部です。

一党独裁がずっと続き、政治腐敗で国家が国民の生存に対する責任をまったく果たせない状況、つまり政府がありながら無政府状態であったシエラレオネで、「政権打倒」の目的を掲げた“革命”。僕も含めて、この国の腐敗と格闘してきた国際援助にかかわる業界人たちにも、この革命は、至極“当然”のように写りました。

“革命”蜂起には、お金が必要です。ダイヤモンドの利権を手中にしてしまえば、どんどん武器を武器商人から闇で買えますが(この辺の武器商人の話はニコラス・ケージさん主演の「ロード・オブ・ウォー」を観ると感じがつかめると思います。映画の宣伝ばかりしているみたいですが…)、戦争を始める前には、必ず誰かの助けが必要です。

その助っ人が、隣の国リベリアで、軍事クーデターで政権を握ったチャールズ・テイラー大佐でした。このクーデターも、彼を含む軍閥たちが凌ぎ合うたいへん凄惨なものでした。なにせ、拘束したサミュエル・ドウ前大統領(彼自身も凄惨な軍事クーデターによる独裁者でした)を皆でよってたかってなぶり殺しミンチにしたあげく、その一部始終をビデオに録画して、そのコピーを周辺国にばら撒いて、政権交代を誇示したのですから。これは1990年の話で、僕もシエラレオネの青空市場に流れてきたそのビデオを見かけております。うわさを聞いていたので、とても買って観る気は起こりませんでしたが。

テイラーは、その後リベリア大統領の座に君臨しますが、最初に目をつけたのが、シエラレオネのダイヤモンドです。リベリアでは、ダイヤはほとんど採れません。そして、シエラレオネ人のフォディ・サンコウと出会います。

サンコウは若いころ、学生運動のリーダーで、反体制的な政治運動で投獄の経験もあったようです。そして、このような政府による弾圧から国外に逃亡。その亡命先になったのが、当時、アフリカ諸国の反体制運動家たちを囲って軍事訓練などを施し、アフリカ全土の反欧米同盟を目論んでいたリビアのカダフィ大佐の元でした。こうして、サンコウは、いっぱしの“革命家”になっていったのです。 テイラーに支援を受けRUFを立ち上げたサンコウは、リベリアから母国シエラレオネを転覆させるべく侵入を開始します。1991年頃の話です。こうして、シエラレオネ内戦の火蓋が切って落とされました。

内戦の火蓋と言っても、基本的にゲリラ戦です。リベリアとの国境は、別に鉄条網が張ってあるわけでも、コンクリートの壁があるわけでもなく、その辺の農民たちは、“国境線”を意識することなく行き来できるのんびりした状態です。リベリアとの交易路もあります。軽トラックの荷台を改造したバスが、商品と乗客をすし詰めにして行き来するわけですが、RUFのゲリラは、その中に混じって移動します。武器と弾薬も、荷物の中に巧妙に隠して。これを繰り返し、武器や弾薬をシエラレオネ国内にどんどん備蓄してゆきます。同じように現政権に不満を持つ“革命同情者”を見つければ、秘密の武器庫をつくることは簡単なのです。

こうして蜂起の機会を待ちます。と言っても、いきなり都会を襲うわけではありません。まず、国境付近の農村、僻地の村々がターゲットです。前号で説明しましたように、こういう土地では電話なんてもちろんなく、“徒歩”が唯一のコミュニケーション手段ですから、戦況がどうなっているのか、政府もわかりません。「あの村が襲われたらしい」というような噂が流れてくるだけです。これも前号で説明したように、警察も士気が全くない状態ですから、政府がそれを知っても、国軍が即座に派遣されて住民を守るような状態ではありません。給料も食料も満足に支給されていない状態ですから、国民を守るというような忠誠心を期待するほうが間違いです。前線に派遣されても、逆に寝返って、ゲリラの一味になるケースも多発したのです。

こうして、RUFゲリラの手に落ちる村々が増えてゆきます。村々は完全に無防備ですから、攻撃するにはカラシニコフを持ったゲリラが10名ぐらいのチームで足ります。ゲリラたちは、支配下に置いた村人たちに何をするか? まず恐怖を植えつけるために、見せしめの殺人を行います。恐怖が確実に植えつけられれば、あまり経験のないゲリラ兵士を数名残すだけでも、その村を掌握でき、他の兵士たちは、隣の村の攻撃に向かえます。そして、ほとんどの成人男子が「奴隷」になり、彼らは、RUFが後にダイヤモンドが採れる地域を侵略した時に、(ザルで)“シャカシャカ”の強制労働をさせられることになります。婦女子は、「性の奴隷」にされることは言うまでもありません。

1991年、内戦の始まったとき、RUFゲリラは、いったい何人ぐらいの規模であったか? はっきりしたことはいまだに分かりませんが、たぶん数百人の規模であったろうと思います。でも、2002年の終戦時には、2万2千5百人になっておりました。10年間の内戦の中で実に100倍ぐらいに成長したことになります。どうしてでしょう?

村々を略奪する過程で、特に若者、下は8歳ぐらいの子供たちを“洗脳”して仲間にしていったのです。“洗脳”などと言うのは、ちょっと大げさかも知れません。単なる「ファッション」です。暴力というファッションです。イメージは、ニューヨークの貧民街の不良です。ダブダブのズボンにTシャツ、スニーカー。それにラップミュージック。これで決まりです。

豊かな日本でも、これは分かると思います。皆、暴走族とか、漫画コミックでもヤクザ・チンピラものが好きでしょう? ちょっと悪ぶって“キレルぞっ”なんて言ってみたいでしょう? 国籍を問わず若者には、暴力はセクシーなのです。RUFは、ここにつけ込んだのです。それも世界最貧国シエラレオネです。内戦がなくても、国自体が崩壊寸前だったのですから、将来に対して何も希望も持てない。「こんな社会なんてぶっ壊したほうがいい」という“革命思想”とマッチして、若者は、どんどんRUFに“入会”していったのです。

普通なら、学校に通い、成人になる過程で社会からものごとの分別を学ぶはずの子供たちが、幼いままいきなり高性能の自動小銃を渡されるのです。彼らは、成人のゲリラ兵士より残忍な殺人マシーンになってゆきました。映画「ブラッド・ダイヤモンド」で描かれている虐殺シーンは、終戦後、僕が目にした、生き残った被害者の証言録の内容に比べると、まだその非人間さを十分に語っていません。ここでは、とてもそれを書けませんが。

当時、この国で大変な影響力を持っていたNGO「プラン・インターナショナル」の現地所長であった僕は、マケニという内陸のまちに、家族(嫁さん、その時2歳の長男、そしておばあちゃん)で住んでいました。聞こえてくるのは、「先週40キロ先の村が攻撃された。今週はここから20キロぐらいのところでゲリラが目撃された。」みたいな情報だけ。地元の警察も全くあてにならず。同業者のNGO仲間から、活動を停止し、外国人スタッフを国外待避させたなどの話がちらほら聞かれるようになってきます。

しかし、僕の場合は、そう簡単にいきません。他のNGOとは規模が違う。何せ、当時、この国で、最大の援助組織です。影響力が大きすぎる。危険を感じているのは、外国人だけではありません。住民も迫り来る危機を敏感に感じ取っています。そして、政府が全く頼りにならないことも。ですから、もし、僕が事務所を閉めて逃げ出せば、住民たちにとっては最後の頼みの綱がなくなるということで、いよいよ絶望感から故郷を離れる人がふえ、大量の難民が生まれることになるのです。

そういったなかで、僕は、このマケニという人口10万人ぐらいのまちで、市会議員に任命されます。外国人でありながら。周辺国を見ても、こんな例は歴史上あまりないとのことでした。シエラレオネは、国の下に13の県がありますが、基本的に全土が農村とジャングルです。地図上で区分けされた県行政というよりも、マケニのような主要市街地を囲むまとまりの方が、より大きな独立した行政力を持ちます。ですから、市議会というのは、国会に次ぐ“権力”なのですが、国が当てになりませんので、ほとんど独立した小国家という感じです。その極みは、「まちの防衛」です。

得体の知れないゲリラが着実に忍び寄ってくる。でも警察も軍隊も当てにならない。こんな時、住民はどうするか。そうです、自分たちで戦おうとするのです。マケニ市議会は、自警団を組織することになりました。あまり当てにならないですが、一応警察署長の指導の下に。若者たちが、ほとんどクラブ活動のノリで、どんどん名乗りを上げてきます。数十人のチームをつくり、夜間パトロールと称して、市議会や県立病院、そして僕のNGOの事務所などまちの主要施設を、古びた骨董品に近い狩猟ライフル、マシェティと呼ばれる長い刀などで武装した若者たちが、練り歩くのです。

しかし、しばらくすると、手がつけられなくなってきます。まちでよそ者を見つけるやいなや、「RUFゲリラだ!」と皆で袋叩きにし、最後には、重ねた古タイヤの中に押し込み、それに火をつけて生きたまま火あぶりの刑に処し、そのまわりで踊り狂う、ということがはじまりました。もちろん、そうやって殺されたよそ者が、本当にRUFだったのかどうかを調べるすべはありません。そして、市議会で問題にすることもありませんでした。RUFでなかったとしても、よそ者の人権を配慮する余裕など、僕にも、誰にもなかったのです。僕のNGOも、市議会の面々も、迫り来る恐怖に内心おびえながら、しかし、その恐怖に駆られて逃げ出すような行為に出ればそれこそRUFの思う壺。いや、自分たちが正気である振りをやめたら、まち全体が正気をうしなうのではないか。これは、責任感というより、正気を失った民がRUFと一緒に、自分たちにはけ口を見出すのではないかという恐怖。これらの板ばさみになりながら、平然を装い続けていたのです。

今考えると、僕自身も、まともな精神状態であったとは言える状態ではなかったと思います。そうこうしているうちに、僕の4年間のシエラレオネの任期は終わり、1992年の春、僕と家族は次の任地ケニアに向かうことになりました。任期完了の間際になって、手塩にかけて育てた現地スタッフが2名、RUFゲリラに射殺されたこともあって、後ろ髪を引かれる思いでしたが。その後も、内戦は、どんどん激化してゆきます。僕が出た1年後、「プラン・インターナショナル」は遂に完全撤退の決定をし、RUFはマケニに侵攻し、当時100名ほどいた現地スタッフの消息は途切れます。その後、内陸部を中心にこの国の半分以上をRUFが征服したときには、マケニはRUFの本部となりました。

僕は、ケニアの後もエチオピアと、都合10年余をアフリカ大陸で勤務し、NGO業界から足を洗いますが、常にこの後ろ髪を引かれる思いが途切れることはありませんでした。そして、シエラレオネを出てからちょうど9年後、この内戦を終結させるために国連が組織した国連PKO(平和維持活動)の幹部として、この国に舞い戻ることになります。

*今回は、革命がゲリラ化し、凄惨な内戦へと泥沼化していった過程を書きました。次回は、この内戦をどう終らせたかを具体的に書きますので、お楽しみに。

さまざまな心残りとともに後にした「第二の故郷」シエラレオネ。
再びその地を踏んだ伊勢崎さんが、内戦終結と平和構築のために
取り組んだこととは? 次回もご期待ください。

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