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伊藤真のけんぽう手習い塾(第60回)

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「自衛のために軍隊を持つ」ことには、どんなメリットとデメリットがあるのか。
そのとき私たちは、どんな事態を想定しなくてはいけないのか。
引き続き検証していきます。

いとう・まこと1958年生まれ。81年東京大学在学中に司法試験合格。95年「伊藤真の司法試験塾」を開設。現在は塾長として、受験指導を幅広く展開するほか、各地の自治体・企業・市民団体などの研修・講演に奔走している。近著に『高校生からわかる日本国憲法の論点』(トランスビュー)。法学館憲法研究所所長。法学館のホームページはこちら「伊藤真のけんぽう手習い塾」から生まれた本です。
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第60回:武力と防衛(3)

「被害者の過失」で、違法行為は正当化されない

 沖縄で米軍兵士による性暴力が繰り返されています。こうした報道のたびに被害女性の不注意をあげつらう人たちがいます。日頃、愛国心を声高に叫ぶ人たちの間から、被害者たる自国の女性よりも加害者である米軍をかばう意見が出されたりするので呆れます。

 強姦、痴漢などの性暴力に限らず、いじめ、ストーカーなどでも、被害者の落ち度を指摘する人たちがいます。法律の世界ではこれは明らかな誤りです。どんなに被害者に過失があっても、故意に行われた犯罪の成立が否定されることはありません。鍵をかけ忘れたために空き巣に入られた場合であっても、その空き巣は窃盗罪として処罰されるのと同様です。

 また、民事の損害賠償においても、これらの不法行為が成立する際に、被害者に過失があったとしても、加害者はその責任を免れることはできません。せいぜい損害賠償の額が減額されるだけです(過失相殺、民法722条2項)。

 たとえ被害者に思慮不足や過失があったとしても、そのことによって、加害者の違法行為が正当化されるわけではないからです。加害者として責任を取らなければならないのは当然のことです。

「権力の側にいる」快感の怖さ

 それにしても、軍隊は人を人として見ないようにする訓練をし、人間の尊厳を失わせるような過酷なしごきによってどのような命令にも服従する新兵に鍛え上げるといいます。市民社会の価値観とはまったく逆の集団なのですから、市民社会のルールを守らせるのは容易ではありません。軍隊という殺人集団の基地が存在する限り、こうした市民が犠牲になる事件を根絶することはできません。

 市民社会にとって脅威となる武器を扱い、市民社会を危険にさらす恐れのある暴力装置であるがゆえに、規律がもっとも要求される組織が軍隊であり、自衛隊です。イージス艦「あたご」の事件は、日本の自衛隊が、そうした最低限の組織としての体裁をなしていないことを露呈しました。これまで検討してきた文民統制以前の問題です。

 1000倍もの大きさがあるイージス艦が漁船を前に回避行動を取らなかったのは、ある意味で自然のことです。私も昔、トラックの運転手のバイトをしていたときに、大きなトラックに乗っているとまわりの車の方が避けてくれるので、つい気が大きくなってしまった経験があります。

 司法試験合格後の検察修習のときに、電話一本で銀行の支店長を呼び出すことができる驚きと、それにある種の快感を覚えそうになる自分への怖さを感じたこともありました。

 大きな力をもった権力の側にいると、人はつい勘違いしてしまいます。特に強力な武器を扱う自衛隊、軍隊であればなおさら、その危険があるのですから、そうした組織をコントロールすることは本当に至難の業なのです。

 さて、本題に戻りましょう。これまで、どのような条件が整えば、軍隊を、正しくコントロールして国民の生命・財産を守る組織として維持できるのかという問題提起に対して、文民統制を検討してきました。

 軍隊という市民社会とはまったく異質な組織をいかに民主的にコントロールするか、その手段とその実効性をしっかりと吟味しないと市民社会にとって重大な結果を招きます。しかし、今の日本ではこれを機能させるだけの、議会制民主主義の基盤が成熟していないというのが私の結論です。

戦争の「加害者になる」という覚悟を持てるのか

 次に、軍隊を持った場合に決断しなければならない、いくつかの論点を指摘しておきましょう。つまり、現在は9条があるからあまり考えずにすんだ問題が、軍隊を持つことによって顕在化してくることがあります。そうした問題について予め、私たちは覚悟を決めておかなければなりません。

 さて、まず第1に検討しておくべきことは、軍需産業、武器製造との関係です。軍隊を持つことは、軍需産業からは当然、歓迎されるべきこととなります。日本でもアメリカのようなさまざまな戦争請負会社が生まれることでしょう。目ざとい人材派遣会社はワーキングプアや貧困に着目して、アメリカのように兵士や戦争請負業務への人材派遣を始めるかもしれません。それを新たな雇用創出として歓迎するのでしょうか。

 また、軍隊を持つ普通の国になるのですから、世界に誇る日本の科学技術は軍事利用が可能となります。武器輸出も解禁されるはずですから、世界最先端のロボット技術を活用して、さまざまな無人殺人兵器を開発し、外国に売り込むこともできるでしょう。日本の技術を使った兵器が世界中で人殺しを促進することになります。

 軍事予算がつくことによりますます研究開発が進むというメリットがあるかもしれませんが、こらからの理系技術者、研究者は自分の研究が戦争に使われる可能性を常に意識しなければなりません。その精神的負担は相当なものだと推測されます。町工場の金型技術さえ、軍事利用がなされ、こうした一般市民も世界の戦争に加担していくことになります。

 軍隊を持たない現行憲法の下ですら、武器輸出の一部解禁が行われようとしているのですから、軍隊を持つ普通の国になったら、それがいっそう促進されることは明らかです。武器の開発・製造のコストを下げるためにも需要を増やさなければならないのは当然の成り行きでしょう。

 日本が軍隊を持っても、外国を侵略するわけではない、戦争をするわけではないと言われることがありますが、それは直接的には海外で戦争に加担しないというだけであって、こうした武器製造と輸出という点では、むしろ積極的に世界中の戦争に加担することになることを理解しておかなければなりません。

 現在も油を提供したり、軍資金を出したりして立派に戦争に加担しているのだから、武器の製造輸出くらいでガタガタ言うなと言われそうです。ですが、今以上に多くの国民が直接的に戦争の加害者になるという覚悟をはっきりと決めておかなければならないことは確かです。

軍事費の膨張を食い止められるのか

 次に、軍事費の膨張をいかにくいとめるか、その方法もしっかりと確立しておく必要があると考えます。国防のためにどうしても必要だと言われた場合、その予算を削るには相当な力量が必要です。

 たとえば、現在進められている弾道ミサイル防衛計画も1兆円を投じて、果たしてどれだけの効果があるのか疑問です。昨年12月に、海上自衛隊のイージス艦「こんごう」から発射されたミサイルによる弾道ミサイル迎撃実験に成功したとのニュースが流れました。

 標的のミサイルが発射される場所、時間、飛行コース、標的ミサイルの特性など必要データはすべて事前にわかっていて、それを待ちかまえて打ち落とすのですから、成功して当然の実験です。

 この成功をみて日本が安全になると思うのは、「高射砲一門が配備されたのを見て、『これで爆撃機を追い払える』と信じるような勘違いだ。」との専門家の指摘があります(世界2008.3「ミサイル防衛の陥し穴」田岡俊次より)。

 1発53億円という、実験で使うのもちょっと躊躇するような金額のミサイルですから、仮に実戦配備されたとしても、気の遠くなるような予算が必要となるのでしょう。私たちの生活にかかわる年金、医療、教育などをあと回しにして、こうした武器に税金を使う覚悟ができているのでしょうか。

「アメリカの下請け」に徹する?

 そして、さらに覚悟が必要なのは、核保有です。抑止力としての軍隊というからには核を持たなければ実効性がないという主張が必ず出てきます。特に中国との軍事バランスを考えると日本も核武装するべきだという声が聞こえてきそうです。確かに抑止力として軍隊を持とうとするのなら、核保有まで徹底しなければ意味がなさそうです。

 ですが、日本が核不拡散条約から脱退して核武装に走ることをアメリカ、ヨーロッパ諸国が黙認するとはとても思えません、相当な経済的、政治的リスクを負うことになるでしょう。その覚悟があるのか。この点もよくよく考えておかなければなりません。現実的には日本の核武装は国際情勢からみて不可能と思われます。

 すると、考えられるのは日本としては通常兵器のみの軍隊を持ち、核武装に関しては米軍に任せる。つまり、依然として米軍の核の傘の下の軍隊に甘んじるということです。肝心なところを外国に握られた軍隊をあえて持つことに意味はあるのでしょうか、

 アメリカの下請け軍隊に徹する覚悟があるのか、アメリカのために日本の若者の血を流す覚悟があるのか、それを命じる覚悟が政治家にあるのか、こうしたことを軍隊を持つというのなら確認しておかなければなりません。

海外での軍事行動をどこまで容認するのか

 この点はなにもアメリカとの関係だけではありません。他国とどのような軍事同盟を結ぶのか、集団的自衛権については認めるのか、依然として行使できないとするのか、この点も明確にしておく必要があります。たとえ軍隊を持ったとしても、専守防衛に徹する、けっして外国に派兵することはしない、集団的自衛権は行使しないと憲法に明記することも可能だからです。

 ですが、このような改憲では軍隊を持った意味がないという改憲派が多いのではないでしょうか。軍隊を持った場合、海外での軍事行動についてどこまで容認するのかは事前にしっかりと議論しておかなければならない重要論点であることは確かです。

 自衛のためという名目であれば、アメリカのように海外で戦争をするのでしょうか。しかし、軍隊を持って、さらに軍備を拡張していけば戦争に勝てるという時代ではなくなりました。世界最大の軍事国家であるアメリカがあれだけ苦戦しているのです。

 イラク戦争を見ても明らかなように、たとえ自衛戦争であっても、もはや軍事力では解決できない時代になっています。そして、海外に出て行くのであれば、日本がこれまでとは違ってはっきりと攻撃の標的になることを私たちは覚悟しなければなりません。

 仮に、集団的自衛権も行使せず、海外派兵を禁じて、自国の防衛に徹する軍隊を保有する場合であっても、中国と核抜きで軍事的なバランスをとりつつ安定したアジアの安全保障体制を築きあげるのは、相当困難な道だと思われます。

 現在のバランスを壊して新たな軍事的均衡を作り出そうとするのですから、それは安定よりも緊張を招くと考えるのが自然ではないでしょうか。明治憲法時代に71年間もアジアへの軍事侵攻を繰り返してきた日本が再軍備するのですから、近隣諸国の立場にたってみれば、その緊張感は並のものではないはずです。他国へ軍備拡張の口実を与えるだけだと思われます。

 こうしたさまざまな問題点について、明確な展望がない限り、軍隊を持つことに同意することはできません。次は、非暴力による抵抗について検討してみます。

「国を守るためには軍事力が必要」と言うのは簡単。
けれどそのために、私たちは「戦争の加害者になる覚悟」をも持てるのか、持つべきなのか。
日本の再軍備が招くのは、安定なのか緊張なのか。
一つ一つの問題点を、きっちりと検証していく必要があります。


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