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日中異文化研究者であり、『ほんとうは日本に憧れる中国人』
『中国人の愛国心』などの著書である、王敏(Wang Min)さんに
インタビュー形式でお聞きいたしました。

第24回
ドイツ
「日米同盟とアジアの中の日本と憲法9条」グリット・オーセ
カトリン・ハドバ 王敏(Wang Min)
法政大学国際日本学研究所教授。
1954年中国河北省生まれ。
大連外国語大学日本語学部卒業。
四川外国語学院大学院修了後、宮城教育大学に留学。
東京成徳大学教授を経て、現職。
人文科学博士(お茶の水女子大学)。
専攻は日中異文化研究・宮沢賢治研究。
『謝々!宮沢賢治』(河出書房新社)、
『中国人の愛国心』(PHP新書)など
著書、訳書を多数発表。
インターネットの普及で変化した世界と日本

  ――今年初めにネット上で行ったマガ9版国民投票では、「憲法9条を変えて自衛軍をもつべき」という意見が多数を占めました。その理由として少なからず寄せられたのは「軍事大国である中国に攻められたらどうする?」という、いわゆる中国の脅威です。

  ただ、中国脅威論はこれが初めてではありません。かつては「日本企業が労働力の安い中国に生産拠点を移すから日本の産業が空洞化する」とか「日本のバブル経済崩壊後、アジアでは新たに中国がヘゲモニーを握る」などとメディアで騒がれました。そしていまでは、日本の景気が中国経済に依存している状況です。

  中国脅威論とは、何なのか?実は日本国民の不安の裏返しなのではないか? 日中の文化の違いをよく知る王先生に、そうした点についてうかがいたく、研究室までお邪魔した次第です。
  早速ですが、戦争放棄を定めた9条の改定に対するネット投票での圧倒的な賛成の声をどうご覧になりますか。

  投票の結果は、日本の社会が変わらざるをえなくなった、日本一国としてだけで成り立つ時代ではなくなったことを示していると思います。日本人が変わりたいか否かにかかわらず、世界が変わったから、相応に日本人の憲法意識にも変化が見られるのでしょう。日本国憲法9条を変えるか変えないかを決めるのは日本国民です。ただ、かりに「中国の脅威」が原因であれば、それは憲法を変えるほどの力になれるかどうかを、よく考えて頂きたいです。

――世界が変わったとは?

  インターネットの普及です。これによって、人間の物事に対する感じ方、受け止め方、表現方法が無意識のうちに変化しています。
日本はこれまで世界でも稀にみる“安全な国”でした。明治時代の日本を訪れた中国の研究者や西欧の外交官が書いたものを読むと、当時も日本は治安のよい国だったようです。9条改定の理由として、「誰だって戸締りはする。国の防衛も同じこと」というものがあったそうですが、むかしの日本の社会では家の鍵をかける必要はありませんでした。
“安全”と感じられたのは、「以心伝心」という伝統文化の土壌が豊穣だったからとも思います。

  ところが、いまの日本はどうですか? 鍵をかけないといけませんね。いや、鍵をかけたって泥棒に入られる時代です。日本社会はそうした不安に揺れ動いていると思います。人と人とのつながりや安心感は、規則としてどこかに書かれているわけではありません。大江健三郎さんがノーベル文学賞の受賞式で行ったスピーチ『あいまいな日本の私』のように、日本文化の特徴は論理的なものではなく、もっとやわらかいものなのだと思います。

――日本が変わったというのは、その「曖昧さ」がなくなってきたということですか。

  インターネット上で表現する場合、白か黒か、イエスかノーか、の答えを迫られます。それと、いままでの曖昧な「私」がぶつかり合っているのです。

――ネット上での「9条改定すべし。自衛軍を保持すべし」という意見も、「曖昧」でいられなくなったことの表れなのでしょうか。

  インターネット以前は、9条はさほど議論されませんでした。なぜ今それが起きているかというと、内外との関わりが、むかしとは比べものにならないくらい増えたからです。見られない、聞かれない、知らされていないような外国からの情報も、インターネットを通して入ってきてしまう。

――それによって反発も強くなる。

  西洋との関わりから明治維新が起きました。その後、いくつかの戦争があり、第二次世界大戦での敗戦後にアメリカに占領されて、新しい憲法が生まれました。日本の大きな変化は常に外国との接触によって生じているのです。
 日本の近代化を最初から見つめた夏目漱石は彼の最後の講演『私と個人主義』で、日本の近代化は常に外発的なものだと言いました。はたして日本人に、変わろう、自我を実現しようという意志がどれほどあるのか、と漱石は危惧していたのです。日本は戦後、経済的に成功し、豊かな社会になったにもかかわらず、漱石の時代から続いている思想課題は解決されていません。
 日本が何でも西洋の真似をすべきだとは私は思いません。日本には日本のあり方があるでしょう。ところが、日本がいろいろと模索しているうちにインターネットが普及し、ネット上では世界がひとつになってしまったのです。

――日中関係の悪化もインターネットによる影響が大きいとお考えですか。

  2005年の中国における反日デモは、アメリカに住んでいる華僑がネットで発信したのが始まりだそうです。それを通して、韓国や香港、そして中国に広がりました。
人間は十人十色とはいえ、インターネットで入ってくる大量の情報を処理できなければ、人々は単純な発想に導かれたり、短絡的な回答を求めたりするようになるでしょう。情報が多ければ多いほど、人間の思考も複雑化しなければならないのですが、現状では人間の思考が対応しきれていない。とくに若い世代には、ひとつの角度から物事をみて結論を出したがる傾向が強くなっていると思われます。

日本とは、日本人とは何かを改めて整理してみる

――日中間では、とりわけその傾向が強いですね。

  たとえばヨーロッパが日本を批判しても、日本人は中国に対するような反発はしないでしょう。というのも、日本人には「西洋人は私たちとは違う」という認識があるからです。だから西洋に対して自分たちのことを理解してもらおうと働きかけもするわけですが、中国に対しては異文化という意識をあまりもっていないかもしれません。

――お互いに同じだと思っている。

  その大きな理由は同じ漢字を使っていることです。日本と中国は同文同種の国と言い習わしてきた見方はほとんど変わっていません。それで日本人は中国人と考え方や価値観が同じだと思って、相手に十分説明しようとしないのです。だから反発を受けると「(中国人は)そんなことさえわからないのか」と怒ってしまう。

――たとえば中国語でいう「愛人」は妻や夫という意味で、日本の場合とはぜんぜん違うと先生は著書(『中国人の愛国心』)で書かれていますね。

  こうした違いは、実はとても大きいのです。いままで日本では異文化として中国を分析することが少なかった。でも、中国との違いを知ることで、自ずと「日本とは何か」「日本文化とはどういうものか」を考えるようになる。いくら外国のいい文化を吸収しても、日本人の考え方の基本が変わったわけではありません。それらを受け入れたのは、日本なりの理由があったのです。

――戦後の日本が9条を受け入れたのも、それを受け入れる土壌があったからなのでしょうね。ところで、先生は中国人と日本人の思考スタイルとして、中国人は歴史を軸にしたタテの視線、日本人は周囲を見ながら考えるヨコの視線という違いを挙げています。何か問題が生じた時、歴史から学ぼうとする中国人に対して、日本人は国際社会の動向などを見ながら正しい方向を考えようとするという指摘が面白いと思いました。

  中国人犯罪が日本で問題になっているのは事実ですが、本来中国は倫理道徳が主導する国です。孔子以来、あるいは孔子よりもっと前から、それが連綿と続いています。途中で共産主義が国是となっても、基本的な姿勢は古来変わっていません。主義主張の中身はどうであっても、大義名分に基づく思考回路や、行動様式は方法論としてはそう変わらないです。日本はそういうことをしてきませんでした。しなかったからこそ、倫理道徳とぶつかることなく、外国のものをどんどん吸収できたのだと思います。それがアメリカのものだろうと、ヨーロッパのものだろうと、外国のいいものを感覚的に見分ける能力があると思うのです。

――逆に、外から吸収するばかりで、日本人は自らのことを語るのは苦手ではないでしょうか。

  いいものを見分ける本能的な感覚を重視する人たちの集まりならば、理屈よりも以心伝心で通じる。むしろ何かを主張すると違和感が生じるのです。

――日本人同士で政治に関する議論をしようとすると相手に引かれてしまうことが多い。

  西洋にしろ、中国にしろ、理念重視型の国です。日本人が彼らと付き合う、いわば外国人と肌と肌を触れ合わせるとなると、日本人固有の感性重視タイプの文化と理念の文化の相克が生じます。それを解決するには「日本が自らを整理し、語る」ことが重要なのでしょう。
日本という国のあり方は世界でも少数派で、多くの外国人の目には神秘な国と映っています。「日本人は何を考えているかわからない」と西洋人は言いますが、それは中国人にとっても同じ。その「わからない」は決して悪意から言っているわけではなく、本当に「日本がわからないところがある」のです。

――そうした認識がないために、靖国参拝に対する中国の批判を「悪意」と受け取って逆上してしまうのでしょうか。

  いま中国と日本に必要なのは互いに通じ合う回路なのです。海の魚と川の魚に違いを知ってほしいと思います。「私も魚、あなたも魚。だから一緒」と思ったら大間違い。日本人は「同じ人間だから、分かり合える」とよく言いますが、それは日本人の間でのこと、他国の人との間では通じない考え方がたくさんあると考えられましょう。

――海の魚にとっても、川の魚にとっても、これがなくては生きられない、共有するものが必要となりますよね。その点で先生は文化を重要視されています。

  海の魚と川の魚の共生は政治や主義主張とは別の次元の問題かもしれません。政治や主義主張には造られた観念的なところがありましょう。しかし、たとえば海の魚が川の魚を気に入れないといって殺してしまうのが何かの解決になりますか? また、海の魚を川で生活させようとしても、それは無理でしょう。姿かたちは同じでも、生態が違えば生き方も違いますから。
  しかし、何らかのかたちで共生しなければなりません。問題を解決するためには、お互いが相克のところを克服しあい、譲り合い、協調しないといけないでしょう。その役割を果たすのは政治よりも自然無為の「生態」づくりが大前提となりましょう。

似ているようで異なる日本と中国。
それはまるで、海と川の魚のようだと、
王先生は ユニークな例えで指摘します。
次回は、異なる“生態”を持つ私たちの共生の方法や
憲法9条について、さらに展開します。
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