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世界から見た今のニッポン

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第42回

ドイツと日本にルーツを持つ、持留ヨハナエリザベートさんからの投稿です。
「いったい自分は何人(なにじん)なのか?」 そんな問いと向き合い続けた、
ご自身の少女時代を振り返ってくれました。

せっかく日本の国籍、選んだのにー(その1)持留ヨハナエリザベートさん

持留(もちどめ)ヨハナ・エリザベートドイツ人の母と日本人の父の間にロンドンで生まれる。小学校から東京へ。東京大学卒業後、糸あやつり人形結城座で人形遣い、舞踏和栗由紀夫+好善社の制作など舞台関係の仕事に従事。子どもを授かって八ケ岳の古民家に移住。ご主人の和也さんと営む持留デザイン事務所でWeb制作の傍ら、自然農の畑をする「半農半X」の暮らし。
http://otsukimi.net/

小学生の悩める「国籍選び」

ヨハナといいます。ドイツ人の母と日本人の父との子として、ロンドンで生まれました。今は日本人の夫と、八ケ岳に暮らし、二人の男の子がいます。小さい頃はイギリス、ドイツ、日本3つのパスポートをもっていました。成人したら「何人になるか」を選べる。ところが、これが、私たちきょうだいたちの間では大問題でした。

小学校低学年の頃から東京に住んでいるのですから、日本人になるのが自然な流れしょう。でも、まだまだ外国の血が入っているともだちが同じ小学校にいることなどめずらしかった昭和40年代。インド人もアフリカ人もめずらしくない、コスモポリタンな雰囲気のロンドンの小学校から、いきなり日本の小学校に移って来てみれば、ハーフにしてはややドイツ寄りの「ガイジン」顔の私は、よいにつけ悪いにつけ「浮いて」いたのです。

仲良くなれば「英語おしえて〜」けんかすれば「大陸の血が入ってるから考えが合わない」・・クラスの情勢でころころ対応の変わる仲良しグループの間には入れず、ムーミン谷でいえばスナフキンぐらいの距離感の中で、釣り糸を垂れる川縁に寄ってくるような子と、一対一の友だち付き合いを保って、暮らしていたのでした。

もっといやだったのは、近所の男の子たちでした。当時、日本語のできない子は教育委員会が受け入れてくれなかったので、公立小学校に行けず、私はバスで私立小学校に通っていたのでした。バスを降りての帰り道、近所の男の子が囃し立てるのです。「やーい、アメリカじん〜」(ドイツ人だってば!しかも、半分は日本人なんだよ!)けど、なんにも言い返せず、下を向いてそのまま家に帰るのでした。

何人(なにじん)でもない、宙ぶらりん

いろんな顔の子がいるロンドンの学校では「何人」なんて意識したことなった、しないで済む感じだった。ロンドンの学校はこんなに窮屈じゃなかった、よかったなあ・・とロンドンシックにかかる一方で、私の嗜好は、お相撲にはじまってその頃テレビでやっていた「南総里見八犬伝」「真田十勇士」の世界にはまり、高学年になると落語、思春期以降には文楽・・と、どんどん古きよき?日本にはまっていくのでした。「日本人より日本人らしい子だねえ」という(日本人でない子に対する)讃辞を受けながら・・どこまでいっても、私は日本人じゃないのね。

ところが、日本に来て3年目の夏、ひさしぶりにロンドンに行った私にはもっと大きなショックが待っていました。そこで私は「日本に帰ったともだちが遊びに来た」子に過ぎなかったのです。日本にいれば「ガイジン」、ロンドンに行っても「日本人」。自分がこうもりのようでした。その後、帰ったドイツの実家はさらに遠い世界。ドイツの田舎、森の中の製粉所。母はそこで生まれたけれど、私は東洋の血の入った、はるばる遠くから来た孫にすぎないのでした。それでも、昔ながらの、自給自足に近いそこの生活、さまざまないちごを摘んで歩ける森は、なにか私にルーツを感じさせるものではあったのですが。(八ケ岳で畑をしながら家族で住んでいる今の暮らしへの志向は、そこからはじまっていたのかもしれません)

そんな宙ぶらりん状態だったのと、友達や近所になんとなくなじめないこともあって、私は本ばっかり読んでる、わりと内向的な子でした。もうずっと日本にいるんだろうな、と分かってはいるのに、どこか「ここじゃない」という感覚がつきまとっていて、かといって「どこならいい」という座りのいいところがあるわけでもなく、しかも「おとなになったら国籍を選ばなくちゃならない」ということは相変わらず重大問題としてあるのでした。

日本はもう戦争しないらしい!

きょうだいで話すことがありました。「ねえ、国籍、どうする?」弟の間で交わされるこの話題は、なんとなく親には内緒でした。どっちか、と言ってしまうとどっちかににつくようで、どちらにも言ってはいけないように思えたのです。手塚治虫の「アドルフに告ぐ」を読み終えたばかりの私にとっては「戦争になったらどこにいたって、もう半分の血が問題になる」ということを察していて、それは大問題だったのです。「日本とドイツが戦争しなきゃいいよねえ」「この前の戦争では味方だったけどねえ」「いつもそうとも限らないしね・・」

そこで私は学校で習っていた「いいニュース」を弟に伝えたのでした。「けどね、日本は憲法で戦争はもう絶対しない、って決めたんだよ」「そうなんだ・・じゃあ、安心だね!」ドイツには軍隊がある、徴兵がある・・それはよく知っていたことでした。隣の家まで4kmも離れている、深い森の中の一軒家だった製粉所のまわりの森の南半分は、鉄条網で囲まれていました。NATOの基地だったからです。中は見えないけれど、迷彩服の人やトラックはしょっちゅう見かけていました。

戦争しない国?軍隊のない国?

ほんとうに日本は戦争しないのかな・・それでも心配になってしまうきっかけがありました。中1の夏、ひとりでドイツに行った私は、居候していた叔母の家のテレビのニュースで見たのです。中国の軍隊が射撃訓練をしていました。その的にあった簡体字が読めてしまった・・そこには「打倒日本!」と書いてあったのです。「戦争しないって言ってても、やられた国は忘れてない。いつか戦争になるんじゃないかな・・」憎まれている国にいるんだ、ということが、たまらない気持ちがしました。このことを、学校の同級生は知らない・・大人は知ってるんだろうか・・なんとなく言ってはいけない秘密を見てしまったような気がしたものです。

もう少し年が経つと、ドイツの従兄のローレンツがギムナジウムを終え、兵役に行くようになりました。絵を描くのが好きで、少しぼおーっとしていて、夢見がちのロー、私の大好きな従兄。兵役ではたいした役にはつかなかった(通信兵とかいうの)ようですが、それでも、任期を終えて帰って来た彼は「こわれて」しまっていました。地下室にこもりっきり・・大学にも行かず、仕事に就くわけでもなく、叔母からの話によると「木の実しか食べてない」というのです。「人を殺してはいけない」という倫理の中で育って来た少年が「人を殺す訓練」をしに、軍隊に行かされる。繊細な子であれば、こわれてしまう。そのことを目の当たりにしてしまいました。

「スイスは永世中立国らしいよ」弟が言います。「でも、軍隊があるじゃん」「う〜ん」。国選びの話は、直接関係がある国を越えて広がっていきます。戦争をしないと誓った国が、軍隊をもつ。自分の国を守るために? でも、もっているのは人殺しができる武器じゃん、それって変・・・「力で力を制し、平和という均衡を保つ」抑止力、パワポリティクスという論理は、こどもの私たちの感覚には理解できないものでした。大学で学ぶ国際関係論。「国際平和」がテーマの授業で軍備の話がでてくるのに違和感をおぼえたのは私だけでないと思いますが・・

そして、母となり・・・
「私は、ほ乳類!」であることを再発見

そんなこんな、いろいろな断片があり、積極的な根拠があったわけではなく、でも「戦争放棄」という足かせはかかっている国の方がいいよな、ということで日本の国籍を選び(というより、ほかを選ばなかったので自動的に日本人になり・・)日本の選挙権をもち(母はドイツ人のままでいるので、選挙権をもっていないのです。ずっと日本に住んでて、住民税払ってるのになぜ?と、いつも言ってます)、自分なりの居場所が見つかっていくにつれて、戦争や平和のことはアタマから離れている時期が続いたのでした。

そして、いつしか、私も母となり・・。最初の子どもは、陣痛がはじまってから生まれるまで二泊三日もかかる大難産でした。寝ることも食べることもできず、痛みと疲れで朦朧としてくると、一泊目は暗くて冷たい夜の海を漂っているような感覚になってきました。それで翌日になっても生まれず、まさかの三日目にには「本当に生まれてこられるのかしら・・」という思いもよぎり、同時に自分がこの子のいのちを信じなければ、生まれてこられないじゃないか!という強い気持ちも交錯し、いつしか別の夢に入りこんでいたのでした。

その夢で私は「コソボ難民」でした。コソボは知らない土地ではありませんでした。大学卒業後、舞台の仕事をしていたことがあり、チトー大統領亡きあとの混乱期ユーゴの7都市巡演というツアーメンバーとして訪れたことがあったからです。「こんなにちがう人たちが、おんなじ国なんだから、大変だよな〜」と、その時にもよそ目ながら思ったものでした。その旧ユーゴでの戦争ということで、世事に疎かった私にもどこか身近なこととして感じられていたからでしょうか。出産という極限状態の中で「自分はコソボ難民」になっていたのです。

真夜中。生んだ男の子と血だらけの猫とを連れて、私は素足で国境をめざしていました。国境を越えた向こうは(現実とは違いますが)オーストリアで、ぼろぼろに疲れきっていた私はカフェに入り「水を一杯」とせがむのでした。水が唇を潤すのと、長い出産による強い黄疸状態でこどもが生まれたのが同時でした。裸の肩に、大きなほくろを認め、現実に帰ったのですが、その時、なによりも強く思ったのでした。「この子は戦争で殺されたり、殺したりするために生まれてきたんじゃない」と。

戦争や政治のことを考えるという風でもなかった私がなぜ、その瞬間にそう思ったのかは、謎です。いや、むしろ、それは自分の指向性以前にある動物的な「母としての感覚」なのでしょうね。自分からしぼりだずおっぱいで大きくなっていく子どもを抱く毎日の中で、私は人間である以前に「ほ乳類なんだな」と実感するようになってきました。イギリス人、ドイツ人、日本人、いや人間、いやほ乳類・・と私はどんどんより深く深く、ルーツを遡って行っているようなのでした。

悩みの末に日本国籍を選び、そして母親となったヨハナさん。

家族とともに日本に暮らす彼女が今、感じること、思うこととは。

後編をお楽しみに。

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