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世界から見た今のニッポン

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第43回

「私は何人?」と、常に胸に問いかけながら成長したヨハナさん。
日本国籍を選び、家族とともに自然の中に暮らす今、思うことは?

せっかく日本の国籍、選んだのにー(その1)持留ヨハナエリザベートさん

持留(もちどめ)ヨハナ・エリザベートドイツ人の母と日本人の父の間にロンドンで生まれる。小学校から東京へ。東京大学卒業後、糸あやつり人形結城座で人形遣い、舞踏和栗由紀夫+好善社の制作など舞台関係の仕事に従事。子どもを授かって八ケ岳の古民家に移住。ご主人の和也さんと営む持留デザイン事務所でWeb制作の傍ら、自然農の畑をする「半農半X」の暮らし。
http://otsukimi.net/

地球上の「ただの人」でありたい!

今、思います。私は日本人でもなく、ドイツ人でもなく、イギリス人でもなく、私なのだ、と。そして、こどもは「よい日本人」にでなく「よい人間」それも人間中心という意味でなく、いのちあるすべてのものとのつながりの感覚をもった「いのち」として育てたい、と私は思っているのだな、と。中学の頃に出会ったジョンレノンの「イマジン」の歌詞がいまいちど、鮮明なものとしてよみがえります。「国っていうものがなかったらって想像してごらんよ。どう?」何人でなくてもいい。地球人でいい。

私の大事なともだちが、こんなことを書いていました。『しかし思うのです。私たちが宇宙へ出て、銀河の外のどこぞの異星人にまぎれて生活するようになったなら、私もあなたも彼等も誰もが、各国全世界のことを自慢するようになるでしょ。「私の星は、ほんとに美しいんですから。私の星にはイタリアという美しい国があって、私の星のアフリカの砂漠の星月夜もほんとに美しい。私の星の南の海は深く碧く、北極の氷山は・・・」って。』世界のすべてが、地球の「一地方」に過ぎないような。どの民族もがお互いに固有の文化や自立的な暮らしをリスペクトしあえる。そんなになっていけばいいのにね。

そんな夢を見ている私なので、国にはそんなに期待してないんです。けれど(だからこそ)国という強制力によって「戦争に行かされる、行かなくても間接的に人殺しの片棒をかつぐ」ということから自由でいたい。人間が国土をもち、国民を擁し、国益をもつ「国」をつくりはじめたのは、長い長い人類史の中でみれば、長くでもほんの数千年のことですよね。そしてそれだけのものをもっていれば「守る」ために「軍隊」がいる、「国家」としてはそれが自然なことなのかもしれません。

幻想から醒めていくプロセス

保育園の友達のこどもがいいました。「アメリカの大統領がブッシュで、日本の首相が安倍さんってことは分かった。けど、地球全体のことをほんとに考えてくれるえらい人って、誰なの?」人の上に国、国の上に強い国、それをどんなに積み上げて行ったところで、こんな簡単な質問にすら、こたえられないのです。

人類も国家という幻想から、そろそろ醒めていい頃なんじゃないのか? そして、人が人を支配し、収奪する世の中から、どう変わって行きたいのか。何世代かかかるとしてもその夢やビジョンをひとりひとりがもった方がいいよ、語り合い、歌い、描き、伝えていった方がいいよ、と思うのです。

国民でなくていい、という感覚

今でも「私は何族ではあるけれど、何国の国民ではありたくない」人だっています。「出草の歌」という台湾の先住民族を撮った映画があります。歌に生きて来た彼らが、世界民族音楽祭に呼ばれます。すると、台湾の国旗が会場にはためく。彼らは抗議します。「あの旗をおろしてくれ」と。

東京にいた頃のお月見友達だった加藤久美子ちゃんが共同監督をした映画「あんにょん・サヨナラ」には、戦争の時たまたま占領下の「日本人」として戦死したために、靖国の英霊として祀られてしまったお父さんの魂を返してください、と靖国神社に申し入れるけれど取り合ってもらえない韓国のおばちゃんがでてきました。

うちの粉挽き屋のご先祖は、宗教戦争でアルザスの国境を越えてドイツにやってきた、もとはフランス人ですが、今はドイツの国民です。私の両親は飛行機のない時代には(シーボルトの娘のイネコさんは例外として)生まれてこないような「あいのこ」です。特殊と見える「マージナル」人、じつはたくさんいます。ひとりひとりを見れば誰だって、かけがえのない、特殊な、固有な私、なのですから。

どまんなかにいるように見えても、私は私、それでいい、という人もいます。自分の深いルーツに触れれば触れるほど、そうなってきます。とすると、やはり、「国」というのもたかだかここ何千年か人類にとりついている「幻想」に過ぎないかもしれません。

国家ってアブナイものだから、
「足かせ」あった方がいい。

人殺しを合法的にできるのは国家だけです。国家が宣戦布告をして戦争になれば、敵を殺しても罪に問われません。それどころか、戦争相手の国の人を殺さなければ、自分が殺されるかもしれない。日常生活の倫理がまったく逆転してしまうのです。

そんな逆転カードを切れるのは、国家だけです。ところが、今の日本は、9条を持たされているので、逆転カードを切れないでいるのです。これは国家としては世にも珍しいことです。ところが、今の日本の中心にいる人たちは逆転カードを切りたくてしょうがない。前の戦争でひどいヤンチャをはたらいたから、その罰として武器を取り上げられ、丸腰になっただけ。早く普通の国家の仲間入りをしたいよ〜と。逆転カードを取り上げに来たアメリカも、半世紀の調教が効いて今ではよく言うこと聞く弟分になった日本に「そろそろおまえも、いいだろう。兄ちゃんを助けてくれよな」と言っているかのようです。

多くの日本人はたくさんの人が死に、多くの町が焼かれ、原爆まで落とされるという情況の中で「二度と戦争がないこと」を望んだことでしょう。けれど、その痛みや恐ろしさが風化してしまうと、日本が逆転カードを切れる「普通の国」になっていることを赦しているのです。普通の人は誰だって「戦争はいやだな」と思うのに、北朝鮮が攻めて来たらどうするんだ・・とか、アメリカに協力しないではやっていけないだろう・・といった新しい脅威やのっぴきならない依存関係をちらつかされると、「いやだけれど、しかたないかな」と思ったり、もっと突き進んで「国を守ることぐらいできなくてどうする!」という強気にまで開き直る人もでてきているのです。

けれど本当は、日本という国家から「逆転カード」を取り上げる主体は、戦勝国ではなく、私たちであるべきなのです。国土をもち、国民を数え、国益を有する国家なのですから、自然な流れでいけば、守ったり攻めたりしたいんです。それを「しない」というのはとっても大きな選択です。その時の国際情勢や戦争の記憶の風化具合に関わり無く、「戦争しない」。「逆転カードを切らせない」ことを国に約束させている9条は、国家が戦争したくでもできないようにしてくれている、歯止めであり、足かせです。それは、これからも、あってほしい。そうでないと、私たちは「殺さない」という自由を選択できなくなってしまうから・・・。

むずかしいことじゃないんです。日本人でなくていい。家族がいて、友達がいて、ここに暮らしていて。今、ここに生きている。いのちが大事。自分が殺されたくないのと同じように、人をも殺したくない。子どもたちもそう生きてほしい。この日常的な感覚のまま、平和に暮らしたい。それだけが私の、望みです。

他人から殺されたくないのと同じように、他人を殺したくもない。
国民というよりは、一人の人間として生きたいという願いを、
自分の経験に重ねて書いてくださいました。
ヨハナさん、ありがとうございました。

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