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雨宮処凛がゆく!

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あまみや・かりん北海道生まれ。愛国パンクバンド「維新赤誠塾」ボーカルなどを経て作家に。自伝『生き地獄天国』(太田出版)のほか、『悪の枢軸を訪ねて』(幻冬舎)、『EXIT』(新潮社)、『すごい生き方』(サンクチュアリ出版)、『バンギャル ア ゴーゴー』(講談社)、『生きさせろ!〜難民化する若者たち〜』(太田出版)など、著書多数。現在は新自由主義の中、生活も職も心も不安定さに晒される人々(プレカリアート)の問題に取り組み、取材、執筆、運動中。非正規雇用を考えるアソシエーション「PAFF」会員、フリーター全般労働組合賛助会員、フリーター問題を考えるNPO「POSSE」会員、心身障害者パフォーマンス集団「こわれ者の祭典」名誉会長、ニート・ひきこもり・不登校のための「小説アカデミー」顧問。「週刊金曜日」「BIG ISSUE」「群像」にてコラム連載。雨宮処凛公式サイト

生きさせろ!
雨宮処凛の闘争ダイアリー

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韓国・働かない者たちのメーデー。の巻

ドイツのプレカリアート系メーデーのポスター。「プレカリアート」という言葉が!

 いよいよメーデーが近付いてくる。数年前の自分が、これほどまでに毎年「メーデー」なんかを心待ちにしようとは誰が想像しただろう。というか、全国インディーズ系メーデーは既に始まっている。4月11日には仙台で「ダテなメーデー」、同日横浜でもプレメーデー、町田では「町田メーデー」、9日には群馬でメーデーが開催された。更に18日には新宿で「女子メーデー」。そして26日頃から本格的に今年もまた「ゴールデン・メーデー・ウィーク」が始まる。

 26日には名古屋で「LOVE&ビンボー春祭り」、29日には熊本で「くまもとならずものメーデー」。昨年は「KY(くまもと よわいもの)メーデー」だったのが、今年は「よわいもの」から「ならずもの」に進化している! しかも告知文がイカしてる。

 "「非正規」雇用労働者よ、ニートよ、ヒキコモリよ、メンヘラーよ、貧乏学生よ、不登校学生よ、プレカリアート(無安定絶望階級)よ、非モテよ、「正規」の生き方から外れた/はみ出した/弾き出されたものたちよ、デスパレード(絶望的)なデスペラード(ならずもの)たちよ、全うな人間になりそこねた「ならずもの」たちよ、ならずものの祭典に集結せよ!"。

 で、メーデーで何をするかというと、第1部は座談会。タイトルは「人間だもの 革命未だならずもの」。2部は「ならずもの大行進熊本決戦」。デモという名の決戦! 3部は「貧困者末端宴会」とダンスパーティー「笛吹けど踊らず」。よくわからないけど何かすごい。とにかくインディーズ系メーデー・熊本のレベルはものすごく高いのだ。

 29日には京都でメーデー。彼らは「まっとうな賃金とまっとうな生活を求めて、自分たちのメーデーをおこなう」と高らかに宣言。
 同日、札幌では去年私も参加した「自由と生存の連帯メーデー09」。
 5月1日には、福岡で「五月病祭り2009 不安定貧民の蠢動@福岡」。彼らの統一要求は「定額給付金を毎月10万円よこせ!」「労働者を使い捨てる経営者を人民裁判にかけろ!」「家賃をタダにしろ!」。素晴らしい。
 同日は阿佐ヶ谷で阿佐ヶ谷メーデー。その日の夜には「自由と生存のメーデー」前夜祭@阿佐ヶ谷ロフト。更にこの日、松本では「メーデー09 生活ヤバイ」が「生活ヤバイ人たち」によって開催される。
 2日には広島で「生存のためのメーデー」。同日東京で「自由と生存のメーデー」の集会@渋谷。
 3日はつくばで「不自由で不安定で窮屈なわたしたちだからメーデー」。同日は東京「自由と生存のメーデー」のデモ@渋谷。
 9日には北海道・北見で「だめ人間まつり」。10日には新潟で「自由と生存のメーデー新潟」。23日には富山で「もうたくさんだ!!祭り」。各地の詳しいことはこちらで。

 そして私が27日から訪れる韓国での日韓連帯メーデーのタイトルが決まった。
「働かない者たちのメーデー あなたにとって仕事って何ですか? 」@韓国・ソウル。
 ここまでのインディーズ系メーデーのタイトルや告知文を見てきて、インディーズ系メーデーのひとつの「流れ」というものがなんとなく御理解頂けたと思う。とにかく「普通の」メーデーとはひと味もふた味も違うのだが、インディーズ系メーデーが存在しない(だろう)韓国の人々に、そのニュアンスが伝わるか不安だった。しかし、バッチリ伝わっていたようで、「働かない者たちのメーデー」というタイトルを見た時には嬉しくなった。世界各国に、似たようなことを考えているワケのわからない貧乏人がたくさんいるという事実にはなんと勇気づけられることか。

 ちなみにこれを韓国で見ている人がいたら、28日午後7時に弘益大前の「空中キャンプ」に集合。また5月1日にはデモ(場所・時間未定)があり、午後8時から弘益大前の「ステレオ」で私と「88万ウォン世代」著者のウ・ソックン氏との特別講義がある。

 ちなみに「働かない」「働きたくない」なんて言葉を見ると過剰に反応する人が多く、例えば私も「雨宮さんはせっかく貧困問題なんかでいいことを言ってるのに、なぜ働かないぞ、なんて言う人たちと一緒にやってるのか」などと良識的な人から言われることがある。が、「働かない」「働きたくない」というのは至極まっとうな要求なのではないだろうか。例えば現在、派遣切りなどを代表する形で失業者やホームレスが増えている。そうなると、「どんなに低賃金で劣悪な仕事でもいいから働きたい」という人が増え、企業はますます人を買い叩き、賃金は下がり労働条件は悪くなる。そんなスパイラルの中にあって、「こんな滅茶苦茶な条件では働かないぞ!」というのは「ワガママ」ではなく、実は雇用の劣化にも歯止めをかけるものではないだろうか。

 まあこれは優等生的な回答で、一方で本当に「働きたくない」という問題もある。というか、私にも「働きたい」という時期と「働きたくない」という時期があるし、誰にだってあるだろう。が、不安定雇用であればあるほど貯金などできないから、どんなに働きたくなくても常に働き続けなければならない。貧乏人は「休む」ことさえ許されないのだ。更には「働く気のない人」はこの世に存在してはいけないようなバッシングにも晒される。だけど、「賃労働をしない」というだけで生存そのものを否定され、「勝手に死ね」というのは実は恐ろしいことではないだろうか。私に「働かないぞ、なんていう人たちと一緒に何かやるなんて」と批判する人の考え方をつきつめていくと、働く意欲のない人の生存には価値がないと言っているようにも聞こえてしまう。「選別」の思想だ。

 というか、貧乏人が働かないと責められるわけだが、多くの本物の金持ちは働いてなどいない。が、彼ら・彼女らが働かずに遊び惚けていても責められることなどはなく逆に「セレブ」とか言われて持ち上げられ、更には憧れられているという矛盾。

 「働かないぞ」「働きたくない」という言葉は人をいつも挑発する。みんなが何か言いたくなる。そこからきっと「働くこと」を巡る議論が始まる。だからこそ、プレカリアートは今後もこの言葉を多用していくだろう。そして「働かないぞ!」なんてプラカードを掲げている人々こそ、実はすごく働き者だったりするという矛盾もまたある。バイトしながら労働組合の活動を無償でやってて過労死寸前とか。

「真面目に働く」ことは美徳だけれど、
「ちょっと働かずに休みたいな」というのも、
誰にでもある自然な感情のはず。
まずは「働く」「生きる」ことについて、
もっともっと議論してみることが必要なのかも?

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