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鈴木邦男の愛国問答

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自他共に認める日本一の愛国者、鈴木邦男さんの連載コラム。
改憲、護憲、右翼、左翼の枠を飛び越えて展開する「愛国問答」。隔週連載です。

すずき くにお 1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ」

『失敗の愛国心』(理論社)

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第21回「主権者の〈手応え〉」

 「主権」って何だろう。高校の授業では「主権は国民にあるんだ。それを主権在民というんだ」と習った。でも、普段、自分が主権者だと意識することはない。選挙の時、近くの小学校(におかれた投票所)で投票する時。「おっ、今俺は主権を行使してるぞ」と思う人がいるかもしれない。でも、それは妄想だ。誇大妄想だ。何千万票かあるうちのたった一票だよ。砂漠の一粒の砂だよ。全体への影響なんか全くない。そんなものが主権かよ。主権というからには、もっと大きなことじゃないのかな。
 だって憲法の第一条に「国民主権」って書いてるんだし。じゃ、とてつもなく大きな権利なんだ。『広辞苑』第六版(岩波書店)を引いてみた。

主権(しゅけん) 
1.その国家自身の意思によるほか、他国の支配に属さない統治権力。国家構成の要素で、最高・独立・絶対の権力。統治権。
2.国家の政治のあり方を最終的に決める権利。

 やはり巨大な権利だ。これが我々一人一人にあるとは思えない。特に、1だ。これは国家そのものにあるものだ。国民とは関係ない。じゃ、2か。でも、「最終的に決める権利」なんかない。明治憲法の時は、天皇に主権があった。といっても多数が決めた事には反対できない。立憲君主制だからだ。じゃ主権者じゃない。でも、ポツダム宣言を受けるかどうかの御前会議の時は賛成・反対が同数なので、天皇の考えで、受諾が決まった。これだったら、「最終的に決める権利」といえる。でも、こんなことはめったにない。例外中の例外だ。
 新しい憲法では主権は天皇から国民に移ったという。それを強調する為に第一条では「国民主権」を書いている。

【第一条】 天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権者たる日本国民の総意に基く。
 ということは、天皇制がずっと続くか、あるいは、もうやめてもらうのか。それを最終的に決める権利は国民にあるということか。そう読める。だったら、改憲しなくても天皇制をやめることが出来る。たとえば全国民の過半数が「もうやめよう」っていう署名を出したとする。そうすると、もはや「総意」には基かない。その時は、やめるのだろう。あるいは、「休む」のか。「総意」が変わり、王政復古が実現するまでは。

 しかし、こんな形で国民が主権を行使することはないだろう。近い将来あるとは思えない。では、投票しかないのか。主権者といいながら、国政を動かしている<実感>がない。錯覚でもいいから、<実感><手応え>がほしい。それがなければ、「主権者」なんていっても、全く嘘だ。虚しい。同じ国民でも、国会議員は、そして田原総一朗さんのような著名なジャーナリストは主権者としての実感、手応えを持っているだろうが、でも、一般の国民にはない。
 どうせ俺達の一票は、ほんのごく一部だ、小さな小さな砂粒だ。そう思っていた時、民主党の岩国哲人さんが議員を引退すると新聞に出ていた。次の衆院選には出ないそうだ。勿体ない、と思った。前は出雲市長だった。この時は、本も沢山出していたし、「発言する市長」「名物市長」として有名だった。出雲の市政改革の実績に立って国政批判を大胆にしていた。この人が総理になったら日本は変わるのにと、本気で期待した。そう期待した人も多かったのだろう。国会議員になった。しかし、いい立場にいなかったのか、あまり注目されなかった。特に「この提案」は。

 なぜ岩國さんを思い出したかというと、「主権者」「一票の重み」について、とても興味ある発言をしていたからだ。「一人五票制」を主張していた。これは面白いと思い、雑誌で対談させてもらった。砂粒の小さな「一票」にも、こんな<夢>を込めることが出来るのか。これなら、「主権者」という実感も手応えも得ることが出来る。そう思ったのだ。
 今、我々が投票する時は一人一票だ。この一票に我々の「思い」を託す。しかし、「思い」の全てではない。ほんの一部だ。不完全な意思表示だ。たとえば、自民党に投票する人は、国会議員の全部が自民党になればいいと思って投票するわけではない(まあ中には、ごく少数だが、いるかもしれないが)。「自民は三分の二くらいとればいい」「あとの三分の一は民主や社民がとればいい」って思って投票する。あるいは「五分の四は自民で、あとは民主があればいい」…と、国会議員の構成状況を頭の中で想定しながら投票する。しかし、そのシミュレーションは生かされない。全く無駄になる。どこかに一票入れるしかない。
 だったら、その頭の中のシミュレーションをそのまま投票に生かしたらいい。岩國さんはそういうのだ。自民に全議員を独占させたい人は五票全部を自民党に入れる。「自民3、民主2」にする人もいる。「自民3、民主1、社民1」にする人もいる。「共産4、自民1」にする人もいるだろう。
 一人一人が描く、政治の「見取り図」「設計図」を出せるのだ。自分が日本を動かしている。主権者になれる。政治の「部分」ではなく「全体」を構想し、それをつくるのだ。それに「参加」する。なるほど、これなら「主権者」らしい。そう思った。
 画期的な提案だと思った。昔は集票作業が大変だったろうが、今なら簡単に出来る。ネットで投票させてもいい。瞬時に結果が出るだろう。しかし、こうした冷静な、複合型の投票では「面白くない」って思う人もいるだろう。特に、テレビ局は嫌がるだろう。「開票速報」のあのお祭り騒ぎがなくなるからだ。そんなものは、もうなくていいのだが。

鈴木さんと岩國哲人さんとの対談は、
『右であれ左であれ 鈴木邦男対談集』(エスエル出版会)で読むことができます。
「一人五票制」、ちょっと面白そう! と思った方は、ぜひどうぞ。

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