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2010-06-23up

鈴木邦男の愛国問答

第53回

『夕刻のコペルニクス』誕生秘話

 「『夕刻のコペルニクス』読んでましたよ」と言われる。初対面の人に、よく言われる。嬉しいが、ちょっと複雑な気持ちだ。昔の連載を覚えていてくれているのは嬉しいが、随分前だ。連載が終わって7年位、経つのではないか。いや、それ以上か。その後、いろんな連載をやり、いろんな本を出した。でも、『夕コぺ』を読んでました、と言われる。
 『夕コペ』だけで俺は終わったのか。残るものはこれだけか。とも思う。「昔の名前で出ています」じゃないか。いっそ、名刺の肩書に書こうか。「元『夕刻のコペルニクス』執筆者」と。

 そんな自虐的・感傷的な気分にさせられたんですよ、この本を読んで。ツルシカズヒコ(『週刊SPA!』3代目編集長)の新刊『週刊SPA!』黄金伝説(朝日新聞出版)だ。「黄金伝説」のあとに、サブタイトルとして「1988〜1995 おたくの時代を作った男」と書かれている。この編集長もオタクだったのかもしれない。本の帯には、「時代はバブルとおたくとSPA! だった!」と書かれている。確かに、そこまで豪語するほどの勢いのある雑誌だった。
 このツルシ編集長が僕を拾ってくれた。無名の、チンピラ右翼に声をかけ、何と『SPA!』に連載を持たせてくれた。毎週、ここで書き、闘い、悩み、怒り、あるいは謝罪し…。ともかく全力でぶつかった。『SPA!』が一番勢いがある時に、豪華執筆陣にまじって書かせてもらった。これが<全て>のスタートだったのかもしれない。又、これで<全て>が終わったのかもしれない。
 僕を拾い上げてくれたツルシ編集長は僕にとって大恩人だ。ツルシさんのこの本を読んで当時のことを懐かしく思い出した。それと同時に、今になって初めて知ることもあった。連載を頼まれて初めて会った日のことは覚えている。タイトルを決めたプロセスも覚えている。その時のことをツルシさんは克明に覚えて、書いている。これは嬉しい。<歴史>になっている。しかし、なぜ僕を拾い上げてくれたか。なぜ僕に興味を持ち、連載をやらせようと思ったのか。それは分からなかった。ところが、この本で初めて知った。そんな大事なことを、と思うだろうが、聞けやしない。「私ごときに声をかけてもらい、嬉しいです。力一杯、頑張ります」と言うしかない。その時、「僕のどこが面白いと思ったんですか」「僕の何に関心を持ち、何の本を読んだんですか」なんて聞けない。「偉そうに」「生意気だ」と思われる。いや、そう思われるんじゃないか、と思って聞けなかった。でも、16年ぶりにその<秘密>が明らかにされた。知らなかった。そうなんだ、16年前だったんですね、連載を始めたのは。そして、7年続いた。では、初めてツルシさんと会って打ち合わせをした場面だ。

 <鈴木さんの自宅のそばの東中野の「ボナール」という喫茶店で打ち合わせをした。鈴木さんは連載に静かな闘志を燃やしていたと思う。「こんなことを考えているんですが――」。B5のコクヨの原稿用紙には、小さい文字で書かれた連載のネタが列挙されていた>

 ネタのことは完全に忘れていた。政治、社会、宗教などの、こういう点が問題だ。これを書いてみたい。これを取材してみたい。ということが具体的に書かれている。今見ると、ちょっと恥ずかしい。自分の古いノートを見せつけられるようだ。その後、タイトルを決めた。これはスンナリいかなかった。

 <「夕刻のコペルニクス」というタイトルは鈴木邦男さん本人が考えた。担当副編集長のシミズが「ひとり街宣車が行く」というタイトル案を出し、担当者のカワイがそれを鈴木さんに打診したところ、鈴木さんがこう応えたという。
 「そんなの嫌です。もっとカッコいいのにしてください。たとえば『神なき国のガリバー』みたいな…」
 僕は爆笑してしまった>

 僕の記憶では、ツルシさんが僕と会ったときに、自ら、「ひとり街宣車…」を言い出した。そう思っていたが、きっとツルシさんの方が正しいのだろう。当時の『SPA!』は、小林よしのり、宅八郎、中森明夫、田中康夫…と凄い連載陣だった。「神なき国のガリバー」は田中康夫さんのタイトルだ。他にも、「電脳ラスプーチン」「ドンキホーテのピアス」と、タイトルがカッコいい。おしゃれだ。世界史や世界文学の主人公が今に甦り、書いている。そんな感じだ。タイトルを見ただけで、ワクワクして読みたくなる。きっと、ツルシさんが考えたのだろう。じゃ、僕にも、おしゃれで素敵なタイトルを考えてくれるだろう。そう思って、ドキドキして、待っていた。ところが、「ひとり街宣車がゆく」。ゲッ、なんだ。これはないよな、と思い、「嫌です!」と言っちゃったんだ。
 不遜だったと思う。もっと他に言い方があったと思う。「いやー、面白いですね。じゃ、これを仮タイトルにして、僕の方でも考えてみましょう」とでも言えばよかった。でも、「これで決まったら大変だ」という焦りや恐怖心の方が大きかった。あわてて、「嫌です!」と言ってしまったのだ。
 それから、必死に考えた。考え抜いた。「街宣車」「愛国」「憂国」を生かしながら、世界史・世界文学の主人公…と考えて、『夕刻のコペルニクス』になったのだ。これはよかったと思う。「ひとり街宣車がゆく」では、やる気が湧かないし、又、話題にもならなかったと思う。では、何故、ツルシさんが僕に声をかけてくれたか、だ。

 <鈴木邦男に連載を依頼したのは、前年秋、野村秋介事務所から抗議が来たことがきっかけだった。野村秋介の著書を通じて鈴木邦男の著作に出会い、その中で注目したのは『脱右翼宣言』という著書だった>

 エッ? そうだったのか。『脱右翼宣言』だったのか。又、野村さんがらみだという。「野村事務所」から抗議が来たという。野村さんからではない。あとで調べてみたら、この時は野村さんは亡くなった後だった。
 少し整理してみる。野村秋介さんが朝日新聞社で自決したのは1993(平成5)年10月20日だ。この自決の理由について、ある政治評論家が『SPA!』で、ある「憶測」を書いた。それに対して、野村事務所の人が「嘘だ」と抗議した。多分そういうことだったと思う。どう決着したのか分からない。「謝罪」「訂正」を書いたのかもしれない。
 普通なら、こんな体験があったら、「右翼嫌い」になり、右翼の本なんか読むものか! と思う。ましてや、右翼に連載を頼むなんて考えない。それなのに僕に関心を持ち、連載をさせてくれた。ありがたい。不思議な縁だ。ツルシさんも心が広いのだ。面白いと思ったら、右翼でも何でもいい。という、健全なオタク精神なのかもしれない。
 ともかく、野村さんの記事への抗議があり、翌1994(平成6)年10月から僕の連載が始まり、01年6月まで7年間続いた。そして、この頃から僕の生活にも大きな変化があった。河合塾と日本ジャーナリスト専門学校の講師になったのだ。大きなチャンスが三つ、同時にやってきた。昔の暴力右翼が、暴力を捨て「社会復帰」した。そんな感じがした。

 その頃はまだ母親も生きていて、とても喜んでくれた。逮捕、ガサ入れの連続だった暴力右翼の生活から脱し、「学校の先生」になった。やっと普通の生活に戻ってきてくれた、そう思ったようだ。やっと、「こっちの世界」に戻ってきたと思ったのだ。自分では、チャンスを与えられるのはいいが、何か<首輪>をはめられたような気がした。いいのかよ、又、捕まるかもしれないよ。と思っていた。
 この後、ガサ入れは何回かあったが、逮捕はない。チャンスを与えてくれた人々を裏切っては申し訳ないと思ったようだ。『SPA!』の連載は自分の人生で大きな転機になった。これがなかったら、まだ「向こうの世界」で暴れていたかもしれない。「言論の場」を与えられるということは、それだけ怖い事なんだ、と痛感した。

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この「転機」がなければ、今の鈴木さんはいなかった!?
連載当時、リアルタイムで楽しみにしていた人という人も多いはず。
単行本や文庫本で、改めて読み返してみるのもまたよし、です。

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鈴木邦男さんプロフィール

すずき くにお1943年福島県に生まれる。1967年、早稲田大学政治経済学部卒業。同大学院中退後、サンケイ新聞社入社。学生時代から右翼・民族運動に関わる。1972年に「一水会」を結成。1999年まで代表を務め、現在は顧問。テロを否定して「あくまで言論で闘うべき」と主張。愛国心、表現の自由などについてもいわゆる既存の「右翼」思想の枠にははまらない、独自の主張を展開している。著書に『愛国者は信用できるか』(講談社現代新書)、『公安警察の手口』(ちくま新書)、『言論の覚悟』(創出版)、『失敗の愛国心』(理論社)など多数。近著に『右翼は言論の敵か』(ちくま新書)がある。 HP「鈴木邦男をぶっとばせ!」

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