戻る<<

やまねこムラだより:バックナンバーへ

やまねこムラだよりー岩手の五反百姓からー

071003up

つじむら・ひろお 1948年生まれ。2004年岩手へIターンして、就農。小さな田んぼと畑をあわせて50アールほど耕している五反百姓です。コメ、野菜(50種ぐらい)、雑穀(ソバ、ダイズ、アズキ)、果樹(梅、桜桃、ブルーベリ)、原木シイタケなどを、できる限り無農薬有機肥料栽培で育てています。

第八回

格差なのか? 個性なのか?

 数年前、やまねこムラへやってきた東京の友人がいいました。「ここは、生き甲斐だな・・」でも、よく聞いてみると、ケータイ電話の「域外」だった、ということでした。

 いまでは、特定のメーカーのケータイなら繋がるそうですが、最初からケータイ電話を持たないわたしには、どちらでもいいことです。

 でもこれは、格差なのでしょうか? やっぱり、格差なのでしょうね。ケータイがないと仕事にならない人たちにしてみれば、ケータイの域外である、ということは、即、悪いほうへ差をつけられた不便な社会、ということになるのもわかります。

 でも、本当に、格差なのでしょうか。わたしは、とまどっています。

 たしかに、大都会からだけでなく、田舎の小都市(マチ)からも、十数キロも山の方へ離れたやまねこムラは、不便なことも多いのは事実です。

 コピー1枚とるのにも、マチ場のコンビニに行かないと、コピー機がありません。テレビもそのままではまともに映らないので、共同アンテナ組合を作って、お金を出し合ってアンテナを維持しています。

 わたしの家には、下水も水道もありません。下水は、合併浄化槽をつくって対応していますし、生活水は井戸に頼っています(でも、この水がうまい!)。この原稿を送るパソコンのメールも、昔ながらの電話回線です。通信速度は、光とかADSLに比べたら、きっと遅いとおもいます。(実感がないから、わかりませんが)

 車の免許がないお年寄りがマチへ行こうとしたら、1日7本(土日は5本)しかないバスに頼るしかありません。そのバス代に往復1500円以上もかかります。病院や公的機関がごろごろ、お店がうじゃうじゃ、の大都会に住む人からみたら、なんと不便なところだろう、とあきれられるのじゃないでしょうか。

 そういう社会的な基盤やサービスが脆弱、という意味では、マチとムラの間に格差は厳然と存在します。小泉さんがかつて「改革には痛みをともなう」と断じた、その痛みの大部分は、地方が引き受けた、という気がしています。

 7月の参議院選挙で自民党が大敗した原因は、改革の痛みを引き受けさせられた「地方の反乱」だった、と多くの論者がおっしゃるとおりだとおもいます。

 でも、とわたしはここでおもうのです。そういう、社会的・経済的な格差があったとしても、わたしは、このやまねこムラが好きなのです。このムラで、百姓をしながら、生きて、死んでいくことに、なんの悔いもないのです。

 クワを持って、畑にたちます。夏に種をまいた、ダイコンやハクサイやカブが、ずいぶん大きくなって、葉を繁らせています。土のにおいがします。

 遠くを見やれば、山がうるうると盛り上がっています。その手前の、田んぼでは稲刈りが終わって、天日干しされた稲束(ホンニョといいます)の列が広がっています。天日干しが終われば、うまい新米が待っているのです。

 空には、夫婦もののトンビが二羽、ピーヒョロロ・・と啼きながら、ゆっくり舞っています。風が、秋のすきとおった空気を含んで、吹き渡っていきます。

 ああ~、いいなあ、とおもいます。

 こんなに五感をまるごと、自然に癒されながらできる仕事が、都会にはあるでしょうか。


百姓の持つ、道具たち。

刈り取った稲を天日干しするホンニョのある風景。秋の風物詩です。

 都会にいいもの、すばらしいものは、たくさんあります。それは、お金があれば、大部分は買えるものです。都会では「ムード」までが商品になっています。

 いっぽう、ムラにいいものも、探せばたくさんあるのです。ただ、それが「商品」にならないものが多いので、なかなか見えないだけなのです。見えないもの、買えないものには価値がない、というのが経済の考え方でしょう。だから、ないと同じとおもってしまう。でも、それは間違っているのです。

 トンビののどかな鳴き声を、都会で買えるでしょうか。 野原を吹き渡ってくるさわやかな風を、都会ならいくらで売るのでしょうか。

 しっとりした豊かな土のにおいや、野に咲く花の香りが、一瓶何万円もする香水に劣るのでしょうか。

 自分が作った新米で炊いた、ひと粒ひと粒ひかるごはんをワシワシと食ううまさを、「勝ち組」のヒルズ族は体験できるのでしょうか。

 だいいち、やまねこムラではプラネタリウムへ行かなくても、本物の天の川がただで見られるのです。

 経済の大切さを、無視も否定もしません。でも、経済以外の価値観も大切にしたいとおもっています。ですから、「格差社会」をすべての悪の根源と決めつけない、ある種の余裕はあったほうが良いかと思います。

 これを、都会(マチ)の個性、地方(ムラ)の個性、ととらえる視点もあったほうが、世の中おもしろくなるとおもいます。

 たしかに、ムラはマチに比べて、ビンボーです。岩手は東京に比べて、ビンボーです。

 でも、ビンボーがそんなにわるいことですか? という考え方もあるのです。

 ビンボーをいやしむ心情のほうが、よっぽどこころはいやしくて貧しい。

 都会には都会の個性があり、ムラにはムラの個性があるのです。おたがい、その個性を主張しあったほうが、ずっとおもしろい。

 盛岡は東京や大阪の縮小コピーではないし、ムラはマチのできそこないのコピーでもない。東京が日本全体のめざすべき見本だった時代は、明治から昭和なかばまでのことでしょう。今はむしろ、三百の藩にわかれていた江戸時代のように、各県各地域が、自分の個性で勝負をしたほうがおもしろい時代だとおもいます。

 ですから、ムラに住む人間としては、ないものねだりをしても仕方がない。ムラにあるいいもの探しをして、その価値を自認していく。金では買えない価値を、見つけていく。風のそよぎや、鳥の鳴き声や、星空のまたたきに、値千金を感じる。自分の食べ物を自分で作ることの大切さを認識する。・・そういうムラの価値観を主張することがたいせつと考えています。

 この、金にはならないが、豊かな価値に囲まれて暮らしているムラの存在自体が、「平和」を百万遍唱えるよりも、平和そのものの姿であり、平和への主張だと、わたしは信じているのです。

「野原を吹き渡ってくるさわやかな風」や「野に咲く花の香り」に、
思わず「羨ましい!」と声をあげた人もいるのでは? 「不便」や「痛み」を、
すべて地方に押しつけることがあってはならないけれど、
経済だけでその「優劣」をはかるのもまた、間違いなのかもしれません。
ご意見フォームへ

ご意見募集

マガジン9条