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やまねこムラだよりー岩手の五反百姓からー

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つじむら・ひろお 1948年生まれ。2004年岩手へIターンして、就農。小さな田んぼと畑をあわせて50アールほど耕している五反百姓です。コメ、野菜(50種ぐらい)、雑穀(ソバ、ダイズ、アズキ)、果樹(梅、桜桃、ブルーベリ)、原木シイタケなどを、できる限り無農薬有機肥料栽培で育てています。

第十一回

「飢饉」のはなし (その1)

 東京ではベタ記事にもならなかったでしょうが、先日、地元の新聞「岩手日報」の朝刊1面のトップに、こんな記事がのりました。
 「イノシシ 県内生息か」「一関、奥州で目撃、足跡も」「北限拡大 農作物被害の懸念」というのが、その見出しです。写真3枚と地図までついています。

 なぜ、トップニュースになるかというと、これまでのイノシシの生息の北限が宮城県の仙台あたりまで、とされていたからです。イノシシは、雪に弱くて冬に大雪が降る地域には棲めない、というのが常識でした。南東北以西の日本の農家には、田畑を荒らす害獣として、嫌われ者の筆頭だったのです。それが北進して、岩手県にも進出、ということですので、トップニュースになったのです。
 これも、温暖化のせいなのかもしれません。あるいは、中山間地の農林業がすたれて、山が荒れたせいなのかもしれません。今年のノーベル平和賞を受賞したゴアさんが警鐘を鳴らしたとおり、地球は少しずつですが、確実に病んできているとおもいます。

 さて、世界の貧しい国で、食べ物がないせいで、子どもたちが毎日14,000人も死んでいく、という話(6回)をしました。でも、日本では、飢え死にする人は、万にひとりもいない。生活保護を打ち切られて餓死した人がいましたが、これは行政による虐待死ですね。つまり、行政のネグレクトによるいじめ死という「事件」です。構造的に、国民全体が飢えているわけではありません。
 食料自給率39%でも、外国からの食糧輸入によって、基本的には、国民全員が食える状態にある。その意味で、日本はいい国だとおもいます。飢え死にする人を作らない、これは国家の大使命だとおもうからです。

 いまでこそ、岩手をはじめとして東北は、米どころ、あるいはさまざまな農産物の産地として、有名です。うまいものが、たくさんある。コメや野菜やくだものだけではありません。うまい肉、うまい魚がどっさりある。新鮮、しかも、東京にくらべたら、安い。
 前回ふれたQOL(暮らしの質)が、高い。いいところに住んでいるなあ、ごちゃごちゃしたところにしか住めない大都市の人に申し訳ないなあ、とおもいます。

 でも、江戸時代の東北は、飢饉の本場だった、といっても過言ではありません。歴史に残る大飢饉が何度も起きている。
 それは、本来熱帯性植物だった稲を、無理に冷涼地帯の東北の地に作ろうとしたことが背景にあります。コメの産出量をあらわす「石高」が、そのまま大名や武士の格式や身分の高低につながった、という社会システムにも、問題がありました。また、領民の移動を認めなかった封建社会の枠にも、問題がありました。

 南部藩(盛岡藩)では、領主南部氏が元和元年(1615)に、入国して以来230年間に約50回の凶作飢饉があったと記録されています。太宰治の作品「津軽」にも、元和元年から昭和15年までの325年間に、約60回の凶作飢饉が津軽地方を襲ったことがふれられています。
 4~5年に1回ぐらいのペースで、天候不順のため凶作になったのです。そして、その凶作がはなはだしいときは、飢饉となって、そのたびに食料生産者である多くの農民が死んでいったのです。

 現代のように、農薬も化学肥料も農業機械もない時代、寒さに強い品種もありませんでした。8月の上旬、稲が花を咲かせて実を結実させる一番大切な時季に、「やませ」といって、太平洋から冷たい風が吹き込むことがありました。この風に吹かれると稲は壊滅的な被害をうける。
 宮澤賢治も、そういう「サムサノナツハオロオロアル」くしかないのでした。

 最近では、1993年に冷害で全国的なコメ不足になり、緊急にタイなどの外国からコメを輸入したことがあります。覚えているかたも多いでしょう。でも、タイ米(インディカ米)は日本人の口にあわず、「やっぱり、日本のコメはうまい」という皮肉な認識もうまれたのです。

 食べたいのに、食べるものがない、という状況を想像できますか。ダイエットでは、ないのです。「腹へった~。」とおもえば、とりあえずお湯を沸かして、3分待てばカップラーメンが食えるのではないのです。なにもない。あっても水ぐらい。そのとき、あなたならどうするでしょうか。

 日本という国の知的レベルは棄てたもんじゃないな、とおもうのは、その時代時代の記録が残っているからです。それも、お役人だけではない、民間の人がそれをちゃんと記録する習慣があることです。
 古くは、鴨長明の「方丈記」にも、平安時代末期の養和の飢饉(1181~2)の惨状が、リアルに記録されています。立派な着物を着た高貴な婦人でさえ、なりふりかまわず、食べ物をもらい歩いたが、飢え死にしたとあります。仁和寺の坊さんが路傍の餓死者を数えたところ、京都市内だけで二ヶ月で42,300人あまりの死体を数えた、ということです。当時の日本の中心、京の都ですら、このありさまでした。

 江戸時代では、もっとも悲惨だったといわれる、天明3年~4年(1783~4年)の飢饉というのがあります。南部藩でも、総人口30万人のうち、4分の1にあたる「75,180人」が死んだと記録される大飢饉でした。
 そのころ、盛岡に横川良介という民間の歴史家がいました。その人が残した「飢饉考」という史料があります。それを現代文になおして引用します。

 「翌年(天明4年)になってだんだん飢饉がひどくなった。金がいくらあろうと五里十里のうちにコメ一粒はおろか雑穀など食い物がないから、買うこともできない。牛馬ニワトリ犬猫ネズミまでも食いつくし、それでもいのちを保つこともできなくなった」
「ある人は飢えに疲れてわが子を川へ沈めて殺し、ある人は川に身を投げて自殺する。道路にすら餓死した人の骸骨が散乱し、まして山や谷のほうには棄てられた餓死者が限りない。この2年間に餓死した人がどれくらいあったか、わかるだろう」

 盛岡藩の支藩、八戸藩は石高2万石のちいさい藩なのですが、天明3年は19,256石の減、実に96.3%の減収になったのです。翌4年は16,457石(82.3%%)の減収、というから、冷害で食べ物の絶対数が足りなくなったのです。
 飢饉が一応収まった翌年、天明5年(1785)5月に行われた人口調査では、八戸藩総人口65,000人のうち、30,105人が餓死病死したとあるのです。さらに、この調査がおわったあとにも、伝染病がはやり、数千人が死んだと史料は記録するのです。じつに総人口の半分が、飢餓と、それにともなう伝染病で死んだのです。(「天明三葵卯歳大凶作天明四辰歳飢饉聞書」)

 次回では、さらにすさまじい飢饉の実例をご紹介します。飢えのあまり、人が人を食うようになるのです。


近所の小山を歩いていたら、カモシカに出会いました。まだ、こどものようです。

近所の小山を歩いていたら、カモシカに出会いました。
まだ、こどものようです。

お腹が空いても、食べるものがどこにもない。
そんな状況を、果たして「過去のもの」と切り捨ててしまっていいのかどうか。
次回へと続きます。
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