戻る<<

やまねこムラだより:バックナンバーへ

やまねこムラだよりー岩手の五反百姓からー

080716up

つじむら・ひろお 1948年生まれ。2004年岩手へIターンして、就農。小さな田んぼと畑をあわせて50アールほど耕している五反百姓です。コメ、野菜(50種ぐらい)、雑穀(ソバ、ダイズ、アズキ)、果樹(梅、桜桃、ブルーベリ)、原木シイタケなどを、できる限り無農薬有機肥料栽培で育てています。

第四十回

900年前の憲法9条

 やまねこムラで最近、農作業中の死亡事故が2件続けてありました。
 1件目の死者は、84歳のオバアサン。休耕田の草刈をして、その草を焼こうと火をつけたところ、その草を焼く煙に巻き込まれ、全身火傷で亡くなりました。子どもたちはムラを出て、ひとり暮らしでした。84歳になっても、休耕田の草は自分で処理するしかないがゆえの事故でした。
 もう1件の死者は、59歳の男性。トラクターで畑を耕していて、くも膜下出血の発作を起こし、意識を失いました。ところがトラクターのエンジンは回っていますから、そのまま走り続け、畑ののり面(斜面)からトラクターごと転落。いのちを落としました。中学を卒業して集団就職で東京へ出たものの、故郷に戻り専業農家として働いていました。平地の畑ならトラクターも転落はしなかったでしょう。80歳を過ぎた母親がひとり残されました。
 ふたりとも、愚直に身を粉にして働いてきた人生でした。それなのに、なんでこんな人生の終わり方をしなければならないのか。過疎地の現実とはいえ、生きるがための労働でいのちを落とす。世の中は、不平等にできているなあ、と憤りを覚えました。

 「やまねこムラだより」も今回が最終回になりますので、楽しい話題で締めくくりたいと思っていたのですが、こんなつらい話から始めることになり、残念です。
 昨年の8月から連載を始めて、ほぼ1年がたちました。これまで、わたしのつたない文章をお読みいただいていた方がおられたとしたら、まことにありがとうございました。
 ともあれ、いいこともつらいことも含めて、やまねこムラの春夏秋冬の季節の表情はお伝えできたのかな、と思っています。でも、そろそろやめる潮時だと、判断しました。
 1年間にわたるマガジン9条編集部のご好意と、読者の皆さまのご鞭撻に、篤く感謝したいと思います。

 さて、今回のテーマ「900年前の憲法9条」についてです。
 正確には、奥州藤原氏の初代・藤原清衡が書いたとされる「中尊寺落慶供養願文」といいます。残念ながら、「世界遺産」には登録延期となってしまいましたが、金色堂のある平泉の中尊寺が落成したとき(大治元年=1126年)、清衡がささげたある種の「決意表明」であり、「祈りのこころ」でもあります。

 岩手の歴史に詳しい方ばかりではないでしょうから、簡単におさらいします。
 縄文時代(11000年前~2300年前)は、岩手をはじめ東北の地は食べ物が豊富でたいへん豊かな土地でした。ところが7~8世紀、大和朝廷の勢力が西から侵出してくると、もともと住んでいた人々は「蝦夷(えみし)」といわれて差別的な扱いをされるようになります。アテルイという英雄も出て、朝廷軍を撃破したこともあったのですが、結局朝廷の支配に屈すことになります。平安時代の初期・9世紀のはじめのころです。
 その「蝦夷」の末裔とされる一族に、安倍氏がいました。「奥六郡」といって今の岩手県の南半分を実質支配する一族でした。朝廷から派遣された国司や他の蝦夷一族と対立して、前九年合戦・後三年合戦というのが起こります。そして、朝廷軍との戦いや一族同士の悲惨な殺し合いを経て、11世紀の末、安倍氏の血を引く藤原清衡が実質的な奥州の覇者となったのです。京都では、白河法皇による院政が始まったころです。

 自分たちを蝦夷とさげすむ朝廷軍とだけでなく、一族同士の殺しあいから勝ち残った清衡は、殺しあうことのむなしさ・むごたらしさを骨身に感じたのでしょう。1105年に中尊寺を建立し、1126年に落慶供養にいたるのです。
 中尊寺の建立のいきさつは鐘楼に漢文で書かれているそうです。高橋富雄さんという学者の訳文を借ります。

 「思えば長い間、官軍・蝦夷とも死ぬことまことに多かった。鳥獣魚介のたぐいで殺されたもの、むかしいま数え切れないものがある。魂はみなあの世に去っても朽ちた骨はなおこの地の塵となって残っている。この鐘の声が大地を動かして鳴るごとに、そのように無実の罪で死にゆいたものの霊魂が浄土世界へと導かれんことを祈る」

 900年前に、当時の中央からはるか離れた奥州の地で、この決意表明がされたのです。
 敵味方なく戦死した人々の霊を浄土へ導きたい。辺境の地に京都と同じような寺院を作って仏の精神が生きる国にしたい。東北の地の平和と国家の安泰を祈りたい・・。という決意表明でした。
 しかも、人間ばかりではない、鳥獣魚介のいのちまで視野に入っているのです。人間だけでなく、鳥やけものやあるいは草木にまで、そのいのちの価値を見ている。世界遺産になろうとなるまいと、この900年前の清衡の願った平和の祈りは、日本国憲法の前文や9条の精神に通じるものがあると思います。

 憲法9条が、なぜうまれたのか? それは、15年戦争の惨禍のなかで、日本の国民が骨身にしみたこと、「もう戦争は、まっぴら。殺し合いはむなしい。だから、これからは日本を二度と戦争ができないような国にするぞ」という決意表明だったと思うのです。
 アメリカが押し付けたかどうかは別にして、日本の国民が同じ願いを共有したからこそ、この憲法が成立する土壌になったと思うのです。憲法の芽が出る、ということはその種を播けば発芽するという背景(土壌)が、あったからです。
 土壌の条件が整ってなければ、いくら種を播いても植物は発芽しません。ある植物が発芽するということは、それが発芽する条件がすでにあった、ということなのです。ですから、わたしは憲法の押し付け論には与みしません。日本人のなかに、平和憲法を発芽させる土壌がすでにあった。そこに、アメリカ製(?)の憲法の種が播かれた。だから、その「日本国憲法」はすくすくと成長し、今では日本の背骨(国のありかたの原則)となる大木に育った、と思うのです。

 ただし、どんな大木でも寿命があります。長い間には、虫に食われたり台風に襲われたり雷に打たれたりします。だから、常にメインテナンスをしなければばらない。
 奥州藤原氏は、清衡の「中尊寺落慶供養願文」が書かれてから63年後の1189年に、源頼朝によって滅ぼされます。清衡の平和への願いは、戦火の前で消えて行きました。
 今年は1946年に日本国憲法が公布されてから62年目です。やはり、ここらでわたしたちの祈り(憲法の精神)のメインテナンスをちゃんとしておかないと、奥州藤原氏のように滅びてしまうかもしれないのです。

 「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する」という憲法前文のなかの一節があります。
 ところが、世界の飢餓(食料不足)人口は、食料と燃料の高騰のため、この1年で1億3300万人も増えて9億8200万人になってしまったそうです。このままでは10年後には、飢餓人口が12億人になるそうです。(米国農務省・食料安全保障の年次報告書)
 理想とかけ離れて、どんどん「恐怖と欠乏」へと追い込まれる人たちが増えている。この不公平を「どぎゃんかせんといかん」のではないでしょうか。

 「平和は、食べ物から生まれる」というのがこの一年、五反百姓のわたしが言いたかったことだったように思います。だから、「自分の国の食べ物は自分たちで作ろう」「日本の食料自給率を上げよう」ということも、くどいくらい申し上げてきました。食料自給率を上げることが、平和精神のメインテナンスになる、と信ずるからです。

 では、1年間のご愛読、まことにありがとうございました。
 機会があれば、またマガジン9条にお世話になるかもしれません。それまで、皆さまお元気にお過ごしください。元気のもとは、折り目正しい食事から、ですよ。

(2008.7.11)

近所のハス田で、その花が咲き始めました。
極楽にはハスの花が咲いている、といいますが、
やまねこムラでは、日常の中で咲いています。
やはり、このムラは「ゴクラク」だったのか?
いろいろ矛盾はあっても、わたしはこのムラが大好きです。

辻村さんも書いておられますが、
ご愛読いただいた「やまねこムラだより」も今回で最終回。
また折に触れ、四季折々のムラの姿やトピックを、
みなさまにお伝えできる機会があればと思います。
1年間、ありがとうございました!

ご意見フォームへ

ご意見募集

マガジン9条