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やまねこムラだよりー岩手の五反百姓からー

090318up

つじむら・ひろお 1948年生まれ。2004年岩手へIターンして、就農。小さな田んぼと畑をあわせて50アールほど耕している五反百姓です。コメ、野菜(50種ぐらい)、雑穀(ソバ、ダイズ、アズキ)、果樹(梅、桜桃、ブルーベリ)、原木シイタケなどを、できる限り無農薬有機肥料栽培で育てています。

第四十三回
(臨時便)

メメント・モリ再び

メイの後姿

 「マガジン9条」の大切な紙面に、こんな<極私的>なことを載せることが許されるのか、迷っています。しかし、ダメならボツにしていただいていいのだし、以前我が家の猫のことを載せていただいた縁に甘えて、送信させていただきます。憲法9条にはまったく関係ないことですので、おかどちがいだと思われる方は、どうぞスルーしてください。

 じつは、飼ってた三匹の猫のうち、トラネコのメイが死にました。死因はまったくわからず、突然死としかいいようがありません。
 前日の昼まで元気に動き回っていたのですが、夕方になって姿が見えない。どこへいったのだろう、また押入れの奥にでももぐりこんでいるのだろうと思っていました。ところが朝になってもエサを食べに現れない。お気に入りの場所のひとつ、コタツをめくってみたら、いました。ただし、冷たくなった状態で・・。シッポをピンとたてたままのカッコウです。表情にも、苦しんだ形跡がない。4歳10ヶ月でした。
 裏庭に、穴を掘って埋め、ケヤキの切り株で墓標をたてました。昨年死んだチャイの墓の隣です。

 先日、映画「おくりびと」がアカデミー外国語映画賞を受賞し、喜んだのは映画ファンだけでなく、日本中に久しぶりの明るいニュースとして報道されました。あの受賞をきっかけに「おくりびと」をご覧になったかたも多いかと思います。
 第140回直木賞でも、天童荒太さんの「悼む人」が受賞し、こちらもベストセラーになっているようです。
 その意味では「死」が、日本中で日常の場に、話題として「提供」されるいいきっかけだなあ、と私は思っています。以前にも書きましたが、現代は「死」が巧妙に隠されていて、「死」が日常の中で見えない時代になっていると思うからです。
 「死」が見えないから「生」も見えない。結果、もっと働け、もっと稼げ、そうしないと負け組になっちまうぞ、それがいやならもっと働け、と人間をあおりたてることが、社会の規範めいた役割を果たしている時代になってしまっている、と思えるからです。
 人を幸せにしない社会、制度、システム、はやはり間違っている、と私は思うのです。

 岩手の山村に暮らして田畑を耕していますと、人間だけでなく、生きものたちの生と死が、鮮明に見えることがあります。
 違う言い方をすれば、死と生はつながっている、と気負いでなく、思えてきます。
 <いのちはめぐる>、ということが、理屈でなくわかる瞬間があるのです。
 ちょっと、具体的に申し上げましょう。

 ある生きものが死にます。ネコだったり、キツネだったり、ムクドリだったりします。
 その遺体は、あるものは他の動物に食われます。あるいは、腐ってミミズやハエのエサになります。さらには、土の中にいる微小な虫やバクテリアによって、分解されます。まず有機物に分解され、さらに無機質に分解されます。
 じつは、有機肥料なども、有機物のままでは作物の肥料にはならず、いったん無機質までに分解されてはじめて、作物(植物)の根から吸収され、作物の栄養になるのです。
 そして、その植物が、成長・成熟をとげて、また他の虫や鳥や牛やらのエサになり、その動物が他の動物のえさになる・・といういのちの循環を、絶え間なく繰り返しています。
 人間も当然、この「いのちの循環」の中にいます。

早春の頃、メイもうすぐ2歳。

 つまり、誕生→成長→成熟→死→腐敗→分解→吸収→誕生・・・という繰り返しです。
 生きものは、「死」のステージでジ・エンドではなかったのです。「死」のあとに「腐敗」があり「分解」があります。そして、それがほかの生きものに「吸収」されて、新たな<いのち>の「誕生」につながるのです。そうやって、<いのち>は、永遠に循環していくのです。

 この「いのちの循環」の原理を理解してから、私は死ぬことがこわくなくなりました。
 私という肉体はいずれ死んでいなくなるかもしれません。しかし、それは消滅ではないのです。私のなかに宿っていた<いのち>は、一度無機質まで分解されたあとで、トマトになったりリンゴになったりするのです。あるいは、ネズミになったりトンビになったりして、続いていくのです。
 私の肉体は見えなくなりますが、私の中に宿っていた<いのち>は、姿を変え、続いていくのです。

 逆に言えば、私の肉体に宿っている<いのち>には、過去数十億年の<いのち>が詰まっているわけです。かつて三葉虫だったり、アンモナイトだったりした無数の<いのち>が、姿を変えて、いまの私の体を作っているわけです。
 その私が死んでいなくなったとしても、私の中に宿っていた<いのち>は、また無数の生きものたちに引き継がれていくのです。
 そうであれば、なんで死を恐れる必要があろうか、というのが60歳と6ヶ月になった私の正直な思いなのです。

 私の父親は、ちょうどいまの私と同じ年齢、60歳と6ヶ月で死にました。いま、オヤジが死んだ年になって、私もそう遠くない将来に死ぬことになるのだろう、という気がしています。
 もちろん、自分からは死ぬ気はないし、なるべく長生きもしたい。でも、客観的に、私はそろそろ死んでもおかしくない年齢になったことは確かです。
 「人生五十年」といわれた時代に比べたら、すでに10年も余計に生きています。
 ならば、よく生き、よく死にたい。そして、死ぬことは必ずしもこわいことではない。なぜなら、私の中の<いのち>は、これからもずっとめぐっていくからです。

メイの墓。クロネコはノワ。当然、メイが死んだのを理解できない。

 今回は、飼い猫のメイが死んで、こんなことを考えました。
 メメント・モリ(死を想え)。死が見える時代や社会のほうが、ずっと生きやすいですね。私は、そう思っています。
 そろそろ、春の田畑の準備が始まりました。牛ふん堆肥を4000キロぐらい、田畑に投入して、土作りから始めます。今年はブルーベリ畑も拡充します。
 メメント・モリしながら、農業は未来志向でないと勤まりません。では。

(2009.3.14)

「いのちの循環」について考えると、愛猫が死んだことも、
自らの命に限りがあることさえも、納得でき悲しくはありません。
とはいえ、このところ日本人は、命に対して、
いささか傲慢になりすぎていやしないかとも、思い知らされるのです。
「やまねこムラ」からのまたのお便り、お待ちしています!

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