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2011-03-30up

時々お散歩日記(鈴木耕)

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原発に吹く春風よ、せめて海へ…

 書くことが、こんなに辛い日が来ようとは思わなかった。

 被災地の状況は、日を追うごとに悲惨さを増す。死者の数は増え続け、行方不明者数はいまもって推計するしかない。この国が経験した最悪の自然災害だろう。だが自然災害だけだったならば、復興への意欲までをも打ち砕きはしなかったはず。
 「原発」という人災が、人々を金縛りにする。洩れ続ける高濃度の放射性物質が、懸命に働こうとする人たちの手足を縛っている。
 もし「原発」がなかったら、生き残った人々は肉親や友人を失った悲劇に耐え、故郷へ戻って、家や町の復興に全力を尽くし始めていただろう。だが、それができない。

 地図から消える町…。
 朝日新聞(3月29日付)の記事の中で、原発城下町といわれる福島県双葉町の伊沢史朗議員(53)が、次のように述べている。

 (略)伊沢議員は言う。「だから一日でも早く戻りたい。最近、こんなことも考えるんです。日本地図から双葉町がなくなってしまうんじゃないかって」

 痛切な言葉だ。原発を誘致してきた責任を十分に感じつつ、その上で、自らの故郷が地図から消えるかもしれないと悩む。
 多分、福島第一原発周辺の町や村は、伊沢さんの恐れているようになるだろう。どう考えても、もうここには住めない。凄まじい濃度の放射性物質が、原発周辺に撒き散らされてしまった。
 故郷喪失。懐かしい町や村には戻れない。石棺に覆われた原発と、その周辺に広がる放棄された家々を、遥か遠くから望むしかないだろう。人々から、誰が故郷を奪ったか?

 先週のこのコラムの末尾に、僕は次のように書いた。

 この世に天国があるかどうかは知らない。しかし、地獄があることだけは、知らされた。
 そして、その地獄を広げたヤツラが誰なのかも、知った。

 ヤツラとは誰だったか。
 単純に言おう。原発の危険性を無視して推進してきた人たちだ。
 電力会社の経営者たち、それにお墨付きを与えた学者(と称する人)たち、十分な検証もなく許可を与え続けた官僚と、彼らのお手盛りで出来上がった原子力安全委員会や原子力安全・保安院などの組織。そしてそれらを野放しにしてきた行政・政府だ。
 ことに、現場の不安や心ある科学者や一部のジャーナリストたちの警告を無視して、しゃにむに原発推進の旗を振り続けた、自公政権には大きな責任がある。むろん、民主党政権も同罪だが。

 こんな記事がある(朝日新聞3月26日付)。原発をチェックするべき役目の学者(と称する人)たちが、いかに電力会社や政府にベッタリと寄り添った発言をしていたかがよく分かる。
 これが今回の原発事故が「人災」である証拠のひとつだ。

〈見出し〉
「電源喪失 想定できぬ」
保安院・安全委 両トップ、過去に

〈記事〉
(略)非常用を含めた電源喪失の事態について、原子力安全・保安院と原子力安全委員会の両トップが過去に、「そうした事態は想定できない」との趣旨の考えを明らかにしていたことが分かった。
(略)当時の鈴木篤之・原子力安全委員長(現・日本原子力研究開発機構理事長)は「日本の(原発の)場合は同じ敷地に複数のプラントがあることが多いので、他のプラントと融通するなど、非常に多角的な対応を事業者に求めている」と説明した。
(略)また(共産党の吉井英勝衆院議員が)10年5月の経済産業委員会でこの問題を取り上げた際、原子力安全・保安院の寺坂信昭院長は、論理上は炉心溶融もあり得るとしつつ、「そういうことはあり得ないだろうというぐらいまでの安全設計をしている」と述べ、可能性を否定している。寺坂氏は現在も、安全を確保する保安院のトップとして福島第一原発の事態収束に向け式をとる立場だ。
(略)一方、現在の原子力安全委員長の斑目春樹氏は、東京大教授だった当時の07年2月、中部電力の浜岡原発をめぐる訴訟で中電側の承認として出廷。原発内の非常用電源がすべてダウンすることを想定しないのかと問われ、「割り切りだ」と話していた。
 この際、「非常用ディーゼル2個の破断も考えましょう、こう考えましょうと言っていると、設計ができなくなっちゃうんですよ」「ちょっと可能性がある、そういうものを全部組み合わせていったら、ものなんて絶対造れませんよ」などと証言していた。
 斑目氏はさらに続けた。
「我々、ある意味では非常に謙虚です。聞く耳を持っております」「ただ、あれも起こって、これも起こって、これも起こって、だから地震だったら大変なことになるという、抽象的なことを言われた場合には、お答えのしようがありません」
 斑目氏は10年4月、国による安全規制についての基本的な考え方を決め、行政機関と電気事業者を指導する原子力安全委委員長に就任。22日に参院予算委員会で社民党の福島瑞穂党首からこの裁判での証言について問われ、斑目氏は「割り切り方が正しくなかった」と答弁している。(略)

 どこが「謙虚」なのか。「いろいろなことが連続的に起きるということなどを考えたら、原発の設計なんかできない。そんなことは無視する」と、言っている。それも電力会社側の学者証言としての発言だ。まったく、会社側の回し者といっていい。
 そんな人物が、「行政機関と電気事業者を指導する原子力安全委員会の委員長」なのだ。原発への警鐘など、鼻で嘲笑ってもおかしくない。そして、その結果が、今回の事態なのだ。
 この記事に出てくる鈴木篤之氏もまた、かつて安全委委員長だった。そして、原発を徹底的に擁護し推進した挙句、現在では日本原子力研究開発機構理事長へ天下りして、なおも原発推進の旗振りを続けている。
 この国に、真の「原子力安全チェック機関」など存在しない。あるのはただ、国と電力会社の言いなりに「原発の安全性へのお墨付き」を乱発する丸抱え機関にすぎなかった。はっきり言えば、今回の「原発震災」は、彼らが起した人災だろう。

 東京新聞(3月25日夕刊)では、原発立地の町や村の首長たちの、辛い胸のうちを記事にしている。見出しだけを拾っておこう。

「安全 国が保障したのに」
原発立地首長、ジレンマ
交付金数百億円 地域振興と板ばさみ

 財政難に苦しむ過疎地に、電力会社は膨大な交付金をつぎ込み、安全性については国と原子力安全委員会などがいい加減な保証を行う。そういう状況下で、この国の原子力発電は成り立ってきたのだ。そのツケが、一気に弾けてしまった。

 僕は事故以来、さまざまな資料を漁り、ネットで情報を仕入れ、たくさんの研究者やジャーナリストからお話を聞いてきた。安心できる要素は、残念ながらほとんどない。

 多分、ずいぶん長い間、少なくとも10年以上にわたって、この国は放射能汚染と闘わなければならない。
 多分、近い未来、多くのガン患者が発生するだろう。
 多分、それに対して国や電力会社は「福島原発事故とガン発生には因果関係が認められない」と弁明するだろう。
 多分、多くの人たちは、それをめぐって長い闘病生活と裁判を闘わなければならなくなるだろう。
 多分、それでもなお「原発がなければ日本は衰亡する。原発は必要だ」などという人たちが、政治や経済を牛耳っていくだろう。
 多分、僕たちはそんな連中と、この先もずっと闘っていかなければならないだろう。
 多分、それは避けられないことだ。
 しかし多分、ずいぶん先の未来かもしれないが、原発なしで成り立っていける国の姿を、僕ではなく、僕の娘や、もしかしたらその子どもたちが見ているだろう。
 そう思わなければ、あまりに哀しすぎる。

 それでも、これ以上の原発災害を避ける方策はまだある。原発を止めることだ。
 一気に、とは言わない。まず、稼動から30年以上経っている原発は、原則として停止、廃炉とする。それ以外でも、徹底的な原子炉や容器の健全性検査を行い、立地地点の活断層調査を再度行う。そこで、少しでも不具合が見つかったら、その原発は廃炉とする。
 そして、差し迫った課題として、東海大地震の震源域のど真ん中に立地している中部電力浜岡原発を即時停止させる。
 中部電力は「12メートルの堤防を数年以内に造る、排水ポンプの動力源を、小高い山の上に移す、などの応急措置をとる」などと発表したけれど、巨大津波の圧倒的な破壊力の前にそんなものが無力だったことを、いやというほど見せつけられたではないか。それでもなお、そんな応急の手当てで済まそうというその神経を、僕は疑う。

 もうひとつだけ、書いておく。
 朝日新聞福島総局の3月25日のツイッターは、次のようなことをのべていた。

 東京都の石原慎太郎知事が、佐藤雄平・福島県知事と会談。会談後、石原氏は報道陣に「私は原発推進論者です、今でも。日本のような資源のない国で原発を欠かしてしまったら経済は立っていかないと思う」

 これは、福島県を訪れた際の発言だ。放射性災害に苦しんでいる県民の前でこのように言い放てる神経を、やはり僕は疑う。

 外は、ようやく春である。東京では、桜も咲き始めた。多分、どんなに放射性物質が撒き散らされようと、被災地にももうじき春は訪れる。
 あまりの息苦しさに、僕は外に出た。久しぶりに、少しだけれど携帯で写真を撮った。
 やわらかな風が吹いていた。
 原発にも、やがて春風は吹くだろう。僕は祈る。

 原発に吹く春風よ、せめて陸から海へ…。

 むろん、海を汚染していいわけはない。海は世界につながっている。私たちの国は、これからずーっと、海を汚したことを世界に向けて謝罪し続けなければならない。これからずーっとだ。
 放射能の半減期、たとえば地上最悪の猛毒といわれるプルトニウムの半減期は2万年以上だ。だから僕らの国は、もしまだこの世界があるとしたら、ほとんど未来永劫、世界の人々に謝り続けなければならない。世界みんなの宝であった海を汚した罪を。この事故の最終的な後始末だ。

 それを承知の上で、僕は祈る。
 せめて春風よ、人々の住む陸地ではなく、海へ吹け…、と。

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鈴木耕さんプロフィール

すずき こう1945年、秋田県生まれ。早稲田大学文学部文芸科卒業後、集英社に入社。「月刊明星」「月刊PLAYBOY」を経て、「週刊プレイボーイ」「集英社文庫」「イミダス」などの編集長。1999年「集英社新書」の創刊に参加、新書編集部長を最後に退社、フリー編集者・ライターに。著書に『スクール・クライシス 少年Xたちの反乱』(角川文庫)、『目覚めたら、戦争』(コモンズ)、『沖縄へ 歩く、訊く、創る』(リベルタ出版)など。マガジン9では「お散歩日記」を連載中。ツイッター@kou_1970でも日々発信中。

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