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マガ9レビュー

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本、DVD、展覧会、イベント、芝居、などなど。マガ9的視点で批評、紹介いたします。

vol.17
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ラヴィエベル ~人生は素晴らしい!

ソウル・フラワー・ユニオン

「ロックって何やねん?」
ソウル・フラワー・ユニオン(以下S.F.U)のヴォーカリスト中川敬が、ライブ・ハウスのステージから総立ちの観客に向かって、そう問いかける。 「オレにはロックンロールは、わからへん」
ロック・バンドのライブ会場には、およそ場違いなこのMC。ここには、どんなメッセージがあるのだろうか?

S.F.Uのサウンドを聴いて感じるのは、確かにそこにはスタイルとしての「ロックがない」ということだ。彼らのナンバーをみると、プログレやヘビメタ、あるいはハードコア・パンクの代わりに、ファンキーソウル、レゲエ、スカ、そして民謡や大衆歌のようなトラディショナル群が連なる。つまり、いわゆるロックではない別の音楽の様式へと切り分けられてしまうのである。

ライブが中盤にさしかかり、彼らがカバーする『インターナショナル』が始まる。19世紀終わりにフランスで作られ、世界各国で歌い継がれてきた革命歌である。日本でも「たて 飢えたるものよ」という歌詞に翻訳され、全共闘時代には集会などでよく歌われたと聞く。それを彼らはノリのよいスカ・ビートに変身させる。沖縄の三味線「三線」でリズムを刻みながら歌う中川。この曲を今は縦ノリで踊る若者たち。

ロック・バンドとしてのS.F.Uのこうした姿勢は、例えば今や伝説となった1969年ウッドストックでの、ジミ・ヘンドリックスによるアメリカ国歌『The Star-Spangled Banner(星条旗)』のギター・プレイを連想させる。いわばロックの「起源」──と同時にそれは「終焉」でもある──を想起するというわけだ。エフェクター類を駆使したジミヘン独自のエレクトリック・ギターの演奏によるこの曲で、アメリカの国歌はベトナム戦争における戦闘機の猛烈な爆撃音へと変形させられてしまったのである。時代の狂気は見事に批判され、そして表現された。

『The Star-Spangled Banner』が、アメリカ政府とその政策を支持する社会への批判であったとすれば、ソウル・フラワーの連中はしかし、それよりもっとエグいアプローチを選んだのではないか。過去に消費された大衆文化の瓦礫の山、とりわけ廃物スクラップと化した左翼文化の中から、例えばこの『インターナショナル』を拾い出し、それを「変形」して、ぼくらのための生きた歌として蘇らすのである。同様に、さまざまな民謡や大衆歌を蘇らす彼らは、ジミヘンのそれとアプローチの仕方は異なりこそすれ、その「ロック魂」は共鳴しているといってよいものだ。

今回発売された7曲入りのマキシ・シングル『La Vie Est Belle(人生は素晴らしい!)』もそうだ。例えば、この中の一曲『BELLA CIAO』は、ファシズムに抗するイタリア・パルチザン市民兵の歌。4月25日はイタリアの解放記念日。イタリアでは毎年この歌を高らかに歌い、自由の喜びを分かち合うらしい。少なくとも戦争を経験した人たちの間ではそういったことはあるだろう。彼らはこのような歌を、いわば「ぼくらのサウンド」としてリミックスするのだ。

そして、アルバムのタイトルとなったオリジナル曲『La Vie Est Belle』の歌詞には、「意義申し立ての繰り言 酔いどれのピクニック 世界に ヨレヨレのブルースが鳴る」「情けないツラぶら下げながらも 粘りを見せている 今日も 泡盛を 夢で割っている」なんて書いてある。四面楚歌の絶望的な状況の中においてもなお、人間が決して希望を失わず、平和と自由のために「粘りを見せている」、そのような人生の底深さである。まさにこれこそロック魂! なんて叫びたくなる。

付け加えておくと、CDジャケットの裏表紙にはこうも書いてある。「このシングルを世界中の『基地はいらない!』の声の連帯に捧げます」。

ロックとは音楽の様式のことではない。むしろそれを通じて開かれる自由な、精神のあり方のことなのである。自由を求める意志、その激しくも渇いた運動こそが耳を劈くノイズ、炸裂するビート、高揚するグルーヴを産み出す。自由を阻害するものに対するあくなき反抗。すなわちロックとは、闘争の快楽のことにほかならない。

ところが今や、当初の「ロック魂」は見事に蒸留され、反抗の身ぶりのみが死んだ記号となって巷に氾濫している。“チョイ悪オヤジ”のファッションなんてまさにそうだ。穴のあいたジーンズに先の尖ったブーツ、鋲の打たれた革バンドに革ジャン、胸をはだけてみせたシャツに鈍く光る十字架のネックレス、ドクロの指輪、ヘア・スタイルはツンツン立たせたパンク。これらはもともと、どれもロック・ミュージシャンたちのシンボルだったものだ。ところがどうしたことだ。そんなスタイルに身を包んで、日々株式投資に熱中する今日この頃ではないか。

つまり、このような事態がぼくらに告げているのは、リベラルな左派やアナーキストの培ってきた“かっこいい”文化形態、例えばローリング・ストーンズからセックス・ピストルズに至るまでのロック・シーンが、新自由主義者たちにほぼ完膚なきまでに収奪されてしまったということである。音楽やファッションだけではない。映画も、文学も、あらゆるすべての表現ジャンルが、である。むろん旧態依然とした左派は、こうした事態にまったく鈍感であったし、今もそうだ。若者がサヨクに関心を寄せず近づかないのも無理はない。

S.F.Uのオリジナル・ナンバーのタイトルに『うたは自由をめざす!』というのがある。これはそのまま、「ロックは自由をめざせ」ということだ。真正のロックとは、本来そのようなものだ。だから、中川敬のあの問い「ロックって何やねん?」は、ロック・ミュージシャンとしてのおのれ自身への、と同時に聴衆への、実にまじめな倫理的な問いとして受け止めねばならないものなのである。

奪われたものを、ロックを、もとのところへ返さんがための。

(北川裕二)

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