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マガ9レビュー

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本、DVD、展覧会、イベント、芝居、などなど。マガ9的視点で批評、紹介いたします。

vol.68

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ソ連が満洲に侵攻した夏

半藤一利/文春文庫

 敗戦時の満洲にいた方から話を聞く機会があった。満洲国崩壊後の混乱のなかで八路軍(中国人民解放軍の前身)に召集され、中華人民共和国の誕生を現地で体験された日本人である。そこで当時の歴史を知るべく本書を手にとり、戦争末期の日本の軍部と政治指導者の国際情勢に対するあまりのナイーブさに愕然とさせられた。

 満洲国の建国以降、一貫してソ連を仮想敵国とみなしていた日本の指導部は、1939(昭和14)年8月にドイツがソ連との間で不可侵条約を結ぶと、ドイツとイタリアという従来の同盟国にソ連を加えて、米英に対抗しようと考えた。そして、1941(昭和16)年4月には日ソ不可侵条約を締結するのだが、その2カ月後、ドイツが独ソ不可侵条約を破棄して、ソ連に侵攻する。

 日本の指導者たちは判断を迫られた。対ソ戦に加わるべき(北進論)か? 資源確保のために南方へ進出するか(南進論)? 緒戦のドイツの破竹の快進撃を見た彼らは、「いずれソ連はドイツに敗れる」とみて、東南アジアに兵力を進めた。その結果、同地域を支配下に置く米英との対決姿勢を強め、日米開戦に踏み切る。しかし、ドイツはスターリングラードでのソ連軍との攻防戦に破れて後退、日本もガダルカナル島の争奪戦に敗れ、戦況はにわかに悪化した。

 そこで日本がとったのが、ソ連に対米英戦の仲介者になってもらう策だった。スターリンが日露戦争の敗北とロシア革命時の日本軍のシベリア出兵に対する復讐として、対日参戦の意思をすでに固めていたのも知らず、日本はかつての仮想敵国に歩み寄ったのである。

 1945(昭和20)年8月9日(長崎に原子爆弾が落された日)、ソ連の精鋭部隊は、多くの兵力が南方に移転されたため、もはや若年兵や老兵しかいない満洲の対ソ国境地帯に雪崩れ込んだ。

 そこにいたる過程で繰り広げられる米英ソの冷徹な外交戦略には背筋が寒くなる思いがする。と同時に、場当たり的な日本の外交に強い怒りを覚える。満洲を実質支配していた関東軍は早い段階で、対ソ戦の際には満洲北部を放棄し、朝鮮半島と本土を死守するという方針を立てていた。満洲への移民を奨励され、本国から渡ってきた満蒙開拓団の人々には知らせずに、である。開拓団の人々にとっては、ある日突然、目の前にソ連軍の戦車が現れ、すべてを蹂躙されたに等しい。8月15日は戦争にピリオドが打たれた日ではなく、戦闘が激化する最中だった。

 当時を知る方々の話を聞くと、戦争の記憶をとどめることの難しさを痛感する。たとえば沖縄と満州の日本人では、過去の見方がかなり異なるからだ。

 だが、著者が最後に記すように、「正義の戦争はない」のである。

 戦争の記憶が語り継がれるべきはもちろんだが、国同士が共有すべき歴史認識をつくり上げるのは、戦争を知らぬ後の世代の仕事ではないか。昭和史を深く知る著者の本を読むと、つくづくそう思う。

(芳地隆之)

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