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マガ9レビュー

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本、DVD、展覧会、イベント、芝居、などなど。マガ9的視点で批評、紹介いたします。

vol.82
チェチェンへ アレクサンドラの旅

※公式HPにリンクしています。

『チェチェンへ アレクサンドラの旅』

アレクサンドル・ソクーロフ監督作品

 昭和天皇を演じたイッセー尾形の「怪演」が話題になった映画『太陽』で、日本でも広く知られることとなったロシアの監督アレクサンドル・ソクーロフの新作。新春ロードショー公開される。 (12月20日より。渋谷ユーロスペースにて)

 これまでソクーロフは、ソ連の「アフガン侵攻」を題材にした『精神の声(こころのこえ)』をはじめ、戦争や政治、政治的人物を撮ってきた。その彼が、今回は「チェチェン紛争」に挑んだ。

 戦争を題材にしているとはいえ、『チェチェンへ』のストーリーはシンプルだ。ロシア人の老女アレクサンドラが、チェチェンのロシア軍基地に駐屯している兵士の孫に遥々会いに行く。孫と再会し、基地を見学し、あるいは市場で偶然出会ったチェチェン人の女性と一期一会の出会いをし、再びロシアに帰って行くまでのわずか数日間。それだけだ。戦争シーンは一切ない。だが、ロケはほんとうの基地で敢行された。戦車も実物だ。

 この映画は、戦争のいきさつのあれこれに足を掬われ、結局のところ陳腐な英雄伝のヴァリエーションに堕してしまうといったタイプの映画などとは、一線を画す。それは、物語内容や配役と撮影技術・編集作業の関係をいかに構築するのかという問題に対するソクーロフ独自の関心と関係しているようだ。

 例えば、登場人物がまさに戦場の渦中の兵士であるならば、キャメラアングルやカット割りは、観客に動的に感じられるものが選ばれるだろう。そのダイナミックな展開に巻き込まれるように観客は興奮し、感情は昂る。

 『チェチェンへ』は、このような紋切型の戦争アクション映画の対極にある。なにせ主人公は老女である。早く歩けないのだ。キャメラは、足を引きずるように基地を徘徊するアレクサンドラを淡々と追う。長回しのショットと相まって、それは稀にみる「退屈」な映像空間を構築することに成功している。

 しかもそのショットに被さるように、スクリーン上では焼けて色褪せたセピア調のトーンが常に映像全体を覆う。映画の進行と共に、世界がまさに瓦礫から灰へと化してゆくかのようだ。紛争が先の見えない閉塞感に包まれ、根本的な解決を見いだせぬまま、記憶の深淵へと沈潜し、やがて忘却されんとしている、そんな印象を与えるのだ。が、しかし、この後戻りのできない灰色の現実にひとり抗うかのように、疲れ果てた老女アレクサンドラは、なお彷徨い続ける。

 それゆえ、この「退屈さ」は、映画として「つまらない」という意味では断じてなく、むしろ確信的な「退屈さ」なのだ。つまりそれは、戦争の強大な力による無惨な破壊と、これに対する抗いとの間で行き場を失った「やるせなさ」の映像化のことだ。

 この感覚は、面白いこと、ウケることを狙ったものが、狙いすぎて逆に白けて退屈したといった感覚とは違う。ソクーロフは、戦争の「やるせなさ」という現実を、物語の虚構性を超えて、いわば映画そのものの「やるせなさ」として、映画館内部の全体を紛争の「どうしようもない」感覚として実現しようとした。『チェチェンへ』で、映画の時間は、歴史における「老い」となった。

 物語の後半部、孫が祖母アレクサンドラの髪を編みながら語り合い触れ合う束の間のシーンは、この映画の心臓部といってよい。というのも、この「結い」は、生活のために兵士になるほかなかった孫と、「ソビエト」の記憶を脳裏に留めた祖母が、ロシアの歴史に翻弄され、引き裂かれてしまったがゆえの交流の悲劇のことにほかならないからだ、あたかも別離を確かめるためのように。やがて孫は任務へと戻り、アレクサンドラはロシアへと帰ってゆく。結末を見いだせぬままに向かえる不可能なクライマックス。

 リアリズムの映画が、左であれ右であれ、政治的プロパガンダの手段に墜することなく、映画のリアリズムとして存在できるのであれば、『チェチェンへ アレクサンドラの旅』もその一本に数えることができるだろう。

(北川裕二)

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