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マガ9レビュー

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本、DVD、展覧会、イベント、芝居、などなど。マガ9的視点で批評、紹介いたします。

vol.132

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財田川夏物語

伊藤健治/吉備人出版

 岡山県の小さな出版社が発行した自伝小説である。舞台は1957年夏、香川県西部の小さな町。主人公は11才の少年、加藤篤彦。彼を取り巻く小さな世界の、ほんの数週間の物語だ。何か劇的なことが起こるわけではない。若い世代なら現代とのギャップを感じるだろう。にもかかわらず、本書には読者に懐かしさを抱かせる何かがある。

 篤彦は進行性筋ジストロフィーに冒され、自力での歩行が困難になりつつあった。そんな彼の最大の楽しみは川遊びだ。水面に出ている握りこぶしほどの太さの鉄棒につかまって、流れに身を任せるのが彼は大好きだった。この浮遊感が彼を自由にするからである。

 著者は小説のなかで自分の病気をことさら強調しようとはしない。当時の少年の目に映った風景、触れ合った人々の姿を忠実に再現しようとする。

 「ぎおん」という小料理屋で調理の仕事をする母親、そこで働く仲居さん、無邪気で優しい親友のタケシと守、財田川沿いの小屋で生活する漁師、「ぎおん」の常連客である馬喰(農家に和牛を飼育させ、成牛となる頃、市場へ売りに行く仲買人)を生業とする男性、そして寝たきりになった祖父……。仲居さんの一人娘で、事情があって大阪に預けられている少女、葉子と篤彦の出会いと別れの場面で、私は何度か目頭を押さえた。

 著者は小学校卒業後、タケシや守のような友人たちにサポートしてもらいながら中学、高校に通ったという。高校卒業後は英語塾をしながら、医療や教育についての数多くの論文や提言を発表。ハワイへ留学し、アメリカを車椅子で旅するなど、活動の幅を広げていった。しかし、2006年3月、この小説を書き上げてから間もなく、くも膜下出血で急逝。自分の人生を振り返ったとき、少年時代の夏のひとときが強く心に刻まれていたのだろうか。文面からは川の水の冷たさまでが感じられる。

 私は本の手触りが読書と関係あることを初めて知った。柔らかい布地の装丁、ページ上下の余白と文字の配置、そしてケースに描かれた夜と交じり合う財田川のイラストに、電子書籍では味わえないであろう読書体験をさせてもらった。胸の奥が少し暖かくなった。

(芳地隆之)

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